・・・スゴイネッ!!今夜の22:55の「探検バクモン・北海の湾岸要塞~後編~・日本最大級の『セメント工場』に潜入!海上では巨大クレーンを目撃。さらに雪山で待ち受けるのは、超巨大重機と大爆発!?街を形作る原料・セメントのヒミツ」・・・そして、「歴史秘話ヒストリア」ですか・・・「国書偽造・秘められた真実~国境の島・対馬の憂鬱~・豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶した日本と朝鮮。そこから僅か十年で国交を回復させた立て役者が対馬の人々だった。その裏には国書偽造という恐るべき秘密が隠されていた」・・・「李氏-朝鮮通信使」は外交問題、嘘も方便ですか。「機密保護法」が必要とするのは、ダレなのか?・・・兎に角、「徳川家光の決断」は・・・
↓↑
日朝の国交回復を
李氏朝鮮は
対馬藩が仲介として
1607年(慶長十二年)
6月29日(5月6日)
「通信使(3回目まで回答兼刷還使)」
を幕府に派遣
江戸で
徳川秀忠に国書を奉呈
帰路
駿府で
徳川家康に謁見
「回答兼刷還使」の目的は
日本側からの国書による
「回答(謝罪)」
と
「刷還
(儒家、陶工捕虜などの解放と朝鮮への帰郷)」
であった
↓
国書の偽造は
朝鮮側使者も偽造を黙認・・・?
↓
1636年(寛永十三年)
国書の偽造内容
↓
朝鮮側の国書で
徳川将軍の呼称を
「日本国王」から
「日本国大君」に変更すること
(呼称は
京都
五山の高僧
玉峰光璘・・・・?
の進言)
将軍側の国書では
「日本国-源家光」とした
親書の
「年紀の表記」を
「干支」から
「日本の年号」に変更
使者の名称を
朝鮮側の
「使兼刷還使」から
「通信使」に変更・・・
中華思想の冊封体制であった
「国王」称号や
「干支」の使用を取り替えた・・・
後に、対馬藩家老であった
柳川調興(やながわ しげおき
対馬藩家老・玄蕃頭、豊前守
号は式山・梅軒・素庵
徳川家康、秀忠の小姓だった)
は
寛永十年(1633年)に
対馬藩の
国書改竄を幕府に直訴
結果
対馬藩主
宗義成は忠告のみ
お咎めなし、
柳川調興は
津軽へ流罪・・・?ナゼか、調の興(味)
老中・土井利勝の配慮で、
家臣七名の供を許され、
弘前城南西に広大な屋敷を与えられ
藩主津軽信政の賓客として遇された
貞享元年(1684年)死去
墓所は弘前の
「長勝寺」・・・
朝鮮側は、
文禄・慶長の役の後、
日本に対する
李朝への批判
日本に
朝鮮人捕虜の返還要求
だが
朝鮮から
明が撤退後
日本の再侵略を恐れ、
後金からの脅威もあって
日本とは
友好関係の
締結を望んでいた・・・?
↓↑
その前の時間帯は「試してがってん」の「尿道(尿管)結石」・・・ボクも七転八倒の経験があるが・・・遶道(ニョウドウ・キョウドウ)結石・・・「オステオポンチン(osteopontin)」・・・?
ーーーーー
オステオポンチン(osteopontin)
オ捨て汚本沈(陳)?じゃぁないよな・・・
オステオポンチン
pontine=橋・脳橋(ノウキョウ)→納経?
↓
骨芽細胞(Osteoblasts)
破骨細胞(osteoclasts)
英語は「Osteoblast」
・・・なんか、複雑・・・
↓
骨粗鬆症が多くなるのは、
エストロゲンの分泌が減少するため
一型コラーゲンや
オステオカルシン
オステオポンチン
骨シアロタンパク質などを 産生する
燐灰石(リン酸カルシウム)
抗酸化物質(antioxidant)は、
抗酸化剤とも呼ばれ、
生体内、食品、日用品、工業原料において
酸素が関与する有害な反応を
減弱もしくは除去する物質の総称
生物化学あるいは栄養学において、
狭義には
脂質の
過酸化反応を
抑制する物質を指し、
広義には
生体の酸化ストレスあるいは
食品の変質の原因となる
活性酸素種
(酸素フリーラジカル、
ヒドロキシルラジカル、
スーパーオキシドアニオン、
過酸化水素等)
を捕捉することによって
無害化する反応に
寄与する物質を含む
↓
尿路結石の核
上部尿路結石
腎結石
尿管結石
下部尿路結石
膀胱結石
尿道結石
成分は
尿酸結石
シスチン結石
リン酸結石
シュウ酸結石など
・・・???
ーーーーー
「遶道祭(ぎょうどうさい)=大和の官幣大社の神事。一月一日、献灯の火を松明に 移し、信者が持ち、神職と共に摂末社を巡る。みなそれを移しともして持ち帰り雑煮を炊く」・・・「遶=ニョウ(ネウ)・ ジョウ(ゼウ)・めぐる」・・・ 「右遶三匝=遶仏(にようぶつ)・施遶(せによう)」、「インドでは右手を浄,左手を不浄とする思想があり,比丘たちは仏に対して右 遶三匝(うにようさんそう)する(右回りに3回回る)のが例法となった」、「うにょうさんそう=右繞三匝・右遶三匝」 、「仏教用語=礼式の一で、仏 に対して右回りに3回まわること。また、その作法」、「にょうぶつ=繞仏・遶仏=繞堂(にょうどう)」に同じ・・・
「遶=辶+堯(土土土兀)」
「兀(ゴツ・ゴチ)」
「兀」=「人の上に一在るに從ふ
儿の上に一を置く指事で、地形」、
「白川静は、
髪の毛を剃り落とした
頭の側面の象形
髟に兀を組み合わせた髠
という字は髪の毛を剃り落とす刑罰」・・・
ーーーーー
↓↑
清和天皇
嘉祥三年3月25日(850年5月10日)
~
元慶四年12月4日(881年1月7日)
第五十六代天皇
在位期間
858年12月15日
~
876年12月18日
元号
天安
貞観
先代は文徳天皇
次代は陽成天皇
↓
諱は惟仁
貞観帝、
水尾帝とも
文徳天皇の
第四皇子
八歳で即位。
貞観6年(864年)に元服
外祖父の
藤原良房
が初めて
人臣摂政となった
↓
貞観八年(866年)
伴善男らによる
応天門炎上事件
伴善男を信頼していたが
天皇は、
事件を解決した
藤原良房を正式に
摂政に任命
貞観十八年(876年)
第一皇子、
九歳の
貞明親王(陽成天皇)に譲位
元慶三年(879年)
5月に出家
十より畿内巡幸の旅
翌年3月
丹波国
水尾の地に入り
苦行
水尾を隠棲の地と定め、
新たに寺を建立中、
左大臣
源融の別邸
棲霞観にて病を発し、
粟田の
円覚寺に移され崩御
↓
嘉祥 3年(850年)生誕。同年、立太子
天安 2年(858年)即位(9歳)
貞観 8年(866年)応天門炎上事件
応天門の変
最澄に
「伝教大師」の諡号を贈る
貞観11年(869年)祇園祭の開始
貞観18年(876年)27歳で突然譲位
元慶 3年(879年)出家して仏門に帰依
仏寺巡拝の旅へ
元慶 4年(880年)崩御
↓
清和源氏の先祖
子孫の多くが
臣籍降下して清和源氏となった
栄えたのが
第六皇子
貞純親王の子
経基王の子孫・・・源頼朝・足利尊氏
↓
氏神となる
石(岩)清水
八幡宮を建立
八幡宮総本社の
宇佐神宮(大分県宇佐市)から
勧請された神社
京都盆地南西の
男山
(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座
天皇家からは
遠国の宇佐神宮に代わり
二所宗廟の1つとして崇敬
京都の裏鬼門(南西)を守護
鬼門(北東)の
延暦寺とともに重要視
源氏が武神として信仰
源氏の広がりとともに
壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、
各地に八幡宮が勧請された
創建以来、境内の
護国寺と一体になる
宮寺形式をとった
祭神
三神
「八幡三所大神」「八幡大神」等と総称
中御前=誉田別命(ほんだわけのみこと)
第十五代応神天皇
西御前=比竎大神(ひめおおかみ)
宗像三女神=多紀理毘売命・市寸島姫命・多岐津比売命
三柱
東御前=息長帯姫命
神功皇后
↓
貞観元年(859年)
南都大安寺の僧
行教(空海の弟子)が
宇佐神宮にて受けた
「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」
との神託により、
貞観二年(860年)
清和天皇が社殿を造営したのが創建
「石清水」の社名は、
男山に既に鎮座していた
石清水山寺
(摂社石清水社)による
皇室・朝廷からは、
京都の
南西の裏鬼門を守護する
王城守護の神
王権・水運の神
として崇敬
中世以降は
勧請元の
宇佐神宮に代わって、
伊勢神宮と並び
二所宗廟の1つ
清和源氏の
足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏
などの源氏諸氏族から氏神として崇敬
武神・弓矢の神・必勝の神とされた
分霊は
源頼義による
壺井八幡宮や
頼義・頼朝による
鶴岡八幡宮など、
数多くの八幡宮に勧請
幕末までは
神仏習合の宮寺として
「石清水八幡宮護国寺」と称し、
東寺(教王護国寺)・清水寺
比叡山延暦寺・仁和寺
鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)
相国寺・大安寺など
多くの寺院と関係を持った。
伊勢平氏も当社を重んじ、
平正盛の造営の功や
平清盛ら伊勢平氏の
臨時祭での演舞が知られる
江戸時代まで
護国寺や極楽寺、弁天堂を始め
「男山48坊」と呼ばれる
宿坊が参道に軒を連ねた
寛永の三筆である
松花堂昭乗も当社に仕える社僧
慶応四年
(明治元年・1868年)3月12日
神仏分離により、
神号を
「八幡大菩薩」から
「八幡大神」と改めた
1871年に
近代社格制度において
官幣大社に列するとともに社号を
「男山八幡宮」と改名したが、
1918年には
「石清水八幡宮」に戻した・・・
↓
日本三代実録
清和天皇、陽成天皇、光孝天皇
三代が記載された正史
↓
後水尾天皇は、
清和天皇を意識して
その諡号を贈られた
↓
嵯峨水尾(さが みずお)
京都府京都市右京区の地名
「柚子の里」
「清和天皇陵」などがある
「きれいな水が湧く所」という意味
古くは
「水ノ尾」・・・水脈(みを)だろう
巳緒=巳(蛇)の緒
「水雄」とも書き、
「みずのを」
「みのを」とも呼ばれた・・・「美濃緒」は
蝮(まむし)の
斎藤道三
信長の舅である
集落の位置が
清滝の川尻にあたることから
水尾という表記になった
↓
・・・「みを」は鉱脈、水脈で、「つる」である・・・登山用のピッケルを大きくした「鶴嘴(つるはし)」は石炭や鉱石を掘り砕く道具である。時には冬に凍りついた「氷」を砕く道具でもある・・・「血脈」と云うコトバもある・・・
↓
愛宕山(924m)の南麓にある
北東側には愛宕山、
西側には
牛松山(636m)
四方向を山に囲まれる
山間狭隘の集落
北側は
右京区
嵯峨越畑・嵯峨樒原(宕陰地区)
西側と南側は
亀岡市保津町と接している
愛宕山西麓を源流とする
水尾川が集落西側の谷を流れており、
水尾川は京都府道50号京都
日吉美山線に沿って
南進した後にJR山陰本線
保津峡駅付近で
保津川(桂川)に合流
↓
中世
平安時代初期に編纂された
『続日本紀』には
「宝亀三年十二月
行幸山城国水雄岡」や
「延暦四年九月
行幸水雄岡遊猟」などとあり
光仁天皇や
桓武天皇が
水尾を訪れていた
奈良時代には
山城国
葛野郡に属した
平安時代には
一時
丹波国
桑田郡に属し、
山城国に復した
平安時代中期に成立した
『うつほ物語』には
源仲頼が
水尾山に隠遁した記録
東の八瀬大原と並ぶ
西の出家・隠遁の地
↓
平安時代前期
文徳天皇の
第四皇子であり
九歳で即位した
清和天皇(850-880)は
水尾の地を愛し、
水尾帝とも呼ばれた
清和天皇は27歳で
陽成天皇に譲位した後、
三十歳の時に
仏道修行のために
近畿各地を回り、
その最後に
水尾の山寺に入った
清和天皇は
水尾の地を終焉の地と考え
三十一歳の時に
洛東の
円覚寺で亡くなった
遺骨は遺詔(遺言)によって
水尾の水尾山寺に葬られ
清和天皇水尾山陵
境内には摂社として
四所神社が祀られている
↓
応永二十七年(1420年)
洛東の円覚寺が焼失
水尾山寺が
円覚寺の名を継承し、
水尾の
円覚寺は
延宝七年(1679年)の大火で焼失
約100年後の
安永五年(1776年)に再建
↓
周辺には
樒(しきみ)・・・柚子(ゆず)=木+由+子
樒(しきみ)=木+密
史記視=死期視
記紀の秘密?識視
が繁茂していたことから、
水尾村と北側の原村を合わせて
「樒原」と呼ばれた
水尾は
柚子栽培発祥の地
花園天皇が
水尾の地に
柚子を植えた
冬期に
柚子風呂(柚子湯)
料理は
鶏鍋(水炊き・鶏すき)
↓
原村は右京区の一部となった
1931年(昭和六年)以後は
町名に
「樒原」が用いられている
1582年(天正十年)
明智光秀は
本能寺の変の
6日前に
亀岡の
亀山城から
水尾を訪れ、
愛宕山の愛宕権現に
参拝してから京に向かった
明暦四年(1658年)頃の村は
上町・下町・西町・辻町の
四町に分かれて
近世には
丹波国と
山城国を結ぶ道が
ふたつしかなく、
老ノ坂峠
(国道9号の経路)越えと
水尾越えの
二者択一を迫られた
このため水尾は繁栄し、
人口が1,000人に近い時代もあった
延宝七年(1679年)
と
天保六年(1835年)
に大火
愛宕山は
東麓が
水尾村領、
西麓が
上嵯峨村領であり、
清滝からの登山道が
表参道、
水尾や樒原からの登山道が
裏参道
表参道と裏参道が合流する
八合目は
「水尾わかれ」と呼ばれ、
水尾わかれのすぐ上には
「水尾女(みずおめ)」が
参拝者に樒を売る花売場があった
江戸時代の産物
ビワ、柚子、マツタケ、砥石
明治時代には
ビワ、柚子などを京阪に出荷
1889年
(明治二十二年)
町村制が施行
水尾村など5村が合併して
嵯峨村となり、
それぞれの旧村名が
大字名となった
1900年
(明治三十三年)
京都鉄道(JR山陰本線)が
亀岡盆地を通って
京都と
園部をつなぎ、
その経路から
大きく外れた水尾は
寂れていった
嵯峨村は
1903年
(明治三十六年)に
下嵯峨村を合併し、
1923年
(大正十二年)に町制を施行して
嵯峨町となった
1931年
(昭和六年)に
京都市
右京区の一部となり、
大字だった
旧6村は186の町に分割
「京都市右京区嵯峨水尾○○」
1936年(昭和十一年)
水尾の玄関口となる
山陰本線
保津峡駅(トロッコ保津峡駅)が開業
ーーーーー
・・・以前にも書き込んだが・・・
斯波氏・・・織田家の主家
鎌倉時代に
足利泰氏の長男
家氏が
陸奥国
斯波郡(しわぐん)
現在の
岩手県
盛岡市の一部
及び
紫波郡
を所領とし、
宗家から分かれたのに始まる
↓
鎌倉時代
足利家氏が斯波郡を所領
興国二年=暦応四年(1341年)
陸奥の南朝
南部氏などが
岩手・斯波二郡を平げ、
葛西氏等と連合して
国府を攻めようとした
斯波家兼が奥州に入部し
四管領並立を制すると、
同族の
高水寺斯波氏が
南朝側河村氏を次第に圧迫し、
応永三年(1396年)
河村秀基はその傘下に下った
16世紀半ばに
高水寺斯波氏は隆盛を極める
のちに
南部氏の圧力により逼迫
天正年間に
高水寺斯波氏の
斯波詮直(最後の斯波御所)が
北上川遊覧の折、
川底の赤石に陽が射し、
紫色に輝く川波を瑞兆として
「けふよりは 紫波と名づけん
この川の 石にうつ波
紫に似て」
と詠み、
古代以来
「斯波郡」
と書いていたものを
「紫波郡」
に改めた・・・
元来の名は
志賀理-和気神社(最北の式内社)から
「志和」と書かれた、という説・・・
(赤石を
御神石として
引き上げ祀ったので、
この神社は後世
「赤石神社」とも呼ばれた)
奥六郡最北となる
「岩手郡」の
建郡以前に
志波城が置かれ、
後にこの地が岩手郡となったように、
「岩手郡」も
元は
「志波(斯波・志和)郡」
斯波氏の旧居城であった
高水寺城は
天正十九年に
郡山城と改称され、
ほぼ同じ頃に
郡名も改められた。
ーーーーー
・・・ナニがナンだか・・・混乱気味・・・
・・・TV番組から学ぶことは、一日中、「TV」を観れる余裕のあるボクにとっては、その「世の中」の情報と知識が多大、膨大に得られる「文明科学機器」である・・・今現在のTVニュース、「福井県や関西の住民ら9人が関西電力高浜原発3、4号機(同県高浜町)の再稼働差し止めを求めた仮処分の申し立てに関し、福井地裁(樋口英明裁判長)は14日、住民側の主張を認め、申し立てを認める決定を出した。仮処分の手続きで原発の運転差し止めが認められたのは初めて」・・・当然なコトと思うが・・・選挙民に選択された「行政、立法権力」と戦うのは、最早、「日本国憲法」を前提にした「司法権力」とは情けない・・・「日本国憲法」に命をかける「日本人」は減少傾向・・・
昨夜(4/13)は「ぶっちゃけ寺&Qさま!!」で「大猷院・徳川三代将軍、家光の廟所」を観た。
未だに「スマートホン(携帯電話)」を持ったことがないが、二〇歳代の頃は、その時代、マンガやSF小説にしか存在し得無かった「携帯電話」に妄想、空想で憬れていた。小学生のころ「手塚治虫」のマンガ「ZZZ総統(鉄腕アトム・雑誌『少年』)」に日本にきた某国(多分アメリカ?)の大統領の息子が「日本のタクシーには電話も付いていないのかッ」のセリフ(台詞・科白)に、ガッカリしたコトがあった。
付録の「小松茂」の「未来都市の絵」は「日本」にあるとも思っていた。当時は日本は「文明科学の国」ではなかった。
戦前の地方では小作農民、工場、鉱山労働者は貧困に喘えでいた。それに「徴兵」で戦争で死ぬことはアタリマエの時代。
だが、「日本の軍事科学兵器」はモチロン、「都市のインフラ」も結構なモノだったんだと今現在は驚嘆する。それに「半島と満州国」の都市のインフラと工業設備。当時のドイツ人ジャーナリストも驚いてドイツ本国に報告・・・日本人が「発明・発見」したモノ、TVをはじめ、ワンサカである。「湯川博士」も「朝永博士」も「最終兵器Z」の研究・・・1970年代の半ば頃の当時には既に「ソニーの小型携帯TV」があったと思うが、片手に握って見れる小型TVではなかった。ボクはその「携帯小型TV」は大須の質屋で手に入れた・・・乾燥機能がイカレテいる「全自動式洗濯機」も・・・
ーーーーー
慶長
十六年(1611年)
四月
十二日
第百八代
後水尾天皇の即位日・・・?
↓
四月十三日の
TV
ぶっちゃけ
寺&Qさま!!
合体3時間スペシャル
『ぶっちゃけ寺』お坊さんと行く日光!
お坊さんが語る
「厄」
ありがたい映像満載SP!
・・・で、「ウイッキぺデア」で調べてみた・・・ナゼかボクの妄想の「数字」と歴史記録の「数字」が重なってしまう・・・?
↓↑
徳川 家光(とくがわ いえみつ)
江戸幕府
第三代将軍(在職:1623年 - 1651年)
二代将軍
秀忠の
二男(嫡男)
母は
浅井長政の娘で
織田信長の姪の
「お江」
乳母は春日局(福)
乳兄弟に
稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利
十五人の徳川将軍のうち、
(父親の)正室の子は、
家康・家光・慶喜の3人のみ
将軍の御内室(御台所)が
生んだ将軍は家光のみ
改名 竹千代(幼名)→家光
諡号 大猷院
戒名 大猷院殿贈正一位大相国公
墓所 日光山輪王寺
官位 正三位、従二位、権大納言、右近衛大将、
右馬寮御監、正二位、内大臣、
征夷大将軍、従一位、左大臣、
左近衛大将、贈正一位太政大臣
↓
寛永九年(1632年)1月
秀忠が死去
二元政治は解消
将軍から公方として親政
旗本を中心とする直轄軍の再編
同年5月には外様大名を招集
藩内の内訌などを理由に、
肥後熊本藩主・加藤忠広の改易
寛永十年(1633年)
福岡藩における
栗山大膳事件(黒田騒動)
自ら裁定を下し
黒田忠之の藩側の主張を認めた
老中・若年寄・奉行・大目付の制
現職将軍を最高権力者とする
幕府機構の確立
同年9月には
外祖父の
浅井長政に権中納言を贈官
寛永12年(1635年)の
武家諸法度の改訂では、
大名に
参勤交代の義務
対外的には
長崎貿易の利益独占目的から、
貿易統制
並びに
キリシタン弾圧を強化・・・
寛永十四年(1637年)
島原の乱・・・・・・・・天草四郎
天草時貞
愛知時貞?
(えち ときさだ)
ナゼ、「愛知」?
益田四郎
益田時貞
洗礼名
ジェロニモ
後
フランシスコ
姉妹
福(姉)、鶴(姉)、万(妹)
父は
益田-甚兵衛-好次
母は
渡辺-伝兵衛の女(娘)
あるいは
千束-善右衛門の妹(よね)
母(洗礼名マルタ)は
幕府の尋問に
「今ごろ四郎は
白鳥になって
伴天連の国へ
向かっているでしょう」と
↓
寛永十八年(1641年)までに
「鎖国」体制を完成
寛永十八年(1641年)
嫡男の
竹千代(四代将軍・家綱)誕生
寛永十一年(1634年)
上洛
後水尾上皇による
院政を認める
寛永十九年(1642年)から
大飢饉が発生
正保元年(1644年)
中国大陸で
明が滅亡
満州族の
「清」が進出
正保元年(1644年)
全国の大名に
郷帳・国絵図(正保国絵図)
城絵図(正保城絵図)を作成させ、
農民統制では
田畑永代売買禁止令を発布
慶安三年(1650年)
病気となり、
諸儀礼を
家綱に代行させ、
翌年4月
江戸城内で死去。享年48
堀田正盛
阿部重次・・・・阿の部の重の次
らが
殉死
遺骸は遺言により
東叡
寛永寺に移され、
日光の
輪王寺に葬られた(日光東照宮)
同年5月
正一位・太政大臣が追贈
法名は「功崇院」の案もあったが、
「大猷院」に定められた
承応元年(1653年)
大猷院廟が造営・・・?
なぜ、「大猷院」なのか?・・・
キリシタン弾圧と朝廷の関係の結果かも・・・
「朝廷」とは何者か?・・・「隠れキリシタン」?
「伊達正宗」は「隠れキリシタン」?
東北には結構、「隠れキリシタン」が存在した
名古屋、尾張にも「隠れキリシタン」・・・
名古屋の東本願寺の裏には
キリシタン塚とキリシタンの遺品が展示
なぜか、
尾張徳川家の蔵書の
名古屋市
蓬左文庫の
「天草陣雑記」に
四郎が妻帯していた・・・との記述も・・・
↓
大猷院・・・?・・・「太猷イン」
徳川
三代将軍
家光の廟所
境内には世界遺産に登録された
22件の国宝、重要文化財
315基の灯籠
東照宮を
凌いではならないという遺言
金と黒を使用し重厚
入口は
「仁王門」
輪王寺(りんのうじ)
栃木県
日光市にある寺院
天台宗の
門跡寺院
明治初年の
神仏分離令以後、
東照宮、
二荒山神社とあわせて
「二社一寺」と称される。
近世まではこれらを総称して
「日光山」と呼ばれていた
現在、
「日光山」は
「輪王寺の山号」
「輪王寺」は
日光山中にある
寺院群の総称
「二荒山神社」と「輪王寺」は
奈良時代に
山岳信仰の社寺として創建
日光山では
山、神、仏が
一体のものとして信仰
輪王寺本堂(三仏堂)に
三体の本尊
(千手観音・・・・・千の手の音を観よ
阿弥陀如来
馬頭観音)・・・・馬の頭の音を観よ
を安置
輪王寺は、
天平神護二年(766年)
下野国出身の奈良時代の僧
勝道上人により開創
↓
勝道と弟子の一行は、
日光山の麓にたどりついたが、
大谷川(だいやがわ)の激流で
向こう岸へ渡ることができずに困っていた。
そこへ、
首から髑髏(どくろ)を下げた、
異様な姿の神が現われ
「我は
深沙大王(じんじゃだいおう)
である」と
名乗った。
「深沙大王」は
二匹の
大蛇を出現させると、
それらの蛇は
こちら岸と
向こう岸を
結ぶ橋となり、
勝道ら一行は無事
対岸へ渡ることができた
「神橋(しんきょう)」は
「山菅蛇橋(やますげのじゃばし)」
とも呼ばる
「深沙大王」は
「深沙大将」とも呼ばれ、
唐の
玄奘三蔵が
仏法を求めて
天竺(インド)を旅した際に
危機を救った神・・・・記紀をスクッた?
勝道は、
大谷川の対岸に聖地を見付け、
千手観音を安置する一寺を建てた
紫の雲たなびく土地であったので、
「紫雲立寺(しうんりゅうじ)」
と言ったが、
後に
「四本龍寺(しほんりゅうじ)」
と改めた
この
四本龍寺が現在の輪王寺
翌
神護景雲元年(767年)、
勝道は
四本龍寺に隣接する土地に
男体山(二荒山)の神を祀った
この神を祀ったのは、
延暦九年(790年)だとする説もある・・・
天応二年(782年)
勝道は日光の神体山である
男体山(2,486メートル)の登頂に成功
観音菩薩の住処とされる
補陀洛山(ふだらくさん)に因んで
この山を
「二荒山(ふたらさん)」と名付け、
後に
「二荒」を
音読みして
「ニコウ=日光」
と呼ばれるようになり、
これが
「日光」の地名となった
延暦三年(784年)
勝道は、
四本龍寺
西方の
男体山麓にある
湖(中禅寺湖)のほとりに
中禅寺を建立
「立木観音」の通称で知られる
「中禅寺」は現存している
当初は湖の北岸にあった
堂宇が
明治時代の
山津波で押し流されたため、
現在は湖の東岸に移転
↓
平安時代
真言宗宗祖の
空海や
天台宗の
高僧
円仁(慈覚大師)らの来山
円仁は
嘉祥元年(848年)来山し、
三仏堂、常行堂、法華堂を創建
輪王寺は
天台宗寺院となった
「常行堂」
「法華堂」という
同形同大の
堂を
二つ並べる形式は
天台宗特有のもの
延暦寺や
寛永寺にも
同名の堂が建立
↓
鎌倉時代
仁治年間(1240年から1242年のころ)
源実朝によって、
日光東照宮がある場所に
本堂が移された
男体山、
女峰山、
太郎山の
三山の神を
「日光三所権現」として信仰
↓
戦国時代
輪王寺は
戦国時代の間に
壬生綱房・・・壬生(みぶ・ジンショウ→訊章)
水の兄のウマレ
綱房(つなふさ・コウボウ→公望)
の謀略によって
壬生氏の
傘下に入る・・・傘下(サンカ)
天正十八年(1590年)
豊臣秀吉の
小田原征伐の際、
北条氏側に
加担したかどで
寺領を没収
↓
江戸時代
天台宗の高僧
天海が貫主(住職)
元和三年(1617年)
徳川家康の霊を神として祀る
東照宮が設けられた
正保四年(1647年)
徳川家光によって、
大雪で倒壊した本堂が再建
承応二年(1653年)
三代将軍
徳川家光の霊廟である
大猷院(たいゆういん)
霊廟が設けられた
東照宮と異なり
仏寺式の
建築群である
大猷院霊廟は
輪王寺の所有
明暦元年(1655年)
後水尾上皇の院宣により
「輪王寺」の寺号が下賜
(それまでの寺号は平安時代の
嵯峨天皇から下賜された
「満願寺」)・・・マンガンジ
後水尾天皇・・・・後水尾とは何者?
退位後にも
中宮以外の女性に
30余人の子を産ませ
56歳の出家
58歳で後の
霊元天皇・・・・例言天応、転向?
を産ませた
の
第三皇子
守澄法親王が入寺
以後、
輪王寺の住持は
法親王
(親王宣下を受けた
皇族男子で出家したもの)
が務めることとなり、
関東に
常時在住の皇族として
「輪王寺門跡」、
「輪王寺宮」と称された
親子による世襲ではないが
宮家として認識
寛永寺門跡と
天台座主を兼務したため
「三山管領宮」とも言う
還俗して
北白川宮
能久親王となる
公現法親王も、
輪王寺門跡の出身
輪王寺宮は
輪王寺と
江戸上野の
輪王寺
及び
寛永寺
(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、
比叡山、日光、上野の
すべてを管轄して
強大な権威をもっていた
東国に皇族を常駐させることで、
西国で天皇家を戴いて
倒幕勢力が決起した際には、
関東では
輪王寺宮を「天皇」として擁立し、
徳川家を一方的な
「朝敵」とさせない為の
安全装置だった・・・・・?
(「奥羽越列藩同盟」、
「北白川宮能久親王(東武皇帝)」)
↓
明治以後
明治政府によって
輪王寺の称号を没収されて、
明治二年(1869年)
旧称の
「満願寺」に戻される
明治四年(1871年)
神仏分離令
本堂は現在の場所に移転
輪王寺宮本坊が焼失
明治十五年(1883年)
栃木県のとりなしによって
輪王寺を
正式の
寺号とすることが許された
↓
深沙大将(じんじゃだいしょう)は、
深沙神、
深沙大王とも呼ばれる
仏教の守護神の一人
大般若経の
十六善神の上首として信仰
独尊としての信仰は修験道による
玄奘三蔵がインドへ行く途中、
砂の中から現れ、
玄奘を守護した
姿は、
一面二臂(ひ)
髑髏の瓔珞をつけ、
象革の袴を履く、
持物は
蛇や戟を持つものがある
↓
修験道では、
慧印
六段法の
加行本尊になっている
道場観では
鬼神形ではなく、
唐服を着た、
道教神で冥界の神である
泰山府君と習合した姿
御利益には、
「十種勝利」「四種果報」
本尊の本地が
十一面観音である・・・
↓
沙悟浄
捲簾大将(天帝の任命)
河伯(流沙河の水怪)
沙悟浄(観音菩薩の命名)
金身羅漢(釈迦如来の命名)
沙和尚(三蔵法師が付けた呼び名)
沙僧(「沙和尚」の別の呼び方)
容姿と特徴
紅い炎のような色の毛
ふわふわの髪
(三蔵に弟子入りするときに
髪を剃った)
光る円い目玉
黒いとも
青いとも言えないような、
藍色の顔
雷や太鼓の
音のような恐ろしい声
美しい
黄錦の直綴=直裰(じきとつ)、
腰は
白藤を束ねたもので隠す
9個の
髑髏の
ネックレスを首にさげ、
手に宝杖
猪八戒とは
三回も互角の戦い
雲に乗って飛ぶ
悟空から
三蔵の警護を命じられる役回り
生真面目で実直な性質
玄奘三蔵が
流沙河という砂漠で幻想に見、
励まされた
「深沙神」がモデル・・・
↓
「仁王門」
1つ目の門で、
口を開いた「阿形(あぎょう)」
口を閉じた「吽形(うんぎょう)」
2体の
仁王像「金剛力士像」が安置
「阿吽の呼吸」の語源
↓
「二天文門」
日光の境内で
一番大きな門
持国天(じこくてん)
広目天(こうもくてん)
の二天を安置している事から
二天門と呼ばれてる
正面の扁額(へんがく)は、
108代天皇
「後水尾上皇」による筆
↓
「夜叉門」
四体の夜叉
「阿跋摩羅(あばつまら)
毘陀羅(びだら)
烏摩勒伽(うまろきゃ)
犍陀羅(けんだら)」
が、安置
夜叉門には、
牡丹(ぼたん)の花が彫刻
別名は
「牡丹門」
「烏摩勒伽」は
全国でもめずらしい仏様・・・?
↓
「皇嘉門」
明朝様式の竜宮造り
別名は
「竜宮門」
ーーーーー
↓↑
日光東照宮には
陽明門をはじめ各所に
後水尾天皇の
御親筆とされる額
後に
板垣退助
が
日光東照宮の
焼き討ちを要求する
薩摩藩を説得した・・・
↓↑
・・・???・・・
「後水尾天皇」
文禄五年6月4日(1596年6月29日)
~
延宝八年8月19 日(1680年9月11日)
第108代天皇
(在位は
慶長十六年3月27日(1611年5月9日)
~
寛永六年11月8日(1629年12月22日)
諱は政仁(ことひと)
幼称は三宮
法名は円浄
後陽成天皇の
第三皇子
母は
関白太政大臣
豊臣秀吉の
猶子で
後陽成天皇の
女御の
中和門院
近衛前子=藤原 前
藤原 前・・・?
・・・藤原(中臣鎌足)の「前」とは「蘇我」である・・・「ワレ、ヨミガエル」・・・
遺諡により
「後水尾」と追号
「水尾」とは
清和天皇の異称
「後水尾天皇」は、
不和であった父
「後陽成天皇」に、
乱行があるとして
退位に追い込まれた
陽成天皇の「陽成」の
加後号を贈り、・・・・・「加える後(ゴ)の号」
自らは
陽成天皇の父であった
「清和天皇」
の異称
「水尾」の
加後号を名乗る
このような
父子逆転の
加後号は他に例がない・・・?
徳川光圀は随筆
『西山随筆』で、
兄を押しのけて即位したことが
清和天皇と同様であり、
この
諡号を
自ら選んだ理由であろうと
推測
遺諡は、
鎌倉時代の
後嵯峨天皇から
南北朝・室町時代の
後小松天皇にかけて多くあったが、
その後
七代にわたって絶え
「後水尾天皇」の
遺諡は
「後小松天皇」以来
約二世紀ぶり
清和源氏を称する
徳川氏の上に立つ
という意志・・・?じゃぁなく、
・・・「水尾」は「水賭」で「水戸・御津・三津」の懸けだろう・・・「茨城=茨木」の冠の水戸黄門のオジイちゃん・・・?
↓↑
和歌約二千首を収める
『後水尾院御集(鴎巣集)』
二十一代集以下の諸歌集から
一万二千余首を類題に排列した
『類題和歌集・三十一巻』
後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた
『千首和歌集』などを編集
叔父の
智仁親王から
「古今伝授」を受けた
↓
慶長十六年(1611)、
十六歳で即位
後陽成院は
弟八条宮
智仁親王への譲位を望み、
父子不和
その後も
天海
板倉勝重
の仲裁にも関わらず
上皇の死まで続いた
↓
元和三年(1617)
後陽成院は崩御
同六年
徳川秀忠の娘
和子(まさこ)を中宮
寛永四年
紫衣事件
後水尾天皇は
寛永六年(1629)
皇女である
興子(おきこ)内親王に
譲位(明正天皇)
七歳で践祚
称徳天皇以来
859年ぶりの
女帝が誕生
明正女帝の名の由来は
元明天皇
とその娘の
元正天皇から採った・・・?
↓
後水尾天皇は譲位以後
四代五十一年にわたり院政
徳川家光の
上洛をきっかけに
院政を承認
その後も
上皇(法皇)と幕府との確執
東福門院(和子)に対する配慮から
東福門院
↓
明正女帝は
後水尾天皇の
第二皇女で
母は
太政大臣征夷大将軍
徳川秀忠の娘の
東福門院=源和子(かずこ)
入内の際に
濁音発音を嫌う宮廷風習にならい
「まさこ」と読みを変えた
・・・「かづこ」から「まさこ」・・・まさかネッ・・・?
↓
東福院は
後光明・後西・霊元の
三天皇の生母
園光子・櫛笥隆子・園国子
に対する
女院号贈呈が死の間際
(園光子は後光明天皇崩御直後)
に行われ、
その父親
園基任→(女=むすめ)の光子・・・円の基の任
櫛笥隆致→(女=むすめ)の隆子・・櫛の笥の隆に致
園基音→(女=むすめ)の国子・・・円の基の音
ツブラの基の音
都夫良の臣→眉輪王
目弱王
への贈位贈官も極秘に行われた
徳川家光の朝廷との
協調姿勢
とともに
東福門院が
夫(後水尾天皇)の政治方針に理解を示し、
その院政を擁護
霊元天皇が成長し、
天皇の
浅慮や不行跡が問題視
法皇が天皇や近臣達を抑制して
幕府がそれを支援
法皇の主導で
天皇の下に設置された
御側衆(後の議奏)に対して
延宝七年(1679年)
幕府から
役料支給が実施・・・・訳料支給?
↓
後水尾天皇は
慶安四年(1651)
落飾し法皇
延宝八年(1680)
崩御・八十五歳
泉涌寺において葬礼が行われ、
月輪陵に葬られた
↓
『玉露藁』
『当時年中行事』
『和歌作法』などの著作
洛北に
修学院離宮を造営
ーーーーー
・・・
・・・何度も、何度も書き込んできたが・・・「松浦武四郎」の断片記事の文字の「?」・・・「北海道=蝦夷」で生まれたのに、まッたく「北海道の歴史知らずの人間」だった。小中学校、高校でも教えられるコトもなかった。暇(ひま)な時間をロスアンジェルス滞在中に「ひのもと文庫」に通い、日本語の書籍を借りてきては読書三昧・・・ロスアンジェルスでの生活は「日本語の不自由」はまったくなかった「日本人社会」での環境・・・ボクの二度目の渡米、何が目的だったんだか。兎に角、聴き取れない英語の勉強なんて、そっちのけ・・・今現在、ブログで調べたら、「天理図書館のロサンゼルスのアメリカ伝道庁の『ひのもと文庫』が開館されたのは1954年5月29日」とあった。
・・・『ひのもと文庫』で日本語の勉強。そして、日系人のコト(歴史)を知ったのが下宿させてもらった広島から「アメリカに移民」した老夫婦のハナシを通して・・・「一攫千金のハナシをモノガタリ」にしようと、書き始めたのが、ボクの「ド素人の小説」・・・
↓
「エメラルドブルーの謎
(碧き眼の人形伝説)」
初稿1979年ロスにて
改稿1988年
改稿1993年
改稿2004年
by goro naie
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/blue/blue9a9.htm
・・・帰国に際しては「古本の大蔵経(大正新脩大藏經・大正一切経刊行会)・大正13年(1924年)~昭和9年(1934年)」を全巻、ロスで買いこんできたが・・・「松浦武四郎」を知ったのは帰国後、名古屋の今池に住みだしてから・・・古本屋で探したが彼に関する「本」は手に入らず、「百科事典」ぐらいからの知識。当時はインターネットなどと云う情報提供のシロモノも無く、高額なワープロ全盛期・・・大須に移転して、「阪神・淡路大震災」は1995年(平成7年)1月17日(火)5時46分52秒に発生、その時はボクの「ホームページ(ソフトバンク)」は既につくっていた?・・・2001年・・・「松浦武四郎記念館」のブログ記事を発見したのは「小説の改稿が2004年」前のコトだから、・・・調べてみたら「ブログ日記」を書き始めたのが「2006年03月26日」・・・記憶が曖昧である・・・
ーーーーー
以下の歴史年表の
参考、参照の原文は
三重県
松阪市
教育委員会事務局
松浦武四郎
記念館の
ブログ記事より
抜粋添付させてもらいました
↓
松浦武四郎
年齢はすべて数え年
年号は生年を除いて、
途中で改元になった場合は、
新しい年号で表記
↓
諸国遍歴
西暦日本年号 日本、武四郎の主な出来事
↓↓ ↓
1818文化15→伊能忠敬没
松浦時春(桂介)の四男として
「竹四郎」が誕生 1歳
1821文政 4→「大日本沿海輿地全図」完成 4歳
1824文政 7→近くの寺で読み書きを習い、
「名所図会」を愛読 7歳
1825文政 8→異国船打払令
武四郎 8歳
1828文政11→シーボルト事件
武四郎 11歳
1830天保元→文政のおかげ参り
津藩平松楽斎の私塾に学ぶ 13歳~16歳
1833天保 4→天保の大飢饉(~39)
武四郎
手紙を残して突然家出
江戸で見つかり連れ戻される 16歳
1834天保 5→水野忠邦老中就任
武四郎
全国を巡る旅に出る。
近畿→中国→四国→近畿 17歳
1835天保 6→近畿→北陸→甲信越→
東北→関東→中部→近畿→四国 18歳
1836天保 7→四国八十八ヶ所霊場巡礼
近畿→山陰→山陽(鞆の浦) 19歳
1837天保 8→大塩平八郎の乱
モリソン号事件
武四郎
山陽→九州一周 20歳
1838天保 9→武四郎
長崎で大病、
「禅林寺」で出家し
僧侶
「文桂」となる 21歳
1839天保10→蛮社の獄
渡辺崋山、
高野長英、
小関三英
らを弾圧
武四郎
平戸の
「千光寺」で住職を務める 22歳~24歳まで
1840天保11→清、イギリスとアヘン戦争(40~42)
武四郎 23歳
1841天保12→天保の改革(水野忠邦)
武四郎 24歳
1842天保13→天保の薪水給与令
武四郎
対馬から
朝鮮半島へ渡ろうとしたが果たせず 25歳
1843天保14→老中は阿部正弘
武四郎
長崎で
ロシア南下の危機を知り、
一転蝦夷地を目指す、
郷里へ戻り参宮と父母の墓に参る
「西海雑誌」を著す 26歳
1844弘化元→フランス船が
琉球来航、
オランダ国王が開国勧告
武四郎
郷里で
「四国遍路道中雑誌」を執筆、
青森の
鰺ヶ沢まで行き蝦夷地を目指すが、
松前藩の取締りが厳しく果たせず 27歳
蝦夷地調査と
志士としての活動
1845弘化 2→イギリス船
琉球来航
武四郎
第1回蝦夷地探査
商人和賀屋孫兵衛の手代に身を変え、
函館→森→有珠→室蘭→襟裳→釧路→
厚岸→知床→根室→函館を巡る 28歳
1846弘化 3→米使ビッドル
浦賀来航
武四郎
第2回蝦夷地探査
松前藩医
西川春庵の
下僕「雲平」として、
江差→宗谷→樺太→宗谷→紋別→
知床→宗谷→石狩→千歳→江差を巡る、
江差では志士
頼三樹三郎と
「一日百印百詩の会」を催す 29歳
1849嘉永 2→嶺田楓江
「海外新話(アヘン戦争を記す)」を著し、
幕府より絶版、江戸から追放
武四郎
第3回蝦夷地探査
函館から船で
国後島、択捉島へ渡る 32歳
1850嘉永 3→武四郎
「初航蝦夷日誌」全12冊
「再航蝦夷日誌」全14冊
「三航蝦夷日誌」全8冊が完成、
「蝦夷大概図」、
「新葉和歌集」を出版 33歳
1851嘉永 4→武四郎
「蝦夷沿革図」、
「表忠崇義集」を出版、
「断璧残圭」、
「盍徹問答」、
「婆心録」を復刻 34歳
1853嘉永 6→6月アメリカの
ペリー浦賀に来航、
7月ロシアの
プチャーチン長崎に来航
武四郎
吉田松陰と海防問題を語り合う
「読史贅議」を復刻 36歳
1854安政元→ペリー再航、
日米和親条約、
日露和親条約(幕府は日露国境の画定を迫られる)
武四郎
宇和島藩の依頼により
下田でペリー一行の様子を調査(「下田日誌」)
「壺の石(蝦夷地)」を出版 37歳
1855安政 2→蝦夷地を松前藩領から幕府に再直轄
日蘭和親条約
武四郎
幕府から
蝦夷地御用御雇入の命を受ける
「後方羊蹄於路志」、
「於幾能以志」を出版 38歳
1856安政 3→アメリカ総領事ハリス着任
武四郎
第4回蝦夷地探査
函館→宗谷→樺太→宗谷→函館を巡る
「箱館往来」を出版 39歳
1857安政 4→下田協約調印
武四郎
第5回蝦夷地探査
函館→石狩→上川→天塩→函館を巡る
「蝦夷葉那誌」、
「新選末和留辺志」を出版 40歳
1858安政 5→日米修好通商条約
井伊直弼による
安政の大獄(1858年~59)
武四郎
第6回蝦夷地探査
北海道全ての海岸→十勝→阿寒→日高を巡る
「近世蝦夷人物誌」の出版が許可されず
「壺の石(北蝦夷地)」を出版 41歳
1859安政 6→安政の大獄により、
吉田松陰、
頼三樹三郎ら死刑
武四郎
「按西・按東・按北扈従録」全32冊
「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」全23冊
「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」全62冊が完成、
「東西蝦夷山川地理取調図」全28冊
「蝦夷漫画」、
「蝦夷地名奈留辺志」を出版 42歳
1860万延元→勝海舟ら咸臨丸で太平洋横断
桜田門外の変で
井伊直弼暗殺
武四郎
「北蝦夷余誌」、
「蝦夷闔境山川地理取調大概図」を出版 43歳
1861文久元→皇女和宮が将軍家茂へ降嫁
武四郎
「後方羊蹄日誌」
「石狩日誌」
「久摺日誌」
「十勝日誌」を出版 44歳
1862文久 2→坂下門外の変
「夕張日誌」を出版 45歳
1863文久 3→薩英戦争
武四郎
「納沙布日誌」
「知床日誌」
「天塩日誌」を出版 46歳
1864元治元→四国連合艦隊が下関砲撃
幕府第一次長州征討
武四郎
「鴨?頼先生一日百詩」
「新板蝦夷土産道中寿五六」
「新板箱館道中名所寿語六」を出版 47歳
1865慶応元→第二次長州征討
武四郎
「西蝦夷日誌 初編」
「同 二編」
「東蝦夷日誌 初編」
「同 二編」を出版 48歳
1867慶応 3→10月大政奉還
12月王政復古の大号令
武四郎 50歳
明治維新と開拓使での活動
1868慶応 4→明治元年
1月鳥羽伏見の戦(戊辰戦争)
3月神仏分離令(廃仏毀釈運動)
4月江戸開城
武四郎
閏4月
上京の召書、東海道間道調べ、
任徴士
箱館府判官事 51歳
1869明治 2→1月版籍奉還上奏
3月東京遷都
5月榎本武揚ら箱館で降伏
(戊辰戦争終了)
8月蝦夷地を北海道と改称
武四郎
任
開拓判官
道名・国名・郡名撰定に尽力
叙従五位
「蝦夷誌」を復刻
「北海道国郡図」
「北海道国郡略図」
「千島一覧扇面」
「西蝦夷日誌三編」
「東蝦夷日誌 三編」
「同 四編」を出版 52歳
1870明治 3→武四郎
開拓判官辞職(従五位返上)
「蝦夷年代記」
「壺乃碑考」
「林氏雑纂」
「千島一覧」
「西蝦夷日誌 四編」
「東蝦夷日記 五編」を出版 53歳
1871明治 4→寺領上知の令
廃藩置県
日清修好条規調印
武四郎
「竹島雑誌」
「読史贅議逸編」
「西蝦夷日誌 五編」
「東蝦夷日誌 六編」を出版 54歳
1872明治 5→学制公布
新橋・横浜間鉄道開通
「百蟲行」
「西蝦夷日誌 六編」を出版 55歳
1873明治 6→徴兵令
地租改正条例
征韓論敗れる
伊勢度会県博覧会へ出品
武四郎
岩倉具視邸内の長屋から・・・?岩倉具視の長屋
神田五軒町へ引越し書画会を開く
「東蝦夷日誌 七編」を出版 56歳
1874明治 7→佐賀の乱(島義勇死刑)
武四郎 57歳
1875明治 8→樺太・千島交換条約
江華島事件
武四郎
北野天満宮へ
大神鏡を奉納 58歳
1876明治 9→日朝修好条規締結
武四郎
上野東照宮へ大神鏡を奉納
「馬角斎茶余」を出版 59歳
1877明治10→西南戦争
モースが大森貝塚発掘
武四郎
考古図録といえる
「撥雲余興」を出版 60歳
1878明治11→大久保利通暗殺
武四郎
「新獲小集」
「東蝦夷日誌八編」を出版 61歳
1879明治12→教育令公布
沖縄県設置(琉球処分)
武四郎
大阪天満宮へ
大神鏡を奉納
妻と京都・吉野漫遊
「尚古杜多」
(同題で二種類・?)を出版 62歳
1880明治13→国会期成同盟結成
武四郎
吉野の金峯山神社へ
大神鏡を奉納
「そめかみ」
「松のけふり」
「庚辰游記」を出版 63歳
1881明治14→国会開設勅諭
明治十四年の政変
自由党結成
松方財政、
開拓使官有物払下事件
武四郎
「辛巳游記」を出版 64歳
1882明治15→井上馨が条約改正交渉
立憲改進党
立憲帝政党結成
日本銀行設立
武四郎
太宰府天満宮へ
大神鏡を奉納
「撥雲余興二集」
「壬午游記」を出版 65歳
1883明治16→徴兵令改正
岩倉具視没
三井寺に鍋塚建立
武四郎
熊本・宮崎を漫遊、
「癸未溟誌」を出版 66歳
1884明治17→松方デフレで不況
秩父事件
武四郎
高野山の骨堂に抜けた
髪や歯を納め、近畿地方を巡る
「甲申小記」を出版 67歳
1885明治18→天津条約調印
大阪事件
内閣制度創設
武四郎
1月までに25霊社へ
小神鏡と
石標奉納
第1回
大台ケ原探査
「乙酉掌記」
「乙酉後記」を出版 68歳
1886明治19→学校令公布
北海道庁設置
星亨ら大同団結運動提唱
武四郎
第2回
大台ケ原探査
「聖跡二十五霊社順拝双六」
「丙戌前誌」
「丙戌後記」を出版 69歳
1887明治20→伊藤博文が憲法起草開始
保安条例公布(570名が東京追放)
武四郎
第3回
大台ケ原探査
東海・近畿・四国・山陽・九州を巡る
富士登山
畳一畳の書斎を建てる
「木片勧進」
「丁亥前記」
「丁亥後記」を出版 70歳
1888明治21→市制・町村制公布
枢密院設置
武四郎
叙従五位
2月10日没
浅草称福寺に墓所
(東京
染井
墓地に移る)
明治22年に
大台ケ原へ
追悼碑(分骨碑)が建立 71歳
↑
松阪市
教育委員会事務局
松浦武四郎記念館のブログ記事より抜粋添付
ーーーーー
・・・コンガラがッテいたモノや人物が「松浦武四郎」で繋がっているように思える・・・のだが?
・・・「秋葉実」さん・・・名前も著書も、全然知らなかった人物だけれど、ボクの「大先輩(?)」だったヒトらしい・・・知っていたなら一度はお会いして「ハナシ」を訊いてみたかった・・・松浦武四郎の著書「百蟲行」の内容はどうなんだろう・・・
1926年
大正十五年誕生
東京の
陸軍
少年
通信
兵学校
を修了
日大法学部を中退
丸瀬布に帰郷
1948年
町広報紙を兼ねる
週刊新聞
「山脈(やまなみ)」創刊に参加
・・・「1948年」ですか・・・終戦が「1945年」だった・・・その頃、ボクは何処に居たんだろう・・・「西芦別」・・・
ーーーーー
以下・・・
原文は「どうしんウェブ」の記事より抜粋・・・
↓
秋葉実さん死去
八十八歳
松浦武四郎の研究家
04/12 07:15
秋葉実さん
(遠軽)
北海道の名付け親である
江戸時代の
蝦夷地(えぞち)探検家、
松浦武四郎研究
オホーツク管内
遠軽町
丸瀬布の歴史研究家
秋葉実(あきば・みのる)さんが
11日午前9時31分、
肺気腫のため丸瀬布厚生病院で死去
88歳
1926年(大正15年)生まれ
東京の
陸軍少年
通信兵学校を修了
日大法学部を中退
丸瀬布に戻り、
1948年
町広報紙を兼ねる
週刊新聞「山脈(やまなみ)」創刊に参加
1953年から1989年まで編集長を務め、
郷土史研究に打ち込んだ。
その過程で出会った武四郎の研究に没頭。
武四郎の多くの著作、
探検中のメモ帳などを
解読して現代語訳したほか、
研究書を数多く発表した。
ーーーーー
・・・ブログで「百蟲行」を調べていたら・・・「百蟲綱」があった・・・「Vilekin」は直訳すれば「不快な血族」、「卑しい種族」といった意味・・・「貴金属に対する卑金属とかいったニュアンス」・・・「アリ、サソリといった、いわゆる「虫(≠昆虫)」系の魔物がここに分類」・・・「虫(系)の魔物」?・・・「虫(中+ム)の魔物」・・・
チゴー属
スウォーム属
ナット属
ヤーゾン属
アントリング属
ダイアマイト属
ビートル属
・・・「貴金属」は「寄金族」で、対する「卑金属」は「非金族」・・・「卑弥呼は勤続」・・・
ついでに、興味が「馬籠・馬篭・馬込」に飛んで、チョッと調べて添付した・・・コモっているのは「新約聖書」の「馬」と、「史記」の「馬」と、「古事記・日本書紀」の「天孫降臨」だから・・・関係無い妄想か・・・
↓
「奥州千葉氏の一族
千葉介胤正の末子
胤親が
寛喜二年(1230)、
桃生郡・・・・・伊達正宗が
洋型帆船を造船
深谷に移り住み、
その子
胤次が後を継ぐ・・・
正応二年(1289)年
本吉郡
馬籠村に移り
馬籠氏を称し・・・
忠広 の嫡子
広行は
馬籠
遠野城を築いてそこに移り住み、
弟の広胤は
気仙郡矢作に移って
矢作を称している」・・・?
↓
妻籠(つまご)
江戸時代は
中山道
木曽
十一宿の宿駅として栄えた
↓
妻籠宿
中山道
四十二番目の
宿場(中山道六十九次)
長野県
木曽郡
南木曽町
蘭川(あららぎがわ)東岸に位置
↓
馬籠
岐阜県
中津川市の北
馬籠峠
↓
地名は
馬を宿に置いていったことが由来
峠の頂上に
1891年(明治二十四年)に
訪(オトず)れた
正岡子規の石碑がある・・・
「ホトトギス」は結核の象徴
・・・「ホトトギス」の漢字の異字・・・
山の中の
「妻籠宿・馬籠宿」
↓
マゴメ=馬籠・・・天孫をコメタのは「衾」
鹿児島県
肝属郡
南大隅町
佐多
馬籠発祥
栃木県
芳賀郡
茂木町
小井戸(馬籠)発祥
岐阜県
中津川市
馬籠発祥
↓
創賜
江戸時代にあった
門割制度の
馬籠門から「馬篭」
位置の例は
鹿児島県
日置市
吹上町和田
鹿児島県
姶良市
三拾町
宮崎県
都城市
乙房町
真籠
↓
宮城県
北海道
宮城県
気仙沼市
本吉町
馬籠(マゴメ)町発祥
馬篭
埼玉県
真篭
間込
眞籠
宮城県・茨城県、福島県
真米
間米
真菰
孫本 和歌山県田辺市
↓
馬籠の地名の由来
「馬が越えられないほど
険しい峠なので
麓に馬を置いて峠越え」
・・・
中山道の
木曾路最南端の宿場町
長野県
木曾郡
山口村に属
馬籠の地名の初出は
1215年
(建保三年)
馬籠
法明寺旧蔵の
大般若経の奥書に記録
木曾氏の部将、
島崎氏に馬籠砦を守らた
1601年
(慶長六年)宿駅に指定
1843年
(天保十四年)
「中山道宿村大概帳」に
東西
3町33間
家数
69軒と記録
木曾
十一宿の中
最小規模の宿場町
島崎藤村の生地で、
藤村の小説
「夜明け前」の舞台
島崎藤村は
馬籠宿の
本陣の子・・・
・・・やっと、オワッタ・・・「創世記」・・・「医者の道」よりも「社会変革の道」を選んだ「キューバ=玖馬・玖瑪・久場・古巴」の「チェ・ゲバラ(エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ=Ernesto Rafael Guevara de la Serna」・・・「エル・チェ (El Che)」、「病人の治療より重要なこと、病人を出さないこと」・・・「キューバ社会」は貧しくはない・・・教育費の無償化、医療費の無料化、人権の公平化、何よりも「高級車(骨董者)」を乗り回している・・・「エル・チェ (El Che)」は1659年7月15日来日、12日間滞在、広島原爆資料館訪問・・・「人間社会の理想と現実のパラドックス」を自覚していた「銃を持つ医者」でもあった彼は何処かへフッ飛んじまった・・・いまや「中東でテロ国家」を標榜する人間たちには「殺人」だけで「社会変革の医者である意識」の存在は皆無・・・
「病人・患者」を「救うコト」を目指していたのは「新約聖書のルカ(コロサイ書・愛する医者ルカ)=路加」のシンボルは「牛」だったが・・・癩病(ライ病・ハンセン病・ツァラアト・レプラ)や様々な医療を施した「キリスト」も元々は「治療、治癒技術を有する医者」だったに違いない・・・キリストは、
ヒポクラテス(ヒッポクラテス・Hippocrates)の弟子だった。
ヒポポタマス(Hippopotamus)は、
「河馬」である。
アフリカ(アフロ ユーラシア)の淡水域に棲息し、
水陸両棲の形質を持つ、大型の草食性哺乳類だが、時速40キロで走る。皮膚が弱く「血の汗」と云われる粘液を体表から分泌する。人間は象牙に替わるモノとして河馬の歯牙で印鑑も造っているらしい・・・エジプトでは「トゥエリス女神」は、河馬の女神で、妊婦の守護神である。河馬と共生する鳥は「ウシツツキ」で、一般的に草食動物の皮膚に寄生するダニなどを捕食する・・・
以下の参照、参考原文は「ウイッキぺデア」・・・
↓
ツァラアト・・・・たらあと(鱈痕・太良跡)・通粗痕?
語源
アラビア語
「撒布・発疹・斑紋」
「崩壊する・打ちくだく
→神によって打ちくだかれた」
「屈従・天罰」へ意味転化・・・
レビ記
人間の皮膚表面に現れる
「斑紋・疥癬・白癬・腫物・潰瘍」
「疥癬(かいせん・scabies)」は、
無気門亜目ヒゼンダニ科の
ダニ(壁蝨、蜱、蟎、螕)、
ヒゼンダニの
寄生による皮膚感染症
湿瘡(しっそう)
皮癬(ひ ぜん)
羊(ヒツジ)の
疥癬(カイセン)は
家畜伝染病予防法の伝染病
itch=かゆ(痒)み、掻痒(ソウヨウ)
itching=かゆ(痒)い・うず(疼)く
my skin itched(itching)
衣服、織物、皮革などの表面に現れる
「変色・汚れ・カビ・しみ」
家屋の壁の「変色・カビ・崩れ」
「人間の皮膚の鱗(うろこ)状の病気」
「壁、布、皮のかび(黴、醭)」
「儀式上の汚(けが・穢)れ」
↓
「シーボルト(置維波斯徳利)」は「鳴瀧塾」で日本人の弟子たちにナニを教えたのか・・・
ーーーーー
種痘
古くから西アジアや中国では、
天然痘患者の
膿を健康人に接種して
軽度の天然痘を起こさせて
免疫を得る
人痘法が行なわれていたが、
安全性は充分でなかった。
1796年に
イギリスの医師
エドワード・ジェンナーが、
ウシが感染する
牛痘の膿を用いた
安全な牛痘法を考案・・・・牛痘=牛頭
牛頭大王
祇園祭
「ワクチン」・・・・・・・和苦鎮?
という言葉も
この時から用いられた
天然痘ウイルスを
兎(ウサギ)の睾丸を通して
弱毒化した後に
牛に接種して作った
「牛化人痘ワクチン」が開発・・・ミノタウルス
↓
日本への伝来、普及
1790年
秋月藩の藩医
緒方春朔
が種痘を実施
ジェンナーの牛痘方法ではなく、
天然痘の
瘡蓋(かさぶた)の粉末を接種する方法
1810年
ロシア(露西亜)に拉致された
中川五郎治が、
帰国後に牛痘を用いた種痘法を実践
1814年
安芸国の漂流民
久蔵が種痘法を覚え、
牛痘を日本に持ち帰って効果を
広島藩主に進言、一笑に付される
1849年
佐賀藩の医師
楢林宗健
と
長崎のオランダ人医師
オットー・モーニッケが種痘を実施
日野鼎哉が京都で
緒方洪庵が大坂で
「除痘館」を設立開館
1858年
江戸で
伊東玄朴・箕作阮甫・林洞海・戸塚静海
石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端
手塚良仙ら蘭方医
83名の資金拠出により、
神田
松枝町(東京都
千代田区
神田
岩本町2丁目)の
川路聖謨の屋敷内に
「お玉が池種痘所」が設立された
(後の東京大学)
1909年
「種痘法」によって国民に定着
↓
牛頭人身の怪物
クレーテー島の
ミーノース王の妻
パーシパエーの子
「ミノタウロス」・・・美濃多雨露洲?
ミーノース王は、
後で返すという約束で
ポセイドーンに願って
白い雄牛を得たが、
ポセイドーンとの約束を反故にし
白い雄牛を生け贄に捧げず、
代わりの
雄牛を生け贄とした
激怒したポセイドーンは
后妃パーシパエーに呪いをかけ、
彼女は
白い雄牛に性的に発情
ダイダロスに命じて
雌牛の模型を作らせ、
彼女は
模型の中へと入り雄牛と性交し
ミーノータウロスを産む
子供は
「アステリオス(Asterios=星・雷光)」
と名づけられるが、
「ミーノース王の牛」として
「ミーノータウロス」と呼ばれた
多得賂素
ミーノース王は
ダイダロスに命じて
迷宮(ラビュリントス)を建造
彼を閉じ込めた
ミーノース王は
ミーノータウロスの食料として
アテーナイから
9年毎に
7人の少年、
7人の少女
の生贄を送らせることにし
3度目の生贄にアテーナイの
英雄
テーセウスが混ざり、
ラビュリントスに侵入し
ミーノータウロスを倒した
迷路であるラビュリントスから
ミーノース王の娘
アリアドネーからもらった
糸玉によって脱出・・・・
ーーーーー
↓
キリスト教
1549年(天文十八年)
日本へ伝えられた
1563年(永禄六年)頃まで
イエズス会士
フアン・フェルナンデス(J.Fernandez,SJ)
「新約聖書」の
「四福音書
(マタイ福音書、マルコ福音書、
ルカ福音書、ヨハネ福音書)」
を翻訳
火災で原稿が焼失・・・
ルイス・フロイス(Luis Frois,SJ)
典礼用に四福音書の
3分の1ほどを訳す
1613年(慶長十八年)頃まで
京都で「新約聖書」全体を
イエズス会が出版
だが、
「キリシタン版
日本語訳新約聖書」は現存しない
内容の一部分が、
残存文書から知れる
最古のものは、
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
が編纂した
「日本のカテキズモ(カテキズム)」の訳稿
ポルトガルの
エヴォラ図書館の
古屏風の
下張りから発見
「キリシタン版日本語訳新約聖書」のうち、
コヘレトの言葉(3章7節)
イザヤ書(1章11節)
が記されている
他にも、
「キリシタン版
日本語訳新約聖書」のうち、
受難物語部分の
「御主ゼス キリシト御パッションの事」
カテキズムをまとめた
「どちりなきりしたん」
などがある。
「御主ゼス
キリシト
御パッションの事(原文はローマ字)」
「パンを取り挙げ、文をとなえ、割り給い、
御弟子達(でしぼろ)に賜り、
これ
わわが
身肉なり
服せられよとのたまひて
また
カリスを取り上げ給い、
御礼あって
御弟子達に下され
のたまいけるわ
各々これを飲まれよ
汝達と
数多の
人の科(とが)を送るべきために
流すべき
新しき
テスタメントのわが身の血なり。
汝達われを思い出すために
かくの如くいたされよ
(マタイ26:26-29,一部ルカ22:19挿入)」
1630年(寛永七年)
キリスト教関係の書物輸入が禁じられ、
キリスト教文献はことごとく放逐
漢籍やオランダ書のキリスト教文献が
小規模ながらも密輸されており、
聖書に関する知識は
細々と日本に入ってきた
中には、
平戸藩領主
松浦静山のように、・・・・松浦静山
聖書の注解書を手に入れて
密かに
蘭学者に翻訳させていた
復古神道の大成者である
平田篤胤・・・・・・・・・平田篤胤
が著した
「本教外編」
の中には、
「山上の垂訓」と
そっくりの記述
これは、
漢籍の
キリスト教文献からの
剽窃であることが
実証されている・・・・
平田篤胤
「本教外編」
「義の為にして。
窘難を被るものは。
すなわち
真福にて
その己に
天国を得て
処死せざると為るなり」
(山上の垂訓・マタイ伝福音書-第五章・文語訳)
「幸福なるかな、
義のために責められたる者。
天國はその人のものなり。(マタイ5:10)」
「我主イイススハリストスノ新約
イオアンに因る
聖福音(ヨハネによる福音書・第一章1節-3節」
1 太初(はじめ)に言(ことば)有あり、
言(ことば)は神(かみ)と共に在(あり)、
言(ことば)は即(すなは)ち神(かみ)なり。
2 是(この)言(ことば)は
太初(はじめ)に神(かみ)と共に在(あり)。
3 萬物(ばんぶつ)は彼に由(より)て造れたり、
凡(およそ)造(つくられた)る者には、
一(いつ)も彼に由らずして造られしは無(なし)。
・・・
ーーーーー
↓↑
旧約聖書
創世記
第50章
50:1
ヨセフ
は
父の
顔に
伏して
泣き、
口づけした
50:2
そして
ヨセフは
彼のしもべで
ある
医者たちに、・・・・・・医者たち
父に
薬を塗ることを
命じたので、
医者たちは
イスラエルに
薬を塗った
50:3
このために
四十日を費した。
薬を塗るには
これほどの日数を要するのである。
エジプトびとは
七十日の間、
彼のために泣いた
50:4
彼のために
泣く日が過ぎて、
ヨセフは
パロの家の者に言った、
「今もし
私(わたし・ム・よこしま)が
あなたがたの前に恵みを得るなら、
どうか
パロに伝えてください
50:5
『私(わたし・ム・よこしま)の父は
私(わたし・ム・よこしま)に
誓わせて言いました
「私(わたし・ム・よこしま)は
やがて死にます。
カナンの地に、
私(わたし・ム・よこしま)が
掘って置いた墓に葬ってください」。
それで、
どうか
私(わたし・ム・よこしま)を
上って行かせ、
父を葬らせてください。
そうすれば、
私(わたし・ム・よこしま)は
また帰ってきます』」
50:6
パロは言った、
「あなたの父が
あなたに誓わせたように
上って行って彼を葬りなさい」
50:7
そこで
ヨセフは
父を葬るために上って行った。
彼と共に上った者は
パロのもろもろの家来たち、
パロの家の長老たち、
エジプトの国(くに・コク)の
もろもろの長老たち、
50:8
ヨセフの全家と
その兄弟たち
及び
その父の家族であった。
ただ
子供
と
羊(ひつじ・ヨウ)
と
牛(うし・ギュウ・ゴ)
は
ゴセン・・・・(語選)
の地に、残した・(埜字似。、遺した)
50:9
また
戦車と
騎兵も
彼と共に上ったので、
その行列は
たいそう盛んであった
50:10
彼らは
ヨルダン・・・・
の向こうの
アタデ・・・・
の打ち場に行き着いて、
そこで
大いに嘆き、
非常に悲しんだ。
そして
ヨセフは
七日の間
父のために嘆いた
50:11
その地の住民(たみ・ミン)、
カナンびとが
アタデの打ち場の嘆きを見て、
「これはエジプトびとの
大いなる嘆きだ」
と言ったので、
その所の名は
アベル・ミツライム
と呼ばれた。
これは
ヨルダン
の向こうにある
50:12
ヤコブの子らは
命じられたように
ヤコブにおこなった
50:13
すなわち
その子らは彼を
カナン・・・・
の
地へ運んで
行って、
マクペラ・・・・
の畑の
ほら穴に葬った。
このほら穴は
マムレ・・・・
の東にあって、
アブラハム
が
ヘテびと・・・・
エフロン・・・・
から畑と共に買って、
所有の墓地としたものである
50:14
ヨセフは父を葬った後、
その兄弟たち
及び
すべて父を葬るために
一緒に上った者と共に
エジプトに帰った
50:15
ヨセフの兄弟たちは
父の死んだのを見て言った、
「ヨセフはことによると
我々(われわれ・ガガ)を憎んで、
我々(われわれ・ガガ)が
彼にしたすべての悪に、
仕返しするに違いない」
50:16
そこで
彼らは
ことづけして
ヨセフに言った、
「あなたの父は
死ぬ前に
命じて言われました、
50:17
『おまえたちは
ヨセフに言いなさい、
「あなたの兄弟たちは
あなたに悪をおこなったが、
どうかその
とがと罪を
ゆるしてやってください」』。
今どうか
あなたの父の神に仕える
しもべらの
とが
を
ゆるしてください」。
ヨセフはこの
言葉を聞いて泣いた
50:18
やがて
兄弟たちもきて、
彼の前に伏して言った、
「このとおり、
私(わたし・ム・よこしま)たちは
あなたのしもべです」
50:19
ヨセフは彼らに言った、
「恐れることはいりません。
私(わたし・ム・よこしま)が
神に代ることができましょうか
50:20
あなたがたは
私(わたし・ム・よこしま)
に対して
悪をたくらんだが、
神はそれを
良きに変らせて、
今日のように
多くの民(たみ・ミン)の
命を救おうと計らわれました
50:21
それゆえ
恐れることはいりません。
私(わたし・ム・よこしま)は
あなたがたと
あなたがたの子供たちを
養いましょう」。
彼は
彼らを慰めて、
親切に語った
50:22
このようにして
ヨセフは
父の家族と共に
エジプトに住んだ。
そして
ヨセフは
百十年
生きながらえた
50:23
ヨセフは
エフライム・・・・
の
三代の子孫を見た。
マナセ・・・・
の子
マキル・・・・
の子らも
生れて
ヨセフの
ひざの上に置かれた
50:24
ヨセフは兄弟たちに言った、
「私(わたし・ム・よこしま)は
やがて死にます。
神は必ず
あなたがたを顧みて、
この国(くに・コク)から連れ出し、
アブラハム、
イサク、
ヤコブ
に誓われた地に
導き上られるでしょう」
50:25
さらに
ヨセフは、
「神は
必ず
あなたがたを顧みられる。
その時、
あなたがたは
私(わたし・ム・よこしま)の
骨を
ここから携え上りなさい」
と言って
イスラエルの子らに
誓わせた
50:26
こうして
ヨセフは
百十歳
で死んだ。
彼らは
これに
薬を塗り、
棺に納めて、
エジプト
に置いた
ーーーーー
・・・