僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

それがどうした

2006-03-23 | Weblog
ブログ2日目。早速昨日の決断はどこへやら、ちょっと別の書きたいことができたので、「こんな人が好きシリーズ」は明日以降に繰り下げということで。

「それがどうした」という考え方が大好きなのです。
なんたっていつでも誰にでもこう言うだけで、およそ、物事をリセットする力がある。
例えば、

〈社長に〉
仕事でヘマをする→「それがどうした」と言う→会社に縛られなくなる=人生をリセットできる。

 〈ヤクザに〉
脅される→「それがどうした」と言う→少なくとも記憶が飛ぶ目に合わせてもらえるか、思考する必要のない世界へ誘ってもらえる
=来世までリセットできる。

〈奥さんに〉
浮気がばれる→「それがどうした」と言う→真夏でも凍えるほどの家庭内温度になる
=地球温暖化をリセットできる

どうよ?この恐るべき力。さて、ここから先は冗談抜きの話やけど、俺はこの「それがどうした→リセット=対等・平等」と考えているので、誤解を恐れずに言えば、いわゆる身障者と呼ばれる方々に対してもこの気持ちを持って接している。もちろん五体は人間の基本なので、その機能が一部でも働かないということがあれば、明らかに社会的に不利だし、その方々に対して俺たちが労わりの心を持って接するのは当然だと思う。社会保障も充実させるべきだろう。それは理解しているつもり。

でも、同情はいけない。同情する気持ちは自然やけど、自然な気持ちが相手を尊重しているかといえば決してそうじゃないから。

いつか仕事でバリアフリー展に行ったことがある。
そこには車椅子の人をはじめ様々な障害をもった方々が大勢いたんやけど、皆、五体満足の俺よりもはるかに生き生きとしていて、なんかとても自分が恥ずかしく感じた。たぶんその人たちは、体のどこかが不自由なことに「それがどうした」という気持ちを持っていて、もっと言えば五体満足な俺たちにも「それがどうした」という気持ちを持っておられるんやと思う。

そういう方々は社会的弱者であっても人間的弱者ではない。
人間として対等に向かい合わなければ失礼やと思う。
つまり「それがどうした」とは相撲でいえば、「はーっけよい」。
“同じ土俵で”人間同士が正々堂々と向かい合う姿勢なのだ、と思うのです。