城郭探訪

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柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦い

2012年12月29日 | 古戦場

 柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いが行われたのは、天正十一年(1583)四月のことであった。

 前年の冬、領有する北陸からの行動が雪で制限された勝家は、一時の休戦を欲した。
そこで、天正十年十一月、勝家は、前田利家、不破勝光、金森長近を宝寺(山崎城)に派遣して秀吉と会わせ、和平の承諾を得た。
  利家は交渉が成功したものと思い込み、京都の織田信長の墓(大徳寺)に詣で、和平が成ったと信じて帰国し、勝家も油断したという(『太閤記』)。
また、この時に、すでに内応の約束がなされていたといわれている(高柳光寿氏)。

  しかし、秀吉の言は表面上のもので、着々と勝家討伐の軍を編成していた。これを察知した勝家は決戦に臨むこととした。

利家は京都からいったん能登に引き上げ、三月四日頃、勝家本隊に所属して北ノ庄を出陣し、その時に勝家に人質を差し出したらしい(『前田家譜』『古今消息集』『土佐国蠧簡集』)。

 

  三月十二日、柴田軍は、北国街道の要衝である柳ヶ瀬を中心に布陣し、しばらく利家は勝家本陣にいた(『富田文書』)。

前田利家隊に関する良質の史料は無いが、その次に、別所山砦に配置されたらしい(『近江輿地志略』)。

  この別所山は、かつて万福寺があり、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いたという(楠戸義昭氏『戦国佐久間一族』)。


 
(別所山砦・滋賀県教育委員会)

 

  その後、「西の方二ヶ所」の抑え(『太閤記』)、つまり、堂木山城・神明山砦の抑えにまわり(『江州余吾庄合戦覚書』)、茂山に移動したとされている(高柳光寿氏)。

  四月二十日、中川清秀の戦死、佐久間盛政の侵攻などの報告を受けると、秀吉は大垣から木ノ本に急行した。実に迅速で驚くべき古今稀有の行軍であった(『秀吉事記』『豊鑑』)。

  この夜、秀吉は利家に使いをやって「合戦がはじまったら裏切りを頼む。しかし貴下の心中は察している。ただ傍観してくれれば裏切りと同様に考える」と伝えると、利家は「裏切りは困る。中立的態度をとる」と返事をしたという(『川角太閤記』)。

 

~前田利家の背反~

  佐久間盛政の深追いによって佐久間隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

  この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 

この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。


関ヶ原の戦いで高次は東軍に属し大津城に籠城した

2012年12月29日 | 平城

歴史

1586年(天正14年)、豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに築城された。その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、1595年(文禄4年)に京極高次が城主となり6万石を与えられた。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで高次は東軍に属し大津城に籠城した。しかし大津城はもともと琵琶湖の水運を利用して美濃、越前方面から運ばれてくる物資を安全に保管するための城郭であり、攻防戦には不向きであった。

9月7日より毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5000に城を囲まれ攻防戦が開始された。

これに先立ち、京極軍3000は12時間かけて城下を焼き払い、町は荒野と化した。

  京極軍は家臣赤尾伊豆守、山田大炊以下、奮戦し、7日間持ち堪えたが、9月13日からは近くの長等山から大砲で砲撃を受け、砲弾は眼下に落ちるような勢いで天守その他の建築物を破壊し、城内が混乱した間隙を縫って立花軍が二ノ丸までを占拠した。ここに至り、北政所の側近孝蔵主と高野山の木食応其の仲介による講和が成立する。

9月14日に降伏開城した高次は園城寺に入り、剃髪して高野山に上った。しかし、西軍1万5000を大津城に釘付けにした功績は大きく、戦後、徳川家康は高次を召しだし、若狭小浜城8万2000石に加増転封させた。

高次が若狭へ移ってまもなくして、家康は大津城を廃城にし、新たに膳所崎に膳所城を築城した。大津城攻防戦で戦禍を免れた建築物の一部は、彦根城、膳所城に転用、移築された。

彦根城の天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。

各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。

大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれ、昭和の天守解体修理のときに、転用されたものと見られる部材が確認されています。

北はびわこ競艇場の正面通りまで

南は打出浜まで!


「もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」

2012年12月29日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

打出浜なぎさ公園の琵琶湖岸の常夜灯(灯台ヵ)県立琵琶湖文化館(閉館中)

湖畔に石碑【県立琵琶湖文化館のすぐ隣に】

湖畔に説明の駒札【県立琵琶湖文化館のすぐ隣に】

「小舟入の常夜灯」(1808年の建立、高さ8.4m、大津市指定文化財)。旧東海道を大津ハローワークを膳所方面に50m。

【写真の右奥は、県警本部ビル、左はライオンズマンション】

京都で伊勢神宮を信仰をするグループがお伊勢参りをする拠点として建立されたのだそうです

ことわざ「急がばまわれ」は、実は琵琶湖で出来た言葉。

室町時代の連歌師宗長が

もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」と詠んだのが起こり。

東海道の草津宿から大津宿を抜けて京都へ向かうのに、

 草津の矢橋から大津の石場まで琵琶湖を横断する船のルート
 約6kmと短いが、比叡山から吹き下ろす突風で舟が転覆するなど危険なコースを行くよりも、瀬田の唐橋を経由して琵琶湖をぐるっとまわっていく陸路
 約12kmと長いけれど、安全なコースを行く方が確実だ、という意味です。

 さて写真は、語源となった【草津-大津間】の渡し船の目印とされていた「小舟入の常夜灯」(1808年の建立、高さ8.4m、大津市指定文化財)です。

jyouyatou02.jpg現在は、湖岸が埋め立てられていることもあって、琵琶湖からは離れた場所(中央四丁目の大津税務署付近)にあります。石面には「京都世話人」38名の名前が刻まれ、京都で伊勢神宮を信仰をするグループがお伊勢参りをする拠点として建立されたのだそうです。

この辺りは湖上交通の拠点として、水茶屋が軒を連ねるなど賑わっていた場所だったそうで、石面には大津の世話人として「船方中、小舟入茶屋中伊勢屋甚兵衛・船屋平八」とも刻まれています。
jyouyatou03.jpg今は、住宅街の中に埋もれるように建っていますが、周辺だけ突然道幅が広くなっているところなどは、昔の船着場のなごりなのかも? 

急がば回れ実証なるか 滋賀県建築士会がイベント

京都新聞 転載

 「急がば回れ」の語源となった東海道の草津宿(草津市)-大津宿(大津市)間を、船を使うコースと、徒歩だけのコースに分かれて実際に進み、速さや風景を比較する催しが29日に開かれる。県建築士会のメンバーたちが江戸時代の旅装束姿で同日朝に草津を出発。大津に到着後、報告を兼ねた無料フォーラムを開く。

 かつての草津-大津間は、瀬田の唐橋を経由する徒歩コース(約14キロ)より、琵琶湖を帆船で結んだ「矢橋(やばせ)の渡し」を使ったコース(約10キロ)の方が近道。ただ、船は突風に遭って転覆する危険があり、遠回りでも安全な道を歩いた方が結局早く着く-との例えから「急がば回れ」の言葉が広まったとされる。

 今回の催しは、「矢橋の帰帆(きはん)」「瀬田の夕照(せきしょう)」など近江八景にも数えられた草津-大津間の景観を見直そうと県建築士会大津、湖南両支部が共催。両支部の若手メンバーや両市職員ら十数人が三度笠(がさ)に地下足袋姿で草津宿本陣を朝8時半に出発。瀬田の唐橋を経由して本来の東海道を歩く班と、「矢橋の渡し」を漁船で再現する班に分かれて比較する。

 大津支部青年委員会の久木野利一さん(41)は「今回はエンジン付きの船を使うので、船コースの方が速いはずですが、当日の天候次第では『急がば回れ』の実証になるかも。沿道から声援を頂ければ有り難い」と話す。

また、西武百貨店大津店の道路を挟んで公園あります。石橋港跡です。

本日の訪問ありがとうございす!!


彦根城

2012年12月29日 | 平城
世界遺産暫定リスト登載「彦根城」

彦根城HOME > 彦根の城下町 - 400年前の都市計画 ―

彦根の城下町 - 400年前の都市計画 ―

彦根の城下町は、大規模な土木工事によって計画的に造られた町です。計画当初、城下は多くの渕(ふち)や沼のある湿潤な土地が広がっていました。そのため、松原内湖に注いでいた芹川(善利(せり)川)を約2kmにわたって付け替えて一帯の排水を良くし、琵琶湖に直流させました。また、現在の尾末(おすえ)町にあった尾末山を全山切り崩して、周辺の低地を埋め立てたと伝えています。こうした大土木工事により、城下町の計画的な地割が可能となったのです。

彦根城の古写真

<map id="Map2" name="Map2"> </map>彦根の城下町 - 400年前の都市計画 ―

彦根の城下町は、大規模な土木工事によって計画的に造られた町です。計画当初、城下は多くの渕(ふち)や沼のある湿潤な土地が広がっていました。そのため、松原内湖に注いでいた芹川(善利(せり)川)を約2kmにわたって付け替えて一帯の排水を良くし、琵琶湖に直流させました。また、現在の尾末(おすえ)町にあった尾末山を全山切り崩して、周辺の低地を埋め立てたと伝えています。こうした大土木工事により、城下町の計画的な地割が可能となったのです。

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城下町鳥瞰

城下町鳥瞰図

彦根城の文化財

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国指定 【建造物】国宝 彦根城 天守
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国宝 彦根城 天守
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  国指定 【建造物】重要文化財 天秤櫓
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  国指定 【建造物】重要文化財 西の丸三重櫓
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  国指定 【建造物】重要文化財 佐和口多聞櫓
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国指定 【建造物】重要文化財 太鼓門櫓
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  国指定 【建造物】重要文化財 馬屋
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  国指定 【名勝】玄宮楽々園(玄宮園)
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玄宮楽々園(玄宮園)
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彦根城 表御殿
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  登り石垣
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  市指定文化財 【天然記念物】オオトックリイチゴ
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  米蔵
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オニバス
市指定文化財 【天然記念物】
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