城郭探訪

yamaziro

勝部城 近江国(守山)

2014年03月18日 | 平城

佐々木六角氏の重臣勝部氏の居城跡

所在地:滋賀県守山市勝部1丁目 map:http://yahoo.jp/3LzNlV

遺 構:神社土塁

区 分:平城

築城者:永原重頼

築城年代:室町時代

訪城日:2014.3.18

勝部神社
 大化5年(649年)、物部氏一族の物部宿彌広国が祖先を祀るため、物部郷(勝部・千代・蜂屋・野尻・出庭)に創建したことに始まります。(昭和16年まで、この地は栗太郡物部村に属し、物部神社と称していたようです。)

 祭神は物部氏の祖先神とされる神です。

本殿の裏「鎮守の森」・・・遺構は確認出来ず

勝部の火祭り

 毎年1月の第2土曜日に、勝部神社で行われます。

勝部神社の火祭りの由来
 約800年前、第83代土御門(つちみかど)天皇(1199~1210)のご病気が重く、占師によれば「近江国栗太、野洲両郡の堺に大沼があり、ここに数千年を経た「おろち」がいて、天皇に危害を加えている」とのこと。
さっそく、宮中から「おろち」退治の兵を現地に派遣したが、「おろち」はなかなか姿を現しません。射手一同は、神社に参詣すること50日の祈願をこめたところ、その満願の日、どこからともなく「おろち」が出現。これを退治し、焼き払ったところ、皇のご病気は間もなく快癒したそうです。 

  当日、午後の間に祭の主役になる松明1本1本に、 神酒・鰯・豆腐を供えて祈祷しておきます。その後、3基の大太鼓が街中を練り歩いてから、夜8時ごろ、大蛇の胴体をかたどった大松明16基が境内に勢揃いします。 そして、若者が裸のまま神前で御神火から火をもらって一斉に点火します。

そして、鐘や鼓を打ちなが ら、ふんどし姿の若者たちが、無病息災を祈願して

「ごうよ」「ひょうよ」(御脳平癒の転)と大きな掛け声をかけながら乱舞するという、勇壮な火の祭典が始まります。 勝部で使われる松明は、長さ5~6m、直径40cmの 長い円柱で、材料には柴が用いられています。全体で大蛇の胴体を表し、木片は大蛇のうろこを表しているといわれます。

同じ日に、浮気町の住吉神社でも同じように古式をとどめる県選択無形民俗文化財の火祭りが行われます。 

今から1355年前、人皇第三十六代孝徳天皇の大化5年(649)8月13日に領主であった物部宿彌広国が 物部郷の総社として創建しました。御祭神は物部布津神(天火明命・宇麻志間知命・布津主神)で、合わせて住吉神、猿田彦命をお祀りしています。文徳実録にある仁寿元年(851)に正六位上を授けられ 続いて三代実録では、元慶元年(877)に従五位下の神階位を授けられた布津社とは、当社のことです。

中世武家時代になると、武家をはじめ一般の人々の崇敬も一層高まり、殊に佐々木氏は深く当社を信仰し、出陣の旗竿は、決まって神社林の竹を使われていました。

そして、明応6年(1497)には 佐々木高頼氏が大願成就祈願のために 御本殿を造営されました。

また、織田信長公は元亀年問に 野洲・栗太二郡の起請文六十通を当社に納められ、

豊臣秀次公は文禄3年(1594)8月、神田の寄付と御本殿(重要文化財)の修理を行われました。

JR守山駅の開発された西口側にある勝部神社が城跡地と伝わります。この神社は本殿が観音寺城の城主・佐々木(六角)高頼が再建したものとされ、重要文化財に指定されています。

歴 史

勝部城の歴史は明応・大永年間(1492~1528)に永原筑前守重頼が築城したとされ、この永原氏は、冒頭で触れたように佐々木六角氏の力で再建されている神社の境内に築城しており、佐々木六角氏の重臣に当たる一族であったそうです。

日本城郭大系でも城主について様々な説があることだけは触れていますが、あまり永原氏の歴史や、またこの城の歴史については深く触れておらず、現地の神社由緒書にも、この城のことは触れられていませんでした。

織田信長が上洛した後は、稲葉伊予守・佐久間信盛が在城したとされますが、いつごろ廃城になっていったのかなどは定かでないようです。

現在の勝部神社付近は都市化が進み全く往時を窺がい知ることは困難な状態。神社の裏側には水路と、土盛りが見られますが、これが濠の名残か、また城の土塁なのか。

戦国期の永原氏の居館、佐々木六角氏に従った武将の城跡が多かった。

神社としては重要文化財の建造物だが、城館跡としては見所が少ない。

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、由緒書

本日も訪問、ありがとうございました。!!


綣(へそ)村城 近江国(湖南・栗東)

2014年03月18日 | 平山城

所在地滋賀県栗東市綣

遺 構土塁

形 式平城

築城者:6代目将軍足利義教公

築城年代:室町期永亨5年(1433年)

城 主:徳川将軍家は、綣村に渡邊山城守

訪城日:2014.3.16

当神社は、701年(大宝元年)疫病流行の時、小平井村信濃堂(しなど)(現在の栗東市小平井)に降臨された素盞鳴尊(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に4月8日ご鎮座。
これにより疫病が鎮まったと伝えられる。

 同年5月1日社名を大宝天王宮と勅定、正一位とされた。鎮座の意は、「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「牛頭天王暦編」等の書物に見ることができる。翌2年から疫病が再び流行することを恐れて、健康を広く多くの人々に授かってもらえるようにと、神様に感謝して4月初子の日を例大祭と定めた。同年3月12日今宮応天大神宮の神号勅定。858~867年(貞観)以降、密教天台宗融合の両部(リョウブ)神道となった。

 中世の大宝神社の祭礼、特に4月の例大祭・8月の相撲祭・雨乞い儀式は近郷50余郷の氏子圏に及び、綣村生人講を中心に盛大に斎行されていた。また、境内の建物・建造物も本殿を中心に境内社34社、建物は神宮寺の様相にて三重搭大日・護摩堂・薬師堂・神楽堂・鐘桜堂・経堂等が建ち並び荘厳なる境内が1713年(正徳3年)の資料から伺い知ることができる。

 1433年(永亨5年)6月18日、6代目将軍足利義教公は、天下安全可抽を祈願し神事領311石の地頭を寄進、その朱印は現存する。                 9代目将軍足利義尚公は、佐々木高頼公を近江に遠征させ、陣中上鈎村に当神社の遥拝所を建立させた。
  1545年(天文14年)に佐々木定頼公により社殿の修復がなされた。

 1571年(元亀2年)織田信長の山門破却の神領没収により地頭は、上地となった。

しかし、1573~1591年(天正)1606年(慶長7年)の検地は、古来の由緒により免除地となった。

  1629年(寛文6年)8月12日徳川将軍家は、綣村に渡邊山城守を領地させ境内社日吉神社の燈明田一段歩を寄進、その後も他の社殿修復を子孫に継いで怠らなかった。1713年(正徳3年)小槻禅珠が西坊法橋宮内郷を授かり、同4年別当神應院禅珍は、法橋の官位を授かり百々御所(京都・宝鏡寺)への館入を認められた。

 1716年(享保元年)7月宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願を当神社に依頼され、ご祈祷により全快され、そのお礼として四脚門両築地付をご寄進された。当初は、桧皮葺きである1788年(天明8年)9月御室御所(京都・仁和寺)より紋章付提燈(桜の二引)一対のご寄進があった。(現在も使用)
 1868年(慶応4年)3月王政復古により神仏分離令と共に佛眼寺(京都四条道場時宗金蓮寺末寺大宝山)との分離、神應院の院号破棄により、同年4月社名を大宝神社と改めた。

 

郭跡カ?

社殿北の唐堀

社殿南の水堀(庭園カ?)

四足楼門前に土塁

中山道より一の鳥居

中山道より水堀・石橋

滋賀県栗東市の地名 綣(へそ)と読む。

織機にかけるために縒りあわせた麻糸のことを「へそ」と言う事から由来する、という説が有力。
一方「万葉集」に見える額田王がこの土地を通ったときの歌「綜麻形の林の始めのさ野榛の衣に着くなす目に著くわが背」とあることから、古くからの地名と考えられる。

説明板

 

芭蕉句碑

綣村城(大宝神社二ノ鳥居前に)

西琳寺は正式には「妙香山西琳寺」といい、真宗大谷派の寺院です。始めは「妙光坊」という善刹であったそうですが、寛政5年(1464)に本願寺第四世である「善如上人」により中興されたそうです。


 同年(1464)11月に本願寺第八世「蓮如」から、裏面に「綣村惣場」と書かれた十字名号を与えられた。                                                       文明6年(1467)には伝来の阿弥陀如来の画像を修復し、「蓮如上人」の裏書きをもらって本尊とした。


 慶長7年(1602)に本願寺が東西に分立した時には、東本願寺第12代「教如上人」に従い、「教如上人」の江戸下向など巡行の往復には「西琳寺」を利用しそうです。宿泊は4度、休憩は5度におよび「綣村掛所(休憩所)」あるいは「御坊」と呼ばれた。


 敬弔18年(1613)に、寺号を「西琳寺」と改めたと伝わっているそうです。

参考資料;淡海の城、近江の城郭、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。