・・・何度も、何度も書き込んできたが・・・「松浦武四郎」の断片記事の文字の「?」・・・「北海道=蝦夷」で生まれたのに、まッたく「北海道の歴史知らずの人間」だった。小中学校、高校でも教えられるコトもなかった。暇(ひま)な時間をロスアンジェルス滞在中に「ひのもと文庫」に通い、日本語の書籍を借りてきては読書三昧・・・ロスアンジェルスでの生活は「日本語の不自由」はまったくなかった「日本人社会」での環境・・・ボクの二度目の渡米、何が目的だったんだか。兎に角、聴き取れない英語の勉強なんて、そっちのけ・・・今現在、ブログで調べたら、「天理図書館のロサンゼルスのアメリカ伝道庁の『ひのもと文庫』が開館されたのは1954年5月29日」とあった。
・・・『ひのもと文庫』で日本語の勉強。そして、日系人のコト(歴史)を知ったのが下宿させてもらった広島から「アメリカに移民」した老夫婦のハナシを通して・・・「一攫千金のハナシをモノガタリ」にしようと、書き始めたのが、ボクの「ド素人の小説」・・・
↓
「エメラルドブルーの謎
(碧き眼の人形伝説)」
初稿1979年ロスにて
改稿1988年
改稿1993年
改稿2004年
by goro naie
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/blue/blue9a9.htm
・・・帰国に際しては「古本の大蔵経(大正新脩大藏經・大正一切経刊行会)・大正13年(1924年)~昭和9年(1934年)」を全巻、ロスで買いこんできたが・・・「松浦武四郎」を知ったのは帰国後、名古屋の今池に住みだしてから・・・古本屋で探したが彼に関する「本」は手に入らず、「百科事典」ぐらいからの知識。当時はインターネットなどと云う情報提供のシロモノも無く、高額なワープロ全盛期・・・大須に移転して、「阪神・淡路大震災」は1995年(平成7年)1月17日(火)5時46分52秒に発生、その時はボクの「ホームページ(ソフトバンク)」は既につくっていた?・・・2001年・・・「松浦武四郎記念館」のブログ記事を発見したのは「小説の改稿が2004年」前のコトだから、・・・調べてみたら「ブログ日記」を書き始めたのが「2006年03月26日」・・・記憶が曖昧である・・・
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以下の歴史年表の
参考、参照の原文は
三重県
松阪市
教育委員会事務局
松浦武四郎
記念館の
ブログ記事より
抜粋添付させてもらいました
↓
松浦武四郎
年齢はすべて数え年
年号は生年を除いて、
途中で改元になった場合は、
新しい年号で表記
↓
諸国遍歴
西暦日本年号 日本、武四郎の主な出来事
↓↓ ↓
1818文化15→伊能忠敬没
松浦時春(桂介)の四男として
「竹四郎」が誕生 1歳
1821文政 4→「大日本沿海輿地全図」完成 4歳
1824文政 7→近くの寺で読み書きを習い、
「名所図会」を愛読 7歳
1825文政 8→異国船打払令
武四郎 8歳
1828文政11→シーボルト事件
武四郎 11歳
1830天保元→文政のおかげ参り
津藩平松楽斎の私塾に学ぶ 13歳~16歳
1833天保 4→天保の大飢饉(~39)
武四郎
手紙を残して突然家出
江戸で見つかり連れ戻される 16歳
1834天保 5→水野忠邦老中就任
武四郎
全国を巡る旅に出る。
近畿→中国→四国→近畿 17歳
1835天保 6→近畿→北陸→甲信越→
東北→関東→中部→近畿→四国 18歳
1836天保 7→四国八十八ヶ所霊場巡礼
近畿→山陰→山陽(鞆の浦) 19歳
1837天保 8→大塩平八郎の乱
モリソン号事件
武四郎
山陽→九州一周 20歳
1838天保 9→武四郎
長崎で大病、
「禅林寺」で出家し
僧侶
「文桂」となる 21歳
1839天保10→蛮社の獄
渡辺崋山、
高野長英、
小関三英
らを弾圧
武四郎
平戸の
「千光寺」で住職を務める 22歳~24歳まで
1840天保11→清、イギリスとアヘン戦争(40~42)
武四郎 23歳
1841天保12→天保の改革(水野忠邦)
武四郎 24歳
1842天保13→天保の薪水給与令
武四郎
対馬から
朝鮮半島へ渡ろうとしたが果たせず 25歳
1843天保14→老中は阿部正弘
武四郎
長崎で
ロシア南下の危機を知り、
一転蝦夷地を目指す、
郷里へ戻り参宮と父母の墓に参る
「西海雑誌」を著す 26歳
1844弘化元→フランス船が
琉球来航、
オランダ国王が開国勧告
武四郎
郷里で
「四国遍路道中雑誌」を執筆、
青森の
鰺ヶ沢まで行き蝦夷地を目指すが、
松前藩の取締りが厳しく果たせず 27歳
蝦夷地調査と
志士としての活動
1845弘化 2→イギリス船
琉球来航
武四郎
第1回蝦夷地探査
商人和賀屋孫兵衛の手代に身を変え、
函館→森→有珠→室蘭→襟裳→釧路→
厚岸→知床→根室→函館を巡る 28歳
1846弘化 3→米使ビッドル
浦賀来航
武四郎
第2回蝦夷地探査
松前藩医
西川春庵の
下僕「雲平」として、
江差→宗谷→樺太→宗谷→紋別→
知床→宗谷→石狩→千歳→江差を巡る、
江差では志士
頼三樹三郎と
「一日百印百詩の会」を催す 29歳
1849嘉永 2→嶺田楓江
「海外新話(アヘン戦争を記す)」を著し、
幕府より絶版、江戸から追放
武四郎
第3回蝦夷地探査
函館から船で
国後島、択捉島へ渡る 32歳
1850嘉永 3→武四郎
「初航蝦夷日誌」全12冊
「再航蝦夷日誌」全14冊
「三航蝦夷日誌」全8冊が完成、
「蝦夷大概図」、
「新葉和歌集」を出版 33歳
1851嘉永 4→武四郎
「蝦夷沿革図」、
「表忠崇義集」を出版、
「断璧残圭」、
「盍徹問答」、
「婆心録」を復刻 34歳
1853嘉永 6→6月アメリカの
ペリー浦賀に来航、
7月ロシアの
プチャーチン長崎に来航
武四郎
吉田松陰と海防問題を語り合う
「読史贅議」を復刻 36歳
1854安政元→ペリー再航、
日米和親条約、
日露和親条約(幕府は日露国境の画定を迫られる)
武四郎
宇和島藩の依頼により
下田でペリー一行の様子を調査(「下田日誌」)
「壺の石(蝦夷地)」を出版 37歳
1855安政 2→蝦夷地を松前藩領から幕府に再直轄
日蘭和親条約
武四郎
幕府から
蝦夷地御用御雇入の命を受ける
「後方羊蹄於路志」、
「於幾能以志」を出版 38歳
1856安政 3→アメリカ総領事ハリス着任
武四郎
第4回蝦夷地探査
函館→宗谷→樺太→宗谷→函館を巡る
「箱館往来」を出版 39歳
1857安政 4→下田協約調印
武四郎
第5回蝦夷地探査
函館→石狩→上川→天塩→函館を巡る
「蝦夷葉那誌」、
「新選末和留辺志」を出版 40歳
1858安政 5→日米修好通商条約
井伊直弼による
安政の大獄(1858年~59)
武四郎
第6回蝦夷地探査
北海道全ての海岸→十勝→阿寒→日高を巡る
「近世蝦夷人物誌」の出版が許可されず
「壺の石(北蝦夷地)」を出版 41歳
1859安政 6→安政の大獄により、
吉田松陰、
頼三樹三郎ら死刑
武四郎
「按西・按東・按北扈従録」全32冊
「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」全23冊
「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」全62冊が完成、
「東西蝦夷山川地理取調図」全28冊
「蝦夷漫画」、
「蝦夷地名奈留辺志」を出版 42歳
1860万延元→勝海舟ら咸臨丸で太平洋横断
桜田門外の変で
井伊直弼暗殺
武四郎
「北蝦夷余誌」、
「蝦夷闔境山川地理取調大概図」を出版 43歳
1861文久元→皇女和宮が将軍家茂へ降嫁
武四郎
「後方羊蹄日誌」
「石狩日誌」
「久摺日誌」
「十勝日誌」を出版 44歳
1862文久 2→坂下門外の変
「夕張日誌」を出版 45歳
1863文久 3→薩英戦争
武四郎
「納沙布日誌」
「知床日誌」
「天塩日誌」を出版 46歳
1864元治元→四国連合艦隊が下関砲撃
幕府第一次長州征討
武四郎
「鴨?頼先生一日百詩」
「新板蝦夷土産道中寿五六」
「新板箱館道中名所寿語六」を出版 47歳
1865慶応元→第二次長州征討
武四郎
「西蝦夷日誌 初編」
「同 二編」
「東蝦夷日誌 初編」
「同 二編」を出版 48歳
1867慶応 3→10月大政奉還
12月王政復古の大号令
武四郎 50歳
明治維新と開拓使での活動
1868慶応 4→明治元年
1月鳥羽伏見の戦(戊辰戦争)
3月神仏分離令(廃仏毀釈運動)
4月江戸開城
武四郎
閏4月
上京の召書、東海道間道調べ、
任徴士
箱館府判官事 51歳
1869明治 2→1月版籍奉還上奏
3月東京遷都
5月榎本武揚ら箱館で降伏
(戊辰戦争終了)
8月蝦夷地を北海道と改称
武四郎
任
開拓判官
道名・国名・郡名撰定に尽力
叙従五位
「蝦夷誌」を復刻
「北海道国郡図」
「北海道国郡略図」
「千島一覧扇面」
「西蝦夷日誌三編」
「東蝦夷日誌 三編」
「同 四編」を出版 52歳
1870明治 3→武四郎
開拓判官辞職(従五位返上)
「蝦夷年代記」
「壺乃碑考」
「林氏雑纂」
「千島一覧」
「西蝦夷日誌 四編」
「東蝦夷日記 五編」を出版 53歳
1871明治 4→寺領上知の令
廃藩置県
日清修好条規調印
武四郎
「竹島雑誌」
「読史贅議逸編」
「西蝦夷日誌 五編」
「東蝦夷日誌 六編」を出版 54歳
1872明治 5→学制公布
新橋・横浜間鉄道開通
「百蟲行」
「西蝦夷日誌 六編」を出版 55歳
1873明治 6→徴兵令
地租改正条例
征韓論敗れる
伊勢度会県博覧会へ出品
武四郎
岩倉具視邸内の長屋から・・・?岩倉具視の長屋
神田五軒町へ引越し書画会を開く
「東蝦夷日誌 七編」を出版 56歳
1874明治 7→佐賀の乱(島義勇死刑)
武四郎 57歳
1875明治 8→樺太・千島交換条約
江華島事件
武四郎
北野天満宮へ
大神鏡を奉納 58歳
1876明治 9→日朝修好条規締結
武四郎
上野東照宮へ大神鏡を奉納
「馬角斎茶余」を出版 59歳
1877明治10→西南戦争
モースが大森貝塚発掘
武四郎
考古図録といえる
「撥雲余興」を出版 60歳
1878明治11→大久保利通暗殺
武四郎
「新獲小集」
「東蝦夷日誌八編」を出版 61歳
1879明治12→教育令公布
沖縄県設置(琉球処分)
武四郎
大阪天満宮へ
大神鏡を奉納
妻と京都・吉野漫遊
「尚古杜多」
(同題で二種類・?)を出版 62歳
1880明治13→国会期成同盟結成
武四郎
吉野の金峯山神社へ
大神鏡を奉納
「そめかみ」
「松のけふり」
「庚辰游記」を出版 63歳
1881明治14→国会開設勅諭
明治十四年の政変
自由党結成
松方財政、
開拓使官有物払下事件
武四郎
「辛巳游記」を出版 64歳
1882明治15→井上馨が条約改正交渉
立憲改進党
立憲帝政党結成
日本銀行設立
武四郎
太宰府天満宮へ
大神鏡を奉納
「撥雲余興二集」
「壬午游記」を出版 65歳
1883明治16→徴兵令改正
岩倉具視没
三井寺に鍋塚建立
武四郎
熊本・宮崎を漫遊、
「癸未溟誌」を出版 66歳
1884明治17→松方デフレで不況
秩父事件
武四郎
高野山の骨堂に抜けた
髪や歯を納め、近畿地方を巡る
「甲申小記」を出版 67歳
1885明治18→天津条約調印
大阪事件
内閣制度創設
武四郎
1月までに25霊社へ
小神鏡と
石標奉納
第1回
大台ケ原探査
「乙酉掌記」
「乙酉後記」を出版 68歳
1886明治19→学校令公布
北海道庁設置
星亨ら大同団結運動提唱
武四郎
第2回
大台ケ原探査
「聖跡二十五霊社順拝双六」
「丙戌前誌」
「丙戌後記」を出版 69歳
1887明治20→伊藤博文が憲法起草開始
保安条例公布(570名が東京追放)
武四郎
第3回
大台ケ原探査
東海・近畿・四国・山陽・九州を巡る
富士登山
畳一畳の書斎を建てる
「木片勧進」
「丁亥前記」
「丁亥後記」を出版 70歳
1888明治21→市制・町村制公布
枢密院設置
武四郎
叙従五位
2月10日没
浅草称福寺に墓所
(東京
染井
墓地に移る)
明治22年に
大台ケ原へ
追悼碑(分骨碑)が建立 71歳
↑
松阪市
教育委員会事務局
松浦武四郎記念館のブログ記事より抜粋添付
ーーーーー
・・・コンガラがッテいたモノや人物が「松浦武四郎」で繋がっているように思える・・・のだが?