篠原駅10:00集合で、滋賀県文化財保護課の【探訪】平家終焉の地・源義経ゆかりの地を訪ねて。
滋賀県文化財保護課の担当K氏、課長・案内の野洲市の文化財保護課の挨拶・紹介後・・・
篠原駅をスタート
善光寺川は、天井川火伏の神【愛宕山】御神灯
家紋「丸に隅立て四ツ目結」鏡山古墳
野洲(やす)市は平家が果てた最期(さいご)の地です
平安時代末期、壇の浦の合戦で平家一門が滅ぼされ、一門の大将・平宗盛(たいらのむねもり)と息子清宗(きよむね)が鎌倉から京都へ送り返される途中、近江篠原(おうみしのはら)で斬殺されました。
現在、屍(しかばね)を埋めたとされる宗盛・清宗親子の墓標がひっそりと立っています。「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた石碑と石仏は、長い間にわたる風雪の浸食でわびしい雰囲気が漂っています。
また、墓の向かいにある池は、宗盛と清宗親子の首を洗ったという宗盛首洗池ですが、蛙が哀れを感じて鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれます。
豊
西光寺跡地のお堂に祀(まつ)られている石の仁王尊で、そのうちの一体は、昔、山崩れの際に地下に埋没されたといわれています。
昔から「足の病を癒してくださる」と言い伝えがあり、毎年7月に開かれる千日会(せんにちえ)には、草鞋(わらじ)をお供えする風習があって平癒(へいゆ)を願う参拝者が今も絶えません。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
伝教大師(最澄)建立の西光寺跡にそっとたたずむ。
観音像の夢のお告げにより、伝教大師が鏡山十二峰の一つ星ケ峰の麓に「西光寺」を建立されました。源頼朝(みなもとのよりとも)や足利尊氏(あしかがたかうじ)も泊まったといわれている古刹です。康平(こうへい)2年(1060)の乱で一山焼亡し中興されましたが、信長の兵火(1571)で廃寺となります。
その名残をとどめているのがこの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、記念宝塔として昭和35年2月に国の重要文化財に指定されました。塔の高さ210cmの堂々としたもので笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き、塔身、笠、相輪を積み重ねています。また、石の角に梟(ふくろう)の彫刻は、あまり例のない塔であるといわれています。
大正三年、東京帝室博物館(国立博物館の前身)の高橋健自(たかはしけんじ)氏に「他に類をみない逸品である」「この塔を見ずして他の宝篋印塔を語るなかれ」と言わしめたほど。鎌倉時代後期1300年頃の作。
珍しい背の高い灯籠
西光寺の鎮守、八柱神社(やばしらじんじゃ)の社宝で高さが2.8mもある背の高い灯篭です。
裏面に「応永(おうえい)28年8月8日(1422)願主敬白」の刻銘があり、室町時代初期の作とされます。
願主は不明。
当時の様式の多くは、丸柱の中央に周帯を有するものですが、この八角柱の灯篭は特に珍しく、また笠を持ち火袋には四仏が彫られていて誠に優美な意匠を凝らした背の高い灯籠です。重要文化財。
当時は茅葺きの屋根でしたが、台風で壊れ、烏帽子屋五郎大夫の屋敷は廃絶し民家裏の竹藪になっている。
承安4年3月3日に鞍馬山から逃れ奥州下向の途中、鏡の宿に着いた牛若丸一行は、当時宿場の長であった澤弥伝の「白木屋」の旅籠に泊まり。追手の目を欺くため、急ぎ髪を切りただひとりで元服することを決意した牛若丸は、源氏の左折れ烏帽子を、烏帽子屋五郎大夫に折ってもらい、それを冠して元服し源九郎義経となった義経の誕生の地です。
中仙道 古地図・・・・鏡山宿~日野川~武佐宿へ
【滋賀県歴史探訪】:Aコース 「平家物語・祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」探訪記 INDEX
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