創業100年なんて聞くと随分昔で、このごろはすぐ老舗なんて言われるけれど、ふと気がつくと自分の生まれた年よりそれほど昔ではない。
でもやっぱり昔ではある。
太平洋戦争が始まる直前に生まれ、戦後すぐに小学校入学だった。
疎開先は飯田だった。父は仕事の関係で東京に残り、母と我々は祖父の元へ。
その頃までは食べものの記憶は殆どない。
食料調達で親たちにくっついて山野草を採って帰って空腹の足しにしたことを憶えている程度だ。
アマナとか、ウコギとか。
動物性タンパク質はセミ(!)やカイコのさなぎがまれに口に入り、あとはイナゴの佃煮くらい。
カイコのさなぎは絹糸を取った後の茹で上ったものを乾燥した奴だったらしい。
親は食料調達に苦労したことだろう。
戦後は千葉に住むことになった。
入学した小学校は稲毛の海岸近く。
家は雨露をしのげる程度の県営住宅を陸軍の払い下げ用地に県が用意してくれた。
真冬には屋根の隙間から雪が振り込み枕元にうっすらと積もるような住宅だった。
食糧難は少し良くなったものの、水道はまだで、給水車まで母と水汲みにいった。
父は大学が休みの時を見計らって庭に色な野菜類を作っていた。
インゲン、ゴマ、サツマイモ、カボチャ、南京豆等々。
小麦も作って冬場に麦踏みを手伝った。
後には贅沢にもイチゴも栽培した。
下には田んぼが広がっていた。
一時期、父と日没後ドジョウを穫りにいった。
アセチレンランプをともし、手にはドジョウたたき棒を持ち、ランプ便りに泥の中から這い出て餌をあさっているドジョウを仕留めるのだ。
ドジョウたたき棒という奴は単純きわまりないもので、細い竹棒の先に金属製の櫛歯を括り付けたものである。
捕ってきたドジョウはブリキのバケツの中で水中で一晩泥を吐かせ、翌朝のみそ汁としてありがたくいただく。
後年これを懐かしんでか時々浅草までどじょう鍋を食べにいった。今は高くて行く気にならない。
田んぼにはタニシやザリガニも沢山いたが食べることはなかったし、その後は農薬のせいか姿を見かけなくなった。
そして田んぼは埋め立てられアパート用地になったが、ナメクジ長屋になったかどうかは知らない。
稲毛海岸までは国鉄(省線と祖父は言っていた)と京成の踏切を越えて歩いていけた(小学校も同じ)。
冬場は小学校に登校する途中に東京湾越しに富士山がよく見えた。
潮干狩りで食料調達した稲毛海岸も今は埋め立てられ、アパ〜ト群が立ち並び海岸線はズ〜〜と遠くなった。
遠浅の海ではアサリやバカガイ、オオノガイ、シオフキ、まれにハマグリが採れた。
シオフキはそのままでは商品価値がないので浜のばあちゃんがシオフキの干し貝にして売りに来てくれた。
安いので結構買い込んで電気コンロであぶって食べるのが我が家の楽しみ。
もう無いのだそうだ。今は手に入らない懐かしい食べ物の第一位だ。
この時代の小学生には時間は一杯ある。
小学校一年の頃は校舎も足りないので午前・午後に別れる二部授業だ。
半日は学校に行かない。それを不思議とも思わない。
時間はあるので何か食べるものは無いかと調達に仲間と出かける。
時期により、木イチゴ、ムクイノミ(紫色、本名はなんていうのだろう)、グミあたりは勝手に取ってよい。
枇杷はこっそり。イチジクは庭に自生していた。
時代が下がったり、住む場所が変わったりで口に入らなくなったものはこの他随分ある気がする。
思い出したらまた・・・。
でもやっぱり昔ではある。
太平洋戦争が始まる直前に生まれ、戦後すぐに小学校入学だった。
疎開先は飯田だった。父は仕事の関係で東京に残り、母と我々は祖父の元へ。
その頃までは食べものの記憶は殆どない。
食料調達で親たちにくっついて山野草を採って帰って空腹の足しにしたことを憶えている程度だ。
アマナとか、ウコギとか。
動物性タンパク質はセミ(!)やカイコのさなぎがまれに口に入り、あとはイナゴの佃煮くらい。
カイコのさなぎは絹糸を取った後の茹で上ったものを乾燥した奴だったらしい。
親は食料調達に苦労したことだろう。
戦後は千葉に住むことになった。
入学した小学校は稲毛の海岸近く。
家は雨露をしのげる程度の県営住宅を陸軍の払い下げ用地に県が用意してくれた。
真冬には屋根の隙間から雪が振り込み枕元にうっすらと積もるような住宅だった。
食糧難は少し良くなったものの、水道はまだで、給水車まで母と水汲みにいった。
父は大学が休みの時を見計らって庭に色な野菜類を作っていた。
インゲン、ゴマ、サツマイモ、カボチャ、南京豆等々。
小麦も作って冬場に麦踏みを手伝った。
後には贅沢にもイチゴも栽培した。
下には田んぼが広がっていた。
一時期、父と日没後ドジョウを穫りにいった。
アセチレンランプをともし、手にはドジョウたたき棒を持ち、ランプ便りに泥の中から這い出て餌をあさっているドジョウを仕留めるのだ。
ドジョウたたき棒という奴は単純きわまりないもので、細い竹棒の先に金属製の櫛歯を括り付けたものである。
捕ってきたドジョウはブリキのバケツの中で水中で一晩泥を吐かせ、翌朝のみそ汁としてありがたくいただく。
後年これを懐かしんでか時々浅草までどじょう鍋を食べにいった。今は高くて行く気にならない。
田んぼにはタニシやザリガニも沢山いたが食べることはなかったし、その後は農薬のせいか姿を見かけなくなった。
そして田んぼは埋め立てられアパート用地になったが、ナメクジ長屋になったかどうかは知らない。
稲毛海岸までは国鉄(省線と祖父は言っていた)と京成の踏切を越えて歩いていけた(小学校も同じ)。
冬場は小学校に登校する途中に東京湾越しに富士山がよく見えた。
潮干狩りで食料調達した稲毛海岸も今は埋め立てられ、アパ〜ト群が立ち並び海岸線はズ〜〜と遠くなった。
遠浅の海ではアサリやバカガイ、オオノガイ、シオフキ、まれにハマグリが採れた。
シオフキはそのままでは商品価値がないので浜のばあちゃんがシオフキの干し貝にして売りに来てくれた。
安いので結構買い込んで電気コンロであぶって食べるのが我が家の楽しみ。
もう無いのだそうだ。今は手に入らない懐かしい食べ物の第一位だ。
この時代の小学生には時間は一杯ある。
小学校一年の頃は校舎も足りないので午前・午後に別れる二部授業だ。
半日は学校に行かない。それを不思議とも思わない。
時間はあるので何か食べるものは無いかと調達に仲間と出かける。
時期により、木イチゴ、ムクイノミ(紫色、本名はなんていうのだろう)、グミあたりは勝手に取ってよい。
枇杷はこっそり。イチジクは庭に自生していた。
時代が下がったり、住む場所が変わったりで口に入らなくなったものはこの他随分ある気がする。
思い出したらまた・・・。