僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

体罰を考える

2013-02-05 | Weblog
体罰が大問題である。
早速だが、何故問題か、ということについての色々な意見について考えてみたいと思う。

①理不尽だから
 体罰を加えることで競技者のスキルが上がることは理論上あり得ない。

確かにそうだとは思う。でも物事は全部理屈通りなんかできるわけがない。
そもそも、社会は理不尽で出来ているといっても過言ではないのだ。それに耐えるだけの精神力を身に付けるためなら理不尽な体罰は、とてもありがたい教育ではないのだろうか?

②とにかく暴力だから
 愛情がある、とかナントカの判断はとても難しいし、なにをどうしたところで暴力に等しいわけで、暴力で人をどうにかしようという考え方はテロと同じ。

まぁ、これも確かにそうだと思う。ただ「暴力」と「望力」の違いは間違いなくあるだろう。私は娘に何度も手を上げたことがある。言っても分からなければ体で分からせる。してはいけないことは絶対にしてはいけないと教えるためにはそれも止む無しと思った。結果娘は今立派に母親としてやっているし、自分の子供をしっかりと躾けている。子供の将来を思い、正しい道を歩んでほしいと望む、という愛情があれば、それは決して「暴」力ではないと思う。


③信頼関係がないから
 信頼関係があれば、体罰も教育の一環となり得るがそれがないとただの暴力である。

同じく、これもごもっともである。がしかし、②の話でもあるように、そもそも体罰を加えて(受けて)いる時に信頼関係があるかないかなんて分からりゃしないのである。それが愛情であったか、体罰であったかは、何年、もしくは何十年も経ってから分かるもので、その時初めて信頼関係ができるのだ。体罰をはじめ、ぶつかりあいなしに信頼など生まれるわけがない。

とまぁ、私なりの意見を書いてみたが、こうしてみるとどうも私は体罰容認派みたいだが、もちろん、これが原因で自殺に追い込まれた方がいる訳で、なんでもかんでも許されるとは思わない。

しかし、「世の中は理屈通り正しく物事が進む場所ではない」ということは万人に共通なことだと思う。もちろん、世の中に出てからそれを学んでも遅くはないのだろうが、若いうちに理不尽に耐える力をつけておくのと、そうでないのとでは、耐性や対応力に大きな差がでる。

何も体罰でなくてもいい。でも理不尽に耐える力をつける訓練は絶対必要だと思うのだが、どうだろう。