城郭探訪

yamaziro

出庭城 近江国(湖南・栗東)

2014年03月22日 | 平山城

住所 :栗東市出庭 maphttp://yahoo.jp/GfiOA6

現在の状態 :出庭神社・集落

遺構 :堀跡

形式 :平城

築城時期 :江戸期・元禄期カ?

築城者 :遠藤胤親カ

有名城主 :

訪城日:2014.3.18

遠藤 胤親(えんどう たねちか)は、近江三上藩の初代藩主。徳川綱吉の側室・お伝の方(瑞春院)の甥にあたる。

 

天和3年(1683年)5月14日、白須政休の長男として生まれる。元禄5年1692年)に八幡藩主遠藤常久が家臣によってわずか7歳で毒殺されて、遠藤氏は無嗣改易となったが、幕府では遠藤氏の祖先の功績などを考慮して、5月に遠藤胤親を美濃大垣新田藩主・戸田氏成の養子にした上で常陸・下野国内で1万石を与えて、遠藤氏の再興を認めた。

 

元禄11年(1698年)3月7日、胤親は所領を近江4郡に移されて、ここに三上藩が立藩し、初代藩主となる。宝永6年(1709年)3月7日に従五位下・下野守に叙位・任官する。宝永7年(1710年)に朝鮮通信使の饗応役を勤め、その後も江戸城馬場先門番・和田倉門番・一橋御門番などを務めた。享保8年(1723年)12月18日に但馬守に遷任する。                                                                                   享保18年(1733年)9月25日、家督を長男の胤将に譲って隠居する。享保20年(1735年)3月2日に死去した。享年53。

 

 

出庭城は、野洲川西岸の出庭集落一帯にあったとされる。

出庭集落は四方を水路がめぐり、さらに集落中央に鎮座する出庭神社にも水路がめぐる様子は、里城特有の周濠集落の装いを呈している。

 


出庭神社東側には蓮池があった跡を残す蓮池公園があり、地形から判断すると主郭は出庭神社とその西方付近を比定出来る。
近年まで集落北西端の水路沿いには土塁状の高まりが残っていたようだが、現在は消失した。

 

出庭神社から100mほど東に新興住宅地があり、その辺りが遠藤屋敷と伝えられているとのことであった。
この遠藤屋敷が出庭城かどうかは不明。
 出庭地区の出庭神社を中心として、東西300m、南北200mの範囲で周囲を取り囲むように川(水路)が流れ、東側には小さな沼地跡。

 また周辺と比較しても出庭神社だけが土盛りをしたように0.5~0.7mほど高くなっているのを見ていると、出庭神社,西光寺、および従縁寺一帯が出庭城ではないかと考えられるのだが・・・・。

 

鳥居前堀

駐車場は出庭公民館の敷地内(出庭蓮池公園)

隣に【出庭山 西光寺】http://ideha-ritto.jp/p_02.htm

滋賀県栗東市出庭249番地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 3( 旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城、お城のとびら

本日も訪問、ありがとうございました。


古高城 近江国(湖南・守山)

2014年03月22日 | 平山城

所在地 :守山市古高町 map:http://yahoo.jp/RGObq8

現在の状態::集落・大将軍神社

遺構 :堀跡・神社土塁

区 分 :平城

築城時期 :室町時代

築城者 :古高氏・三上氏

歴代城主:古高氏・三上氏

訪城日:2014.3.16

歴史

古高城は詳細は不明だが、国人領主古高氏が居城していたと考えられる。
江南守護六角氏が勢力を拡大して以来、古高の地もその支配下となり、六角氏の重臣で野洲郡三上を本拠とする三上氏の傘下にあったと考えられる。

伝承ではこの地に代官所があったとされ、江戸期は三上藩の支所として機能したと考えられる。
また幕末には古高俊太郎を輩出していることから、武家古高家は何らかの形で存続していたのではないか。

古高城の位置は明確ではないが、周囲に「東屋敷」「西屋敷」「南屋敷」「堂ノ内」の地名がある大将軍神社のあたりに城郭があったと考えられている。
大将軍神社は、狭い道で駐車できないので、近くのコンビニ等の駐車場を拝借するのが便利。

古高の地は、鎌倉時代以降、佐々木氏の領地であり、佐々木四天王の一人といわれた、家臣の三上氏が治めた。                                        古高城は、三上氏の傘下、国人領主の古高氏の居城であったと伝わる。
永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛するにあたって、近江に侵攻し、佐々木六角氏を破った。この際に、古高城も滅んだと伝わる。

古高城は、現在の大将軍神社辺りに築かれていた。

古高城は、幕末の勤皇志士古高俊太郎の出身地として著名な古高集落一帯にあったとされる。
字堂ノ内に鎮座する大将軍神社を中心に、北方に「東屋敷」「西屋敷」、南方に南屋敷の地名が残っている。

特に東・西屋敷は現在でも三方を水路に囲まれ、城構えの様相を呈している。
また大将軍神社には北東に土塁が残っているが、城との関連はないのだろうか。
大将軍神社社殿は、応仁元年(1467)三上満実の再興である。

 

金森城の下流の堀

将軍神社の隣に土塁(古高城のものカ?)

鳥居~拝殿まで、神社土塁に堀(今は用水路)

境内にある土塁の名残カ?

参考資料:古高城遺跡発掘調查報告書、滋賀県中世城郭分布調査 3( 旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城、お城のとびら、日本のお城

本日も訪問、ありがとうございました。