喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

動かない母のスクーター

2017-04-29 | 家族
 昨夜9時過ぎ帰宅。
入り口には、母の愛用のスクーターが停めている。
 普通車の免許を持っていない母にとって、このスクーターはなくてはならない足だ。
 
 ただ、今は乗り手がいなく、それを思うと寂しくなる。



 26日(水)から入院しているからだ。
 以前から母の疲れた様子が気になっていた。
畑仕事が終わってから「疲れたー」と充血した目をして、弱々しい声をもらすことが多くなった。
朝、起きづらく寝ていることもあった。

 若いころから本当によく働く母だった。
辛抱強く、仕事もテキパキとこなす農家の母。

 私たち子ども4人を教育するために、父と共にまさに身を粉にして働いてきた。
おかげで私も大学まで通わせてもらい、希望した職に就いている。

 斜面のみかん山で作業するのは体に大きな負担がかかる。
収穫した柑橘を背負って運ぶのは、膝に無理を課してきた。
田舎の老人が、膝が曲がり、痛めている人が多いのはこのせいだ。
 母の膝もまた歳を取り、柔らかさがなくなり、凹脚になっている。

 あまりの重労働なので、甘いものがほしくなる。
作業しながら、あめ玉やチョコレート、菓子類を多く口にするようになる。
 これもまた糖尿病の原因となったのだろう。



 糖尿病になってからは、インスリンを打ったり、菓子類をひかえたり。
2年ほど前からは、炭水化物つまりご飯を口にすることを絶った。
そんな食事しかしていないのに、同じような重労働を続けてきた。
 したがって体重はかなり減り、顔も足も細くなってしまった。

 こう思うと、私たち子どもは母の寿命と引き換えに育ててもらったのだ。
恩着せがましいことは何も言わず、ただただ愛情をそそいでもらった。

 そんな母に自分はどれほどの恩返しができているのだろう。
 動くことのない母のスクーターを見て、申しわけなさでいっぱいになる。




 年度初めの4月、仕事は山積みだが、今から母のお見舞いに行きたいと思う。
親孝行できるのも大きな幸せなのだから。


         岬人(はなんちゅう)


 

 

 

なごり雪が降るなか、三崎高等学校を息子が卒業

2017-03-02 | 家族
 昨年の感動のシーンをふり返る。


「3月1日朝。
昨日から降り続いている雪は、今朝も止まず、辺りはうっすらと雪化粧。
今日は、息子の高校卒業式。

 

 息子は、最後の日をいつも通った自転車で行くかどうか、迷っていた。



 結果、大事をとって車で送って行ってもらうことにしたようだ。

 高校生活最後の登校。
30年前、私と同じ時間を息子が再び過ごしている。
何かその年月に不思議な感じがする。

 

 「行って来ます。」
いつもの元気な声で、私と父が見送るなか出て行った。

 雪の卒業式。
それもまた思い出深い。

 春3月。
なごり雪も降る時を知っている。」

         岬人(はなんちゅう)

幸せをもたらすひな人形

2017-02-26 | 家族
 昨日飾られたひな人形。
ひな人形を見ると幸せな気分になる。

 双子の娘たちが飾ったひな人形には、どんな由来や意味があるのだろうか。
豆知識PRESSには、次のように書かれていた。

 「ひな祭りの起源は、季節の節目や変わり目に災難や厄から身を守り、
よりよい幕開けを願うための節句が始まりとされています。

 また、ひな祭りに欠かせないひな人形も、昔は飾るのではなく川に流されていたと聞いたら、
驚くのではないでしょうか?




 ひな祭りの由来を知るには、2つの話を説明する必要があります。
 まず1つ目の話は、「上巳の節句」についてです。
上巳の節句とは中国から伝わった五節句の一つで、三月上旬の巳の日に、
草や藁で作った人形(ひとがた)で自分の体を撫でて穢れを移し、
それを川に流すことで厄払いや邪気祓いを行う風習がありました。

 また一方、貴族階級の女の子の間では、紙の人形を使った遊び、
今で言うところの「おままごと」が流行っていました。
これを「ひいな遊び」と言うのですが、このひいな遊びと川に流す人形(ひとがた)が結びついて
「流し雛」が誕生しました。

 さらに江戸時代になると、人形作りの技術が向上したことで、
川に流すのではなく家で飾るように変化していきました。
 これが、ひな祭りの由来と言われています。


 ひな祭りの元となっている上巳の節句では、特に女の子のための日という概念はなく、
男女共通の行事として厄払いや邪気祓いが行われていました。

 しかし江戸幕府は、それまで日付が変動していた上巳の節句を三月三日と定め、
さらにひな人形を飾ることから、この日を女の子の日と決めたのです。

 こうしたことから、ひな祭りとは単なるお祭りではなく、
女の子の健やかな成長や幸せを願う日と変化していき、今のひな祭りとなっていったのです。




 ひな祭りに雛人形を飾るのは、昔の人形(ひとがた)や流し雛の風習の通り、
お雛様に女の子の穢れを移して厄災を身代わりに引き受けてもらうためです。

 また、厄払いの意味があるので一夜飾り(3月2日から1日だけ飾ること)は避けるべきとされ、
遅くとも2月の中旬くらいまでには飾らないといけないと言われているのです。

 また、桃の花には元々「魔除け」や「長寿」のパワーがあるとされていました。
中国では上巳の節句には、桃の花を愛で、桃の花を漬けたお酒を飲み、
桃の葉が入ったお風呂に入って邪気祓いを行っており、
また旧暦の3月3日はちょうど桃の花が咲くころだったことから、
ひな祭りに桃の花が飾られるようになったそうです。

 ひな祭りを別に「桃の節句」と呼ぶのも、こうした背景があるからです。




 節句とは、暦の上で節目になる日のことです。
年間で5回あり、1月7日(人日の節句)、3月3日(上巳の節句)、5月5日(端午の節句)、
7月7日(七夕の節句)、9月9日(重陽または菊の節句)です。

 節句は縁起が良く、お祝い事に向いている日だと考えられています。
また、奇数が重なる日は、邪気をはらうことができるとも伝わっています。
 子どもの誕生を祝い、邪気をはらって健やかな成長を願うために節句を祝います。
男の子の初節句は、端午の節句(5月5日)に祝います。」




 何ともおもしろい由来や意味。
そんな話も娘たちにしてあげながら、飾られたひな人形。

 幸せをもたらすひな人形。

 飾りつけもまた幸せなひと時だった。

 

        岬人(はなんちゅう) 

娘たちの成長とともに歩んだひな人形

2017-02-26 | 家族
 昨日、16回目のひな人形が飾られた。

 双子の娘たちが生まれた時に、妻の実家から贈られたもの。

 初めの頃は、私と妻が飾っていたが、娘たちが大きくなってきたら、
一緒に飾りつけをしてきた。
 そして今は、娘たちだけで飾れるようになった。



 娘たちは高校の期末テストの時期で、勉強もあったようだが、
城川のおじいちゃん、おばあちゃんから贈られたひな飾りの方が優先だ。

 誕生の時の話やおじいちゃん、おばあちゃんの昔話もしてあげながら、
楽しそうに飾っていた。



 娘たちの成長とともに歩んだひな人形。

 ちなみに、ひな人形とは女性の人形だけではなく、
男性の人形も全てあわせてひな人形という。

 未来に残したいふるさとの風景だ。


                    岬人(はなんちゅう)

 

子どもの誕生日は、親の記念日

2016-11-08 | 家族
 昨日11月7日は、双子の娘たちの16回目の誕生日だった。
自分に置き換えると、双子の父親になって16年目となる。
妻にとっては、お腹を痛めて産んだこともあり、また特別だと思う。

 誕生日とは、子どもにとっても、親にとってもそんな日。

 いつもよりも早く職場を出て家路についた。
途中、いつもお世話になっている田村菓子舗のよっくんに電話をかけ、
「今日娘たちの誕生日なんやけど、ケーキないやろか。」
「金太郎いもタルトと浅野さんちのデコポンろーるはあります。」
「それでは、金太郎いもタルトをお願い。」
ということで、買って帰った。



 夜7時過ぎ、2人そろって帰って来た。
 いつものように隣の母家に寄って、祖父母からお祝いを言ってもらい、
お菓子までもらったようだ。

 私が買って帰った金太郎いもタルトを見て、うれしそうにし、
「ありがとう。」
と言って切り分けて食べた。

 そして次に出た
「お父さん、お母さん生んでくれてありがとう。」
の言葉に、ぐっときた。



 田舎暮らしには、こんな時間とふれあいをもつことができる。
小さな幸せを感じた立冬の夜だった。

             岬人(はなんちゅう)


ばあちゃんの気配り

2016-10-18 | 家族
共働きしている私たち夫婦。
帰りが遅くなった時、食卓におかずの盛り合わせがある。
 母が作ってくれたものだ。
 
 娘が説明してくれる。

「これ、ばあちゃんが、おかずにどうぞ、って作ってきてくれたよ。」
心が温かくなる。
そして思い出すことがあった。

 今は亡き私の祖母が、家族の食事を作ってくれていた。
母は、畑仕事で忙しく昼食や夕食を祖母が作ってくれていた。
 昔の人なので、見た目も味もあまりよくない。
母が作ってくれた方が、当然のことながらおいしかった。

 でも子ども心に、台所に向かい野菜を1つ1つ包丁で切り、
味付けするばあちゃんの姿がありがたかった。
だから、あまりおいしくなくても、文句も言わず食べた。


                  「18年前の祖母とのひとコマ」

 昨夜、そんな幼き頃の思い出が浮かんできたのだ。
妻が作ってくれた方が、見た目も味もおいしい。
でも、「孫たちに食べさせてあげよう。」
「妻のおかず作りの負担を軽くしてあげよう。」

という気持ちが感じられた。


 私が幼き頃にばあちゃんからしてもらったことを、
娘たちもばあちゃんからしてもらっている。
 同じ敷地に暮らす二世帯暮らしのいいところ。
田舎には、そんな良さがまだ残っている。


              岬人(はなんちゅう)

どうして「お母さん」って呼ぶのだろう  ~母は、お日さま~

2016-10-18 | 家族
「痛とーち、いけんのよ。」
最近、母の口からそんな言葉をよく聞くようになった。

 足にしびれがあり、踏んだ感覚があまりなかったり、
膝が痛くて曲げられなかったり。
 長年、重たい荷物を背負い、斜面のミカン畑を動き回った足は、
おう脚になり、外に向けて曲がっている。

 痛みがとれるいい治療院があると聞くと、どこにでも出向いた。
それくらい体に違和感があるのだろう。

 ただ、どこにいっても根本的によくならず、痛みをこらえながら
毎日ミカン畑に行き、作業している。

 本当によく働いた母。
手を合わせたくなるような気持ちがおこる。

 写真は、6年ほど前に知り合いのりえちゃんが撮ってくれたもの。
黙々と柑橘を選果する母の雰囲気が伝わってくる。
この写真がとても気に入っている。

今は糖尿病の食事制限で、かなりやせてしまっている。



 【おかあさんの語源】というおもしろい記事があった。

『 男は奥さんのことを「かみさん」と言ったりします。

これは元々「日身(カミ)さん」だったそうです。

この“日(カ)”は「太陽」をあらわす。
日にちを数える時に、「にち」以外によく「か」という呼び方をする。
例えば、2日の呼び方は、ふつか。

“身(ミ)”は「身体」をあらわす。

つまり「日身(カミ)さん」で、“太陽の身体”

そういえば、20年に1度の式年遷宮を行った伊勢神宮にまつられている、
「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、
女性の神様で、全ての人の租神様(おやがみさま)とされている。
太陽・光・慈愛・真実・秩序を象徴する最も尊い神様。

 お母さんはいつも明るくて、あたたかくて、
しかも朝、昼、晩、と食事をつくってくださって、
わたしたちの身体を産み、育ててくれる。

母親はまさに“太陽さん”そのものだから、
お日身さんと呼び、
「日(カ)」の古い言葉の「カアカア」から「カカア」に・・・

 子どもたちは「うちのカカさま」と言うようになり、
いまの「おかあさん」になった。

「おかあさん」の“か”は、
太陽だったんです♪

だから、女性は太陽のように輝いているのでしょう♪

「日本のこころの教育」境野勝悟 著 致知出版より  』


 元始、女性は太陽だった。
お母さんは、太陽のような存在。

 平礒には、一人暮らしの年老いたお母さんもいる。
子どもたちは都会に出てしまい、夫は先立ち、残って一人で。
 都会の子どもたちもふるさとに暮らす母のことが気になる。
母は、正月に子どもたちが帰省することを楽しみにしている。
かつては、その家も大勢でにぎやかだった。

 親孝行しないといけないな~。
秋の夜長、そんなことを思った。
                    岬人(はなんちゅう)

帰省した息子と夜遅くまで語り合う

2016-05-05 | 家族
 4月30日に帰省した息子が今朝出発。
帰省したといっても家を出てまだ1カ月しか経っていない。
 田舎で育った息子にとって松山とはいえ、家を出て暮らすことはどんなものなんだろう。

 うわさでは髪を染めているとのこと。
前々日の夜に電話し、穏やかな口調で伝えた。
「髪をきちんとして帰れよ。」
「うん。」
 まだまだ言われたことを素直に受け入れる気持ちはあるようだ。
 
 帰ってきた夜、すぐさま
「お父さん、飲もうや。」
「お前はまだいけんやろ。」
 1か月前までこんな社交的なことを言うような子ではなかった。
 この夜は、学校のこと、寮生活のこと、友だちのこと、社会のこと、30年前の私の巣立ちのことなど
いろいろなことを夜遅くまで語り合った。
 最低限なことだけを話していた1か月前とは大違い。

 娘たちもそんなことを感じていて、
「兄ちゃん、おだやかになったなー」
とのこと。


 一昨日の夜も、いろいろなことを語り合った。 
 
 食卓に並んだのは、北海道の知り合いの宮嶋さんから送ってもらった新得共働学舎のラクレットチーズ。
知り合いの稲見さんからいただいた貴重なフランスのMIRAVAL(ミラバル)ワイン。
そしてこれまた知り合いからいただいていたゴディバのチョコ。
 贅沢な一品ばかり。




 その品々を息子に説明してあげながら、ありがたくいただいた。
息子も「うまっ。」の声を連発。



 これらのものは、農業をめざし勉強している息子にとっては、大いに刺激となったことだろう。

 
 わずか1か月のことだが、息子の変化を感じている。
自立のため、巣立つことの大切さ。

 多くの人との交わり、そして数々の経験。
それら全てが成長の源となっているようだ。
 どんどん吸収して帰って来て、ふるさとを盛り上げていくことを期待している。

「次はいつ帰れるん?」
と聞くと、
「6月の2週間の北海道農業研修が終わってからかな。」
と答えが返ってきた。

「そうか。まためずらしい土産話を楽しみにしちょるけんな。」

 若者には夢がある。



        岬人(はなんちゅう)

 

 

 


ばあちゃんの思い

2012-10-18 | 家族
 最近、忙しくブログの更新ができないでいた。
昨夜まで、三崎地域それぞれの地区で、人権・同和教育懇談会があり、
連日講師として参加していたため。

 夜9時過ぎに帰宅。
皿におかずが盛られていた。
 娘が説明してくれた。

「これ、ばあちゃんが、私たちの明日の陸上大会のおかずにどうぞ、って作ってきてくれたよ。」
心が温かくなった。
そして思い出すことがあった。

 今は亡き私の祖母が、家族の食事を作ってくれていた。
母は、畑仕事で忙しく昼食や夕食を祖母が作ってくれていた。
昔の人なので、見た目も味もあまりよくない。
母が作ってくれた方が、当然のことながらおいしかった。

 でも子ども心に、台所に向かい野菜を1つ1つ包丁で切り、
味付けするばあちゃんの姿がありがたかった。
だから、あまりおいしくなくても、文句も言わず食べた。

 昨夜、そんな幼き頃の思い出が浮かんできたのだ。
妻が作ってくれた方が、見た目も味もおいしい。
でも、「孫たちに食べさせてあげよう。」
「妻のおかず作りの負担を軽くしてあげよう。」


という気持ちが感じられた。

 私が幼き頃にばあちゃんからしてもらったことを、
娘たちもばあちゃんからしてもらっている。

 今日は、伊方町の小学校陸上競技大会。
ばあちゃんも、じいちゃんも応援に行くとのこと。
 娘たちには、そんな思いも受けてがんばってやりきってほしい。

          岬人


家族を大切にしたいなら…  

2012-09-14 | 家族
 陰山コラムより

『30年前、家族が一番と思う人は少数派だったが、
今は一番多い。

 希薄化したのは、家族関係だけではない。
親戚や職場、地域の人間関係だ。

 だからこそ、相対的に家族が重要となり、
その家族関係が危機になると、
修正してくれる親戚などいないため、
一気に悲劇になる。

 家族を大切にしたいなら、
家族だけでなく、
周囲の関係を大切にするべきなのだ。』


 全くその通りだと思う。
気軽なホームパーティーなどをじゃんじゃん
したらいいのに。

 そのためには、妻の理解が必要不可欠

            岬人(はなんちゅう)

「おくりびと」そして「おくられびと」

2012-06-26 | 家族
 しばらくぶりのブログ。
あまりの辛さゆえ、書く気持ちがわき起こってこなかった。
 そしてようやく。

 6月20日夜9時過ぎ。
私と子どもたちは夕食をすませ、くつろいでいた。
そこにお見舞いに向かった妻からの電話。
「お父さんが亡くなったんよ。」

 おもわず「えーっ」という、驚きとため息の声しか出てこなかった。
義父との18年間の思い出が頭をかけめぐった。
同時に体からこみあげる熱いものを感じた。

 明るく照れ屋の義父だった。
初めて妻の家を訪れたときも、かた苦しいあいさつはほどほどにして、
「まあ、飲みなはいや。」
と声をかけられ、ビールをついでもらった。
一気に緊張が和らいでいったことが昨日のことのように思い出された。
 
 それ以来、義父とはよく飲んだ。
飲むほどに、息子に近づいていけたように思う。
私にとっては、二人目の父だった。


 人は、誰しも
「おくりびと」となる。
そして、誰しも「おくられびと」となる。

 1ヶ月にわたる集中治療。
6月20日、午後8時39分。
 79歳の誕生日をむかえた翌日のこと、
父は「おくられびと」となった。

 何らかの形で父のことを残しておきたいと思い、
ようやく書きとめることができた。

                    岬人(はなんちゅう)