瀬田城(滋賀県大津市瀬田)
瀬田は、壬申の乱以来源平の戦いなどで重要な地点だったが、戦国時代、その瀬田川畔に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣・山岡景房だといわれる。
織田信長の命によって、瀬田橋をかけた当時の城主・山岡美作守景隆は、本能寺で信長を討ち安土城に向かう明智光秀と瀬田川で対戦したが力尽き、自ら城に火を放って甲賀へ引きあげたため、それ以来廃城となった。その後、膳所藩の別邸となり、禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名づけた(『現地案内板』)。
瀬田は要衝の地であり、駒場で重体に陥った武田信玄が山県昌景を枕元に呼び、
「明日は瀬田に旗を立てよ」(上洛を目指せ)と絶叫して息絶えたとの伝説もある(『甲陽軍鑑』)。
【瀬田城跡】
壬申の乱以来、源平の戦いなどで重要な地点として瀬田川畔に戦国時代に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房である。
織田信長の命によって、瀬田橋をかけた当時の城主山岡美作守景隆は、本能寺で信長を討ち安土城に向かう明智光秀と瀬田川で対戦したが力つき自ら城に火を放って甲賀へ引きあげそれ以来廃城となり、今はわずかに石垣を残すばかりである。その後膳所藩の別邸となり禅僧天寧が庵をたて「臨江庵」と名づけた。
昭和四十九年 大津市教育委員会
(現地説明板より)
城址には、料亭があったが、現在は高層マンションが建ち、遺構は何も無い。戦国の英傑が往来した瀬田川を眺め、思いを馳せるのみである。
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【城址からは新幹線の鉄橋と瀬田大橋も見えます】
天正元年(1573)7月、足利義昭の挙兵に対してこれを撃破、天正10年の本能寺の変では勢多を守って明智軍の侵攻を遅らせました。のちに豊臣秀吉に従い、賤ヶ岳合戦で柴田勝家側に内応した為、弟の景佐とともに所領没収となり、天正13年正月14日に60歳で亡くなりました。
墓は京都東山知恩寺の養源院にあります。
現在、瀬田城の面影は石碑と説明板しかありません。
マンションの周囲には石垣が積んであります。城郭の説明本にも「石垣が残る」とありますが、果たしてこれらの石垣が当時のものなのか・
明智光秀の進軍を瀬田で迎え撃った山岡景隆とはどのような人物だったのでしょうか。景隆は近江勢多城主山岡景之の長男で、父景之の母は宇野氏と言われています。山岡景隆ははじめ将軍足利氏に仕え、佐々木六角氏のもと、江南の旗頭として織田信長に対抗しましたが、永禄12年(1569)からは信長に仕えました。
『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。
「窪江城」
瀬田城跡の北方で、湖南・瀬田橋を見渡すかたちとなっており、軍事的要衝
大津市大江にありました。築城は建武年間(1334~1338)で、佐々木氏が創建しました。
山城です。窪江城は、現在東レ瀬田工場内に(石碑があるそうです)がJR琵琶湖線と接する付近の小高い丘上にあって、現在も堅牢な石垣が残されています。その立地は、瀬田城跡の北方で、湖南・瀬田橋を見渡すかたちとなっており、軍事的要衝に位置していました。この窪江城については、歴史的には不明のことが多く、伝承程度のものしか残っていません。それよると、建武年間に、近江佐々木氏によって築城され、勢多判官とその一族が初めて城主となり、のちに足利氏の武将摂津掃部頭が大江・大萱を支配して当城に入ったといいます。さらに、城は戦国時代末期、六地蔵(栗東市)の城主高野甲斐守の支配を経て、織田信長の代に、瀬田城主山岡景隆の弟景祐が城主となったと伝えられています。しかし、明智光秀の攻撃により、景祐が甲賀郡に退いてのち廃城となりました。
伝瀬田城跡
瀬田唐橋の東詰めを右折して南方向に約150m行くと、伝瀬田城跡に至る。
高層マンションに隣接して県道脇に城跡碑が建つ。昭和49年(1974)山岡同族会が建てた。
勢多橋と東海・東山両道を押さえる目的で築かれた近世初頭までの城
戦国時代から織田政権時代まで、山岡氏の居城であった。
遺構などは未詳である。
天下をおさえる要地・勢多橋を守護する山岡氏は、六角氏の被官でありながら、室町幕府や石山寺・園城寺と密接な関係を持ち、隠然たる勢力を持っていた。
上洛に琵琶湖を利用した信長は、「勢多橋」に戦略的な重要性を感じ、天正3年(1575)勢多城主・山岡景隆と安土城主・木村次郎左衛門に末代のために丈夫な橋を造るよう命じた。
材木は、若狭国神宮寺山と朽木山中から切出され、欄干をつけた広さ四間×長さ百八十間余りの橋が架かった。
織田信長政権下でも、山岡景隆が天下普請の勢多橋をまもる城主として活躍した。
信長は京都への往復途次に煩雑に勢多城に宿泊、信長専用の宿泊施設「勢多橋御茶屋」が設けられたとされる。
明智光秀の侵攻に備えるため、城主山岡は勢多城もろとも勢多橋を焼き落とした。
その後、江戸時代には荒廃していた。貞享元年(1684)、天寧という和尚が膳所藩主からこの地を賜って一庵を建て(臨江庵)、宝暦9年(1759)には藩主の別荘となるなど変遷を重ねた。現時、城跡を示す痕跡は無い。
臨湖庵西側の門の瓦には、本多家の家紋・立葵が見え、膳所藩主の別荘だった時代の面影が残る。
同庵の表門脇に建つ城跡碑は、昭和49年(1974)山岡同族会が建てた。
その他、詳細は資料参照のこと。