城郭探訪

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井元城 近江国(愛東)

2014年03月17日 | 平山城

小堤山城(野洲)踏査図面の説明する・講師長谷川博美氏(春日神社駐車場で)

井元城へ

井元城(遠景)

 滋賀県中世城館跡分布調査の過程で発見されたものである。

愛知川北側の低い丘陵上にあり、西に鯰江城・上岸本城、東には青山城・小倉城(いずれも東近江市)が近接して存在している。

天正元年(1573)、織田信長は六角氏の拠る鯰江城を攻めるため「四方より取詰付城」を築いた。その一つがこの井元城。遺構を見ると、織豊系の陣城にみられる特色が確認できるため、現在のところこの説が通説となっている。

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町 map:http://yahoo.jp/rmThIR

改築年:元亀4年(1573)

区 分:平城(陣城・河岸段丘上)

改築者:柴田勝家?

信長軍の鯰江城凋落包囲網・・・井元城・上岸本城・青山城・小倉城

鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられる。
  なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城。

遺  構 : 切岸(断崖)、土塁、重ね馬出し、空堀、

訪城日:2014.3.15

管理人の過去の訪城記

探訪 【近江 井元城】 2013.3.19 

井元城 近江国(2014.1.26)

水をめぐる争い=井堰の開発。愛知川井関図。(愛東の歴史ダイジエストより)

愛知川沿いの村々(元禄期近江国絵図)。(愛東の歴史ダイジエストより)

井元城跡縄張図

  実際に城を歩いて見ると、まず主要遺構の規模の小ささが印象に残る。土塁は低く、堀は浅い。陣城として臨時的に構築されたため、おそらくは堀を掘ってでた土をたたきしめることなく積み上げたのだろう、土塁が崩れた部分も散見される。

主郭(Ⅰ)は方形だがとても小さく、城の大手枡形がある。周囲を土塁が巡るが、南側のものは非常に低い。東側に虎口があり、前面を方形の曲輪(Ⅱ)が囲む。西側にも虎口状の開口部があるが、これは後世の改変であろう。西側の堀は、直接城外に接するため、この城の中では最も広く、深いものとなっている。東側の虎口に面する主郭北東部の土塁は、櫓台状になっている。虎口を挟んで南側の土塁も、虎口に面する部分がやや幅広くなっているようだ。Ⅱは、主郭に付属する馬出となっており、両者をつなぐ土橋は非常に幅広のものとなっている。

Ⅱは北と南の2ヵ所に虎口がある。南の虎口は外側からⅡを囲む堀と崖の間を通り、主郭の堀に突き当たって北に折れる。北側は、Ⅱに対する馬出となる曲輪(Ⅲ)があるが、通路となる土橋はそのままⅡを囲む土塁に連続する。

Ⅲは東に虎口が設けられている。Ⅲの北西から浅い堀と低い土塁が続き、春日神社を囲むようにのびている。これは神社の結界とも思えるが、社殿を囲む大きな土塁が残っており、その規模とつりあわない(むしろ城の主要遺構の規模にあう)ことから、城の遺構と解釈。

春日神社 

素晴らしい彫刻の本殿は郷社のためか。佐々木の四つ目結(守護佐々木氏)・右2つ巴の紋

城域全体図(長谷川博美氏踏査図2009年)

愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭です。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出されています。
 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分です。虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているのです。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したものです。そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えられます。

主郭虎口から馬出しを望む

井元城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。

 虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯スペースと考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられないが。

歴   史

井元城と仮称されるこの城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられている。
なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城させられている。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

春日大社の神社土塁

本殿の東西に、佐々木氏の家紋(斜め四ツ目結)

城域最西(中戸集落域)

参考資料;淡海の城、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、信長公記、長谷川博美氏の説明

本日も訪問、ありがとうございました。


鯰江城 近江国(東近江・愛東)

2014年03月17日 | 平山城

見学会参加者+blog管理人(撮影)=9名

鯰江町自治会館の説明板

専修院境内土塁

専修院境内 鯰江氏の墓石・五綸の塔

鯰江町自治会館内の地割図 『近江愛智郡志』巻貮(滋賀県愛智郡教育会 1929年刊 1982年復刊)所収 「鯰江城阯」

 『近江愛知郡志』の鯰江城阯の項 鯰江城阯は西小椋村大字中戸に在り、高臺に阯を在す、永禄十一年佐々木義賢其子が観音寺落城居後鯰江満介貞景等佐々木氏の奮臣と謀り堀を深くし堤を高くし大土工を起こして修築せし城阯にして天正元年まで近江の守護家佐々木六角氏の城砦なり、實にや今遺阯を見るに規模の大と設備の完なる郡内他に比類少き所とす。

 

昭和60年の鯰江城土塁。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江城復元イラスト。(愛東の歴史ダイジエストより)鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江郷の青山・曽根・井元・鯰江・園の5集落。(愛東の歴史ダイジエストより)

現・鯰江バス停にの鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」

鯰江バス停の鯰江城石碑・説明板・志士「丹羽雅夫の顕著碑」

志士「丹羽雅雄(福田卯之助)の顕著碑」明治18年(1887)故郷の鯰江村に建立された。(愛東の歴史ダイジエストより)

丹羽正雄之碑
 愛知川右岸沿い、県道・外八日市線から鯰江集落へ入る坂道の東側に小さな緑地がある。「鯰江城趾」の説明板とともに、目をひくのが高さ三メートルちかい石碑である。もとは坂道西側に建っていたが、平成初年の緑地整備で現在地に移された。
 石碑上部に、「丹羽正雄之碑」の題字。明治新政府で太政大臣をつとめた三条実美の書である。三条家は平安時代からつづく公卿の名門で、実美は二十一代目。
 幕末の激動が、鯰江に生まれた一人の青年を、三条家の諸太夫(しょだいぶ=公卿の事務全般を司る職掌)丹羽家の嗣子に仕立て上げたのである。「丹羽正雄」の生い立ちから紹介する。

■青少年期の「正雄」
 天保五年(一八三四)、鯰江村・福田市右衛門に二男が生まれた。卯之助と名付けられる。のちの丹羽正雄である。
 卯之助は幼少期から向学の志がつよかった。金屋村(東近江市八日市金屋)瓢箪小路(ひょうたんこうじ=現・大凧通り)の医師・馬淵駿斎の門戸をたたき医学を学ぶ。また、儒学を蒲生郡芝原村(東近江市芝原町)速水橘園から学んだ。
 当時、浦賀沖に外国船が出没していた。嘉永六年(一八五三)には、ペリー艦隊が江戸湾入り口まで侵入した。世相は騒然。「開国か攘夷(外国を打ち払う)か」の議論が各地で沸騰した。卯之助十九歳、多感な青年の心にどんな思いが去来していたか。

■丹羽出雲守正雄
 安政五年(一八五八)四月、井伊直弼が大老職についた。安政の大獄がはじまる。尊王攘夷派の公卿三条家の家臣・丹羽正庸(にわ・まさつね)が、捕縛・追放された。三条・丹羽両家で、正庸が果たしてきた役割を継ぐことのできる人物が必要となった。
 安政六年(一八五九)、卯之助は丹羽家の養子に迎えられた。正庸と卯之助が尊王攘夷活動をつうじ面識があったためという。二年後、家督をえて卯之助は丹羽正雄を名乗る。同時に、出雲守に叙任。ここに、丹羽出雲守正雄が誕生した。二十七歳であった。
 主家・三条家では実万(さねつむ)のあとを継ぎ、実美(さねとみ)が登場。急進派公卿のリーダー格となる。
 実美は正雄より三歳年下である。実美にとっての正雄は、たんなる家臣というより、頼り甲斐のある相談相手でもあったにちがいない。正雄は実美の意を受け、尊王攘夷派の大名家や志士たちとの間に立ち活躍の場を広げる。

愛知川よりの物見櫓http://yahoo.jp/lUsrjv

大手門の土塁http://yahoo.jp/EBmDKL

大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。

所在地:東近江市鯰江町http://yahoo.jp/nsrKCn                                                                     築 城 : 室町後期
初城主: 鯰江氏
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,石垣
城 域 :400m×250m
訪城日:2014.3.15

戦 い :元亀の乱・・・終焉
 元亀4年(1573)
  ○織田信長VS六角義治

  鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。
 元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
 その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
 八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。
城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
 なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。

-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------ここまで

千種街道を往く20120428 http://blogs.yahoo.co.jp/t036kkkk/4876241.html

 

信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

 

  元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 

 

イメージ 2

 

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

 

 
遠藤周作氏の『男の一生』では、千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。
『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。

 

 ・信長の千種越え http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0a5be4a9b86ed952a3e2e6acd73a4dda 

千草街道を往く・・・ 2011.4.29 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/1f5cfc7b80a5ab85e276967523e6b9bf

 

歴史
 鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。

発掘調査から

【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる】
 室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

 調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
 石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
 さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。

 安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。

本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

 

鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)

 

豊臣秀次の側室「鯰江おこほ」。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江駿河守の子「権内」は井伊直政に仕え200石を知行。忠太夫は井元村の春日大社祭礼溝の最高位を務めている。「小倉忠太夫」屋敷絵図。中戸村集落の西部遺構は無く畑地。(愛東の歴史ダイジエストより)

鯰江氏の末裔「小倉忠大太夫」

シリーズ「淡海の城」-鯰江城(なまずえじょう)(滋賀県東近江市愛東町鯰江)より

 

参考資料;淡海の城、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明

 

本日も訪問、ありがとうございました。