喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

日本語をしゃべれない喜久家ボランティアとの交流

2017-01-06 | 喜久家ボランティア
 ただ今、喜久家ボランティアとして活動してくれている南フランス出身のルシアンとの交流。
ルシアンは、日本語も英語もあまりしゃべれない。
もちろん、私たちもフランス語はしゃべれない。

 それでも簡単な単語を使ったり、身ぶり手ぶりで伝えようとする。
その一生懸命さがいい。
相手の人間性が感じられる。

 ルシアンは、すごく誠実な青年。



 写真は、アイフォンで通訳アプリを使って、交流してる場面。
こちらが日本語でしゃべるとそれをフランス語に翻訳して、音声で出てくる。
精度があまりよくなく、おかしい通訳も多いが、それでも何とか伝えようとして、交流を楽しんでいる。

 言葉は便利だが、万能ではない。
言葉以外から伝わる部分もとても多い。
伝えよう、聞き取ろうという気持ちがとても大切。

 日本語をしゃべられないフランス人のルシアンから学んだことだ。


               岬人(はなんちゅう)

ルシアンからのクリスマスの贈り物

2016-12-25 | 喜久家ボランティア
 昨日12月24日は、クリスマスイブ。
 数年前、高校1年の娘たちに我が家のサンタクロースが見つかって以来、
我が家にはサンタが来ない。

 子どもにとっては盛り上がらないクリスマス。
我が家はクリスチャンではないので、それもしかたないといっても、
やはり楽しみは多い方がいい。

 クリスマスイブなのに特別な用意もなく、
いつものような夕食になろうとしていた。

 その時、お客様が来た。
喜久家ボランティアのルシアンだ。
 今夜はクリスマスイブということで、何とフォアグラ料理とパンケーキを持って来てくれたのだ。



 ルシアンは、南フランスのコートダジュールにあるアンティーブ出身。
フランス料理には世界三大珍味のフォアグラがよく使われるらしい。

 初めて見る、そして初めて食べるフォアグラに娘たちも興味津々。
 ガチョウやアヒルなどにたくさんの餌を与えることにより、肝臓を肥大させて得る。
フランスではクリスマスや祝い事の伝統料理(ご馳走)となる。
濃厚な味であるため、フランス料理の食材の一つとなり、宮廷料理となったり、美食家、富裕層に食される。
生産も消費もフランスが最も多い。

 せっかくのごちそうなので、ワインといっしょにいただく。


 何とも言えない初めての食感と濃厚な味。
ワインにピッタリ。
まさかこの歳で、超田舎の平礒で世界三大珍味のフォアグラを食べられるとは。

 ルシアンに感謝。
世界のいろいろなところから来てくれる喜久家ボランティア。
その文化や環境のちがいから様々なことを感じさせてもらえる。

 ルシアンのおかげで今までにない初めてのクリスマスイブとなった。



 違いは、豊かさにつながる。

      
        岬人(はなんちゅう)


行ってらっしゃい、ジョー

2016-12-16 | 喜久家ボランティア
 昨日、約3か月にわたり平礒、喜久家で活動してくれたフランス、パリ出身のジョーが出発した。

 夕方4時頃、職場に寄ってくれた。
日本が大好きな、田舎の平礒が大好きな本当、すばらしいジョーだった。





 感謝と再会の願いをこめて、お互いがハグをした。
そしていつもの言葉で見送った。

「ありがとう。また会おう。行ってらっしゃい。」
 
         岬人(はなんちゅう)
 

台湾出身のゴーとシュー 「行ってらっしゃい。 また会おう。」 

2016-11-19 | 喜久家ボランティア
 今日、台湾のゴーとシューが今日19日に出発した。

 ゴーは、ワーキングホリデー制度を利用して昨年末から来てくれて活動してくれた。
シューは、1か月前から。

 2人とも以前、喜久家ボランティアとして3か月、活動してくれた。
あの時の経験がよかったのだろうか。
郷帰りだ。

 昨夜は最後の夜だったので、飲み物と食べ物をぶら下げて喜久家へ上がった。

 いろいろな話に花が咲いた。
本当に、おだやかで、楽しい2人だった。

 

 後に残る者は寂しい。
フランス出身のジョーとルーシャン。
これまでの4人での共同生活。
きっと忘れられない思い出となっただろう。



 今朝11時頃に職場に最後のあいさつを言いに来てくれた。
別れの時はやはり辛い。
胸にこみ上げてくるものをぐっとこらえ言った。

「行ってらっしゃい。また必ず会おう。」

 喜久家に、そしてそれぞれの心に、また一つ大切な思い出ができた。

 喜久家の物語は、続いていく。

                     岬人(はなんちゅう)

          
 

平磯の裏側、パラグアイでまちづくりをするもと喜久家ボランティア

2016-10-23 | 喜久家ボランティア
 6年前、平成22(2010)年のなつかしいブログ。

 地球の裏側パラグアイで、
青年海外協力隊員として活躍されている、
もと喜久家ボランティア市前寛子さんからのメッセージの続きです。


『私はパラグアイ南部の日系移住地ピラポに住んでいます。
ここは、8箇所ある国内の移住地の中でも
日本気質が、色濃く残っています。
 NHKも見られるし、インターネットも見られて日本の状況はリアルタイムで把握できますが、
昔の日本がそのまま存在しているところと言われています。
 おやつには手つくりのかりんとうが出てきます。

 私の仕事で言うと、
高齢者のほとんどの人が家族と同居していて年相応の体の不調や物忘れはあるけど、
自分のペースで元気に生活しています。

 家族それぞれ事情はあれど、
家族が面倒をみるのは当たり前という考えの人が多いところです。
 130人くらいいる70歳以上の高齢者に対して、
50歳以上の主婦のおばちゃんたちがボランティアグループを結成してデイサービスをしたり、
家庭訪問をしています。
 私は、そのおばちゃんたちにデイサービスの運営の仕方や介護に必要なことの情報を提供しながら、
一緒に活動しています。

 移住地の人たちは、助け合いながら生きてきたので絆がとても強いです。
私は、どっちかっていたら都会育ちなので横のつながりを知らないで育ちました。
 
 平磯も、年齢が違っても意見を言い合って、1つ1つのことを決めていたことを見ていたので、
こっちにきて戸惑うことも多かったけど、
毎日が勉強になることばかりです。
 正直、自分の無力さに落ち込んだり、
地元の人たちが理解してくれなかったり、怒れることが多々あります。




 でも最近、私は高齢者福祉活動を通して町づくりをしているなと感じてます。
全然程遠いですが。

 高齢者をいきいきさせることで、
若い人たちが将来のことを考えてくれるようなイベントを開催してみたいなと思うようになりました。

 平磯にいたのはたった3ヶ月でしたが、
まちづくりや人と繋がるということを考えるきっかけになりました。
 そして、いまは本格的に勉強してみたいと思っています。

 この長文のなかで伝えたっかたのは、
このきっかけを作ってくれた平磯に行って本当によかったということです。

 そして、アンちゃんと知り合えたことも。

 来年の6月に日本に帰国します。
帰ったら、平磯に行きたいと思っています。
その時にたくさん話が出来たらなと楽しみにしてます。
 突然の長文読んで下さってありがとうございました。

 それでは、みなさまによろしくお伝えください。
くれぐれもお体にご留意下さいませ。

 平磯の裏側 パラグアイより 市前寛子』




 感激です。
 私たち平礒の人たちは、また喜久家の仲間は、
いつも心のどこかに、
「来てくれた若者たちに何か残してあげれたものはあるだろうか?」
と自問自答しています。

 私たちの不安や悩みをよそに、
若者たちは、多くのことを感じとってくれているのかもしれません。
 それが、岬の宝物なのでしょう。

 寛子ちゃんの帰国を楽しみに待っています。

「reaching home」

                 岬人(はなんちゅう)  


南米パラグアイより 市前寛子さんからの便り 

2016-10-23 | 喜久家ボランティア
 6年前のなつかしいブログを読み返した。

 喜久家には、さまざまな若者が
国内外から来てくれます。
 そして、とびっきりの経験をして、
また旅だって行くのです。

 ツバメのように、またいつか帰って来てくれることを
願いながら見送ります。

 そんな中、喜久家を旅だって行った一人の女性から
メールが届きました。



 その人の名は、市前寛子さん。
まるで女優のような名前。
 もの静かですが、芯の強い心を持った女性でした。
高校卒業後、希望だった介護の仕事をしてきました。
そんな中、もう一つの夢がしだいに大きくなっていきます。
 それは、「青年海外協力隊」

「今だからできる経験をしておきたい。」
そんな強い想いで、長年勤めた職場も辞め、
青年海外協力隊実現への経験を積むために、喜久家プロジェクトに参加してくれたのです。



 
 では、そんな寛子ちゃんからのメッセージをどうぞ。

『こんにちは。

 ご無沙汰しています。
パラグアイにいる市前寛子です。
浅野家の皆様、平磯の皆様、お元気ですか?
覚えてくださっていたら嬉しいです。

 少し前に、インターネットを見ていたら、
喜久家のブログを見つけてみてたら1年ぶりに
アンちゃんからメールが来てびっくりしました。
それから、時々のぞかせてもらっています。

 早いもので、こっちに来てから1年3ヶ月が過ぎました。
南米に1年以上いると、
 さすがに日焼けしてこっちの人らしくなってきたなと言われてます。
日系移住地にいるので、ちっともスペイン語は話せませんが・・・。

 W杯で日本と対戦したので、
パラグアイの知名度が上がったと聞きました。
 
 日系移住地でみたサッカーは、めったに出来ない経験が出来ました。
パラグアイはサッカーが国技なので、
当日日本のユニホーム(偽物)を来て歩くと身の危険を感じました。』

 続く

喜久家ボランティアたちとの不思議な縁とつながり

2016-10-11 | 喜久家ボランティア
2泊3日で郷帰りしていた、もと喜久家ボランティアの薫ちゃんとみおちゃん。
昨夜2人とも無事京都と東京に着いたようだ。

 2人からそれを知らせる連絡があった。
気になっている方としては、安堵する瞬間だ。

 併せて、今回の感激についても語ってくれた。
「長武さんのおかげで、藤原先生や阿達先生、福岡さんとお知り合いになる事ができて、
また色んなお話が聞けました!
 縁とか繋がりって不思議ですね」


 私にとってもすてきな2人に会ってほしい人たちなのだ。
出会いは、お互いにとって変化のさざ波をもたらす。
 まさに、「人は、人によりて、人となる。」


 2日目、9日(日)最後の夜。
実家の縁側で夕食を楽しんだ。
 娘たちも交流し、将来の自分のイメージを膨らませたことだろう。


 3日目、10日(月)出発の朝8時前。
ちょうど良あんちゃんもいたので、実家の前で記念写真。




 2人とジョーは、この後誘われてヨットに乗らせてもらうために出発。

「ありがとう。よー、帰って来てくれたな。また帰っておいで。
行ってらっしゃい。」


 みんなが乗り込んだ車を見送る良あんちゃんと私。
やはり寂しさが残る。


 車がゴーロをまわり、見えなくなるまで手を振る。


 いつだって帰って来ていい。
ここは、みんなの第二のふるさとだから。

               岬人(はなんちゅう)

 

フランスから喜久家ボランティアが参加

2016-09-25 | 喜久家ボランティア
 昨日フランスから喜久家ボランティアが来てくれた。

 ちょうど二名津から父の妹の浜田のおばちゃんと暁美ちゃん、
そして生まれが平礒の房子おばちゃんも来ていた。

 母家の縁側でいろいろな話に花が咲いた。





 夜11時を過ぎた頃、喜久家の2人は帰った。
その後も盛り上がるみなさん。



 結局、1時を回っていた。
 秋の夜長。
田舎のこんな時間が気に入っている。


        岬人(はなんちゅう)

どうしてこんなに喜久家に帰ってくるの?

2016-09-11 | 喜久家ボランティア
 3日前の8日木曜日。
昨年H27年3月の国際ワークキャンプに参加した夏ちゃんが平礒に帰ってきた。





 というのも、9日の朝出勤しようとしたら、向こうから歩いてくる2人。
1人は今ワーキングホリデーを利用している台湾のゴー。
そしてもう一人の女性は? 何と夏ちゃん。
帰って来るとは知らされていなかったのでびっくり。

 握手をして、いつものあいさつが始まる。
「夏ちゃん、いやー、びっくり。おかえりー。」
前夜に帰ったばかりなのに、早速仕事の手伝いに来てくれたみたいだ。

 彼女にはいつもびっくりさせられる。
少しの暇を見つけては、東京から帰って来てくれる。
1年半の間で、何と今回で6回目。
 観光でもなく、すぐにわが家や貴光の柑橘仕事を手伝ってくれる。

 ということで、昨夜土曜日は、息子武蔵も松山から帰って来ていたので、少しばかりの懇親会。
高1の娘たちも東京の大学に興味があるみたいで、やってきた。
夏ちゃんが通う早稲田大学や大学生活のことなどを目を輝かせて聞いている。



 今年4回生の夏ちゃん。
進路について聞いてみた。

「以前は生活を便利や豊かにする物づくりについて興味があったんですけど。
その物の価値って、わずかな時間に過ぎないと思うんです。
すぐにまた新しい物がどんどんと生まれてくる。
 その一方、人を育てる教育って、その子どもたちを通して、
何十年も先の未来に影響していく、すごいことだと考えるようになりました。」




 夏ちゃんのそんな話を聞いていて、とてもうれしくなった。
人づくりは、地域づくり。そして未来づくり。
 それは学校の教師に限ったことではないのだけれど。

 喜久家ボランティアの若者たちはこの田舎に来て、
癒されたり、元気を蓄えたりするのだろう。

 そして田舎に暮らす私たちもそんな若者たちから元気をもらう。

 いいなー、こんな違いが多い者の交流って。

              岬人(はなんちゅう) 


中国からの喜久家ボランティア 

2016-02-15 | 喜久家ボランティア
 今、喜久家には、ワーキングホリデーとして台湾の呉が活動してくれている。
あわせて、喜久家ボランティアとして中国アモイ出身のチンが平礒を盛り上げてくれている。

 13日(土)の夜、我が家に招待して簡単なホームパーティーをした。
カレーライスをいっしょに食べ、お酒を少し飲みながら、さまざまな話で盛り上がった。

 チンは、2年前の高校3年生になったとき日本に来て、日本語学校で勉強してきた。
猛勉強のすえ明治大学に合格し、この春に入学することになっている。

 観光に興味があり、そんな仕事につきたいという希望がある。
その理由について熱く語ってくれた。

「私は中国が大好きで大切です。
でも中国人の海外でのマナーが悪いことが気になっています。
 文化や習慣、考え方が違うこともその理由の一つですが、旅行業の仕事を通して外国のことを伝え、
他国の人とのギャップを埋め、
両国の人の交流を進めていきたい。」


 そんな話を聞きながら、私も息子も感心した。
息子は歳も近いので、自分の考え方を見つめ直すいいきっかけになったようだ。



 チンや呉のような違いと交わりながら、地域が少しずつ変わっていく。



              
            岬人(はなんちゅう)

喜久家の夢を語る

2015-11-08 | 喜久家ボランティア
 昨夜11月7日、NPOナイスの職員ヤスが喜久家の様子を見に来てくれたので、ちょいと一杯。

 喜久家の始まりからさまざまななつかしい思い出、現状、これからの可能性など
さまざまなことを語った。

 若者、よそ者、ばか者たちが、田舎をカラフルで元気な場所にしていく。
ボランティア活動を通して人がつながり、成長していく。
NPOナイスの取り組みは、本当にすばらしい。

 フィンランドのヤッコの活躍がすごい。
カナダ、モントリオールのナタのバイタリティもすごい。
ヤスは昔と変わらず、熱い男。


 秋の夜長、田舎の熱い夜だった。



          岬人(はなんちゅう)

喜久家ボランティアの旅立ち ~ロシア出身のアンナ~

2015-10-31 | 喜久家ボランティア
 10月28日のふり返りブログ。

 ロシア、ペルミ出身のアンナの旅立ち。



 アンナの言葉にぐっときた。

「さようならは、言わないよ。」



「じゃあ、またね。」
の返事をする。

            岬人(はなんちゅう)


喜久家ボランティアの旅立ち ~ベトナム出身のミン~

2015-10-31 | 喜久家ボランティア
 10月23日のふり返りブログ。

 今年の夏はいつもの夏以上ににぎやかだった。
ロシアのアザト、フランスのソフィアン、そしてベトナムのミン。

 8月末にアザト、ソフィアンが旅立つ。
すぐにフィンランドのヤッコ、ロシアのアンナが入ってきたのでまた3人でにぎやかな生活。

 そしてついにほぼ3か月の活動を終え、ミンの旅立ちの日がやってきた。
2日前の10月21日。
いつものように慰労会を弟の部屋で行った。

 ミンは、アルコールを全く飲まない。
それでもニコニコとまるで飲んでいるかのように場を和ませてくれる。
そんなミンをみんな大好きだった。



 ベトナムに帰国してからすぐに卒業式を迎え、その後日本かアメリカで働きたいと考えている。
「ベトナムのために働かないの?」
とたずねると、
「今のベトナムの国づくりは好きじゃない」
との返事。

 様々な事情や考え方があるようだ。

 23日の朝。
ついに旅立ちの日がやってきた。
私も出勤を遅らせ、ミンを見送りたいと思った。
待っていると、大きな荷物をさげ、ミンが我が家の前の道路にやってきた。

 髪型を整え、サンダルではなく靴をはいている。
そんな旅立ちのかっこうを見ると、やはりさびしさがこみあげる。

 この暑い夏、ミンたちの作業によって、どれほど助かったことか。
「ミン、これまで本当にありがとう。おかげで助かったよ。」
とお礼を言うと
「あっ、はい」
と短い返事。
目をしっかりと合わそうとしないミンの目に涙がうるんでいた。
それを見て、涙をこらえるので必至だった。

 世界の人口約72億9000万人。
まさに奇跡としかいいようのない出会い。
おかげで人生が豊かになった。

 私は出勤のため車に乗りこみ、いつものように呼びかける。
「じゃあ、またね。」
「はい。」というミンからの返事。

 きっとまた会える気がする。

 喜久家には、また一つ物語ができた。


             岬人(はなんちゅう)




ベトナム出身の Minh Thuc (ミンチュク)の送別会

2015-10-24 | 喜久家ボランティア
 10月21日(水)のふり返りブログ。

 9年目に入った喜久家プロジェクトで初めてのベトナムからのボランティア。
名前は、ミンチュク。
にぎわいを見せるホチミンから車で5時間のPhan Thiet という漁村で生まれた。

 アジアの人たちに共通していることは、人がいいということ。
そんな中でもベトナム出身のミンは人がいい。
素朴で誠実な青年。

 8月3日に来て以来、様々な活動に参加した。
ロシア出身のアザトやフランス出身のソフィアンとともに。

 夏の暑い中での農作業を中心に、盆踊り、消防団の飲み会、二名津のわが家ライブ、
三崎高校や三崎中学校の運動会、伊方中学校での授業、そして地域の人との交流など。
こんなに盛りだくさんの活動もそう多くない。

 いつもニコニコと周りを和ませる。
いじられることもたびたび。
そんなミンをは人気者だった。

 多くの思い出を作り、出発の日がせまった。
10月21日(水)、ボランティア3人で亀ヶ池温泉に行った後、
弟の部屋で送別会を行った。

 高校3年生の武蔵。
喜久家の集まりが大好き。
いつも顔を出している。
 兄のように慕っていたミンと。



 それぞれが色々な話で盛り上がった。
幸徳と武蔵とロシア出身のアンナで盛り上がっている。



 実に楽しそうに。
夢のある話に花が咲く。



 フィンランド出身のヤッコも酒を飲んで上機嫌。



 弟と益田君も何やら仕事について熱い話をしていた。



 いいなー。
こんな出会い。
暮らしが、人生が豊かになる。


 ミンのおかげでほろ酔い気分。

        岬人(はなんちゅう)

 


ベルギーチョコ ~クラウディアからの贈り物~

2014-01-27 | 喜久家ボランティア
 2月14日のバレンタインデーに向けて、店頭にはすでに多くのチョコレートがならんでいる。
先週、「ベルギーからの贈り物」が届いた。
なかみは、何とベルギーチョコのつめあわせ。
見ているだけで幸せな気持ちになるような。

 贈ってくれたのは、ベルギーのクラウディア。
彼女は、昨年夏3ヶ月間、喜久家ボランティアとして活動してくれた。
真夏の猛暑の中、イタリアのポタといっしょに草刈りなどの下仕事をしてくれた。

 明るくて、かしこくて、日本が大好き。
今年の秋、再び日本に来る予定。





 
 ベルギーと言えば、ビールとチョコが世界的に有名。
ゴディバ、ガレ、コード・ドール、メリー、ノイハウス、ウィッタメールなどは、ベルギー王室御用達にもなっている。

 クラウディアからの贈り物は、Cote D’or (コートドール)というメーカー。



 何でも調べてみたくなる。さっそく調べてみた。

「カカオ豆に、焙煎にこだわり、濃いチョコレートを望む人々の心を離さないコートドールは、
ベルギーでトップシェアを誇る本格派のチョコレートブランド。
創業以来120年に渡って世界中で愛されています。

 日本でいえば明治のチョコに当たるような、ベルギー人なら誰でも知ってる庶民派チョコです。

 創業は1883年。
豊富な石炭資源と植民地政策を背景にベルギーがぶいぶい言わせていた時代です。
 2人のベルギーチョコレート職人の
「最も濃い、チョコレートらしいチョコレートを届けたい」
という思いから始まった。

 2人は最も高貴なカカオ豆を探して世界中を歩き、ついに西アフリカの黄金海岸(Cote d'Or)で理想的な豆と出会った。
そして、その地をブランド名に、「最も濃い=強く、高貴な」アフリカの象徴として、白い象をシンボルに掲げた。」






 産業が栄えて、高価なチョコを買える裕福な層がいて、しかもアフリカに足がかりがあった・・・
産業革新&植民地時代の豊かなベルギーの様子がうかがえる。

 ひとくち食べてみると、その違いがすぐに分かる。
日本のものに比べると味が濃い。
最高級カカオを極細にして使っているため、すばらしくまろやか。

 しかもヤシの実、マンゴーなどの植物油を使わず、カカオバターだけを使っているこだわり。



 本物の味へのあこがれが強い。
それは、ふるさとの海の幸、柑橘に対するものと同じ考え。

 そしてそれを贈ってくれたクラウディアの気持ちを思うと、さらに幸せな気分に満たされる。
喜久家プロジェクトでの出会いが、このように未来へもつながっていく。
 出会いって、おもしろい。
 出会いって、感動。
 出会いって、未来を拓く。


 そんな喜びを感じながら、おいしいチョコをいただく。

                          岬人(はなんちゅう)