【近江戦国探訪】八幡 秀次の城と城下町・・・・今日も雨でした。
八幡山城は、雲の中・・・・!
天正13年(1585)、羽柴秀吉は甥の秀次に近江湖東地域で43万石の領地を与え、八幡山に城を築かせました。 八幡山城主となった秀次は、織田信長にならって城下町に楽市楽座令を出すなど、城下町の振興を図り、現在の近江八幡市の基礎を築きました。
八幡山城の築城によって、織田信長の居城であった安土城は廃城となり、中世から近世へと時代は移り変わっていきます。八幡山城の築城は、近世の幕開けを象徴する出来事だったのです。
八幡山城は標高285mの鶴翼山の山頂から山麓にかけて築かれました。随所に残る石垣が城の雄大さを示しています。また最近、山麓部から秀次の館跡をはじめとした複数の屋敷群の発掘調査が行われ、八幡山城の姿が具体的になりつつあります。
この見学会では、専門職員の案内で現地に残された八幡山城の遺構を訪ねます。あわせて城下町を見学することで城と城下町が一体となった八幡の姿をより深く理解していただきたい。
工程
八幡公園→秀次館跡→二ノ丸→西ノ丸→北ノ丸→本丸→二ノ丸→日牟礼八幡宮→(昼食休憩)→八幡堀→新町浜→洞覚院(豊臣秀次息女玉姫墓所)→本願寺八幡別院→朝鮮人街道→かわらミュージアム(解散)全行程約10km(山坂道、平地・舗装路) ※かわらミュージアム(企画展「八幡山城と安土城」開催中)は解散後各自で自由見学
歴代城主
羽柴秀次 1585年(天正13年)~1590年(天正18年)
1585年(天正13年)羽柴秀次が近江国20万石を与えられ、この地に築城する。
京極高次 1590年(天正18年)~1595年(文禄4年)
1590年(天正18年)羽柴秀次は小田原征伐の功績により尾張国に移封され、替って京極高次が入城する。
1595年(文禄4年)高次は大津城に移封となり、近江八幡城は廃城となる
士官屋敷跡
市街地のすぐ北側、標高285mの八幡山山頂にあります。安土城が落城してから3年後、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が築いた城です。
最頂部に本丸をもうけ、その南東に二の丸、西に西の丸、北に北の丸、南西の尾根上一段低く出丸を配置する構造で、山頂から八の字形に広がる尾根上の小曲輪と、尾根に挟まれた南斜面中腹に秀次館跡と家臣団館跡群と思われる曲輪群が階段状に残っています。
現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)が京都から移築されています。また、秀次館跡からは金箔瓦が多数出土し、とくに秀次の馬印である沢瀉紋(おもだかもん)の飾り瓦が発見されるなど築城当時の豪華さが伺えます。
八幡山城跡土瓦 八幡山城跡
4秀次の馬印である沢瀉紋(おもだかもん)
瑞龍寺の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城)
天下人となった豊臣秀吉の甥、秀次によって築かれた城です。八幡山城の築城には旧安土城の部材も一部に使用されていますが、麓の館跡から出土する金箔瓦は新たに作成したものです。
まちづくりに関しては武士と町人の居住区を八幡堀で区切り、町人居住区の城下町は碁盤の目状に整然と区画されています。
28才で切腹させられた秀次亡き後、城は廃城となりましたが、計画的に整備された都市基盤は近江(八幡)商人の活躍の基礎となりました。以後近江八幡は商業の町として繁栄しました。
消費カロリー 521.9kcal 脂肪消費量 73.2g
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。