城郭探訪

yamaziro

追分城 近江国(湖南・草津)

2014年03月20日 | 遺蹟

住所 :草津市追分町

現在の状態 :追分緑地公園・八幡神社

形式 :平城

遺構 :なし・神社土塁

築城者 :青地城主青地氏カ?は大身領主

築城期 :

目標地:追分会館・追分八幡神社

有名城主:宇野氏カ

追分城は、追分緑地公園内に建つ八幡神社付近にあったとされる。

 滋賀県安土城郭調査研究所発行の『淡海の城』に記載されているが、詳細不明とある。 

『淡海の城』や草津市の遺跡マップによれば、八幡神社社地が追分城址とされています。八幡神社は、北向きのごく緩やかな舌状台地にありますが、要害性はほとんどみられません。八幡神社のすぐ東側を新幹線が走っているため、こちらの旧地形は分かりませんが、西側は緩やかな谷戸となって北の伯母川の方へ開いています。第一に、この谷戸を治める在地領主の城館と推測されます。
 また、伯母川のすぐ上流には青地城があります。青地城主青地氏は大身領主であるため、追分城も青地氏の影響下にあったとも考えられます。

現地に石碑や解説板

神社の由緒書に豪族・宇野氏の名前がありました。
  追分城との関連性は分かりませんが、この近辺を宇野氏が支配していた時代があるなら館はだったでしょう。それが追分城だった。
もしくは、城郭化していったということは十分に考えられる。

青地氏(あおぢ)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。佐々木氏の支流氏族。『尊卑分脈』によれば、馬淵廣定の四男・基綱を祖とする。馬淵氏は佐々木氏の支流氏族で、廣定は佐々木定綱の五男である。

一本系図では、一帯の古代豪族小槻山君の末裔・小槻氏の子孫が青地庄の地名に因み青地氏を称したとする。その後青地定兼に子がなかったため、基綱を養子に迎え小槻姓から佐々木氏の源姓に改めたとされる。このほか、青地系図では、基綱は青地右馬助入道の養子と記される。

追分城址(八幡神社)。

追分城址(八幡神社)。

神社土塁

新幹線側の城域カ?

神社土塁・空堀

 

隣の「追分会館」

神社の向かいに土塁!家臣屋敷カ?

城郭の遺構は残りませんが、周辺はやや高台の位置になっており、中世武士の館が置かれる条件には合うでしょう。完全に宅地化されており、ここも往時の姿を偲ぶことはできます。

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀の城、

本日も訪問、ありがとうございました。


灰塚山城   近江国(栗東)

2014年03月20日 | 丘陵城

灰塚山城(遠景)金勝寺川より

お城のデータ

所在栗東市川辺 map:http://yahoo.jp/7KwyEZ

現 状 :山林・灰塚山古墳群

区 分::丘陵

遺 構 :曲輪・虎口・堀切・狼煙台や物見台

築城者:小槻氏カ、青地氏カ

:築城期 :

駐車場:栗東市出土文化財センター

訪城日:2014.3.16

お城の概要

灰塚山城は、安養寺山の西端に派生した 独立丘、灰塚山にあったとされる。山頂からは栗東地域が見渡せないが、灰塚山のすぐ南麓に「金勝川の水上交通」にも優れ、「東海道の交通の監視」も出来る立地だ。
灰塚橋~栗東市出土文化財センター(車を駐車~西の丘陵が灰塚山城)

登城口・・・名神高速道路のトンネル手前を西に

灰塚山は城山というよりも灰塚山古墳群があることで知られている。古墳は山の稜線上に5基の円墳が並ぶ。
城はその古墳群を利用して築かれ、古墳に付随するように堀切等の城遺構が確認できるが、居住するほどの改修ではないことから、狼煙台や物見台程度のものではなかったかと感じる。

お城の歴史

 灰塚山は、栗東(栗太郡)の名の由来となった栗の大木を燃やした灰が積もってできた山だという古代伝説がある。
奈良~平安時代に栗太郡の中心的な役所・栗太郡衙があった岡遺跡と、これを支配した小槻氏の拠点(小槻大社付近)が灰塚山南西のすぐ近くにあった。

登城口・・・名神高速道路のトンネル手前を西に

土塁と横掘 

       土塁と横堀 横堀

       最高所(主郭5m×10m)虎口最高所(主郭5m×10m)

上段の帯曲輪最高所(主郭5m×10m)
  灰塚山は、安養寺山の西にちょこんと突き出た半独立丘です。南に金勝川が流れ、周囲には灰塚池や目川池などがあることから、かつては氾濫原に囲まれていたものと推測されます。城としての史料はほぼないので、灰塚山1号墳に関する記述を追ってみたのですが、「大きく破壊され」などと書かれているものが多かったです。実際には、城跡としての遺構は結構残っているので、古墳時代愛好家の方々からみると、中世城郭は古墳の破壊者としか映らないのかもしれません…。

 山頂への登山道はとくにないようなので、適当に山肌を直登します。冬場だったとはいえ、とくに樹木が深いわけでも、ヘビや熊の心配があるわけでもないので、登頂は難しくありません。城は、山頂の主郭を中心に、2段ほどの帯曲輪がめぐる構造となっています。

北麓を名神高速が走っており、こちら側は工事によって破壊されている可能性が高いと思われます。主郭の周囲をめぐる土塁が比較的良好に残っており、これによって灰塚山が城跡であることが確定できるといえます(逆に、私には古墳であることが分かりませんでしたが)。西辺に虎口跡と思しき箇所が見受けられます。それ以外にはとくに際立った造作はみられず、ごく小規模な城砦であるといえます。目的は、物見や伝え、緊急避難用など種々考えられますが、確定的なことはいえません。すぐ近くに大身領主青地氏の居城青地城があり、青地氏に関連する施設とも推測されます。

  さて、灰塚山には、その名の由来となった伝説があります。かつてこの地には葉の陰が朝は丹波国に、夕は伊勢国にまで及ぶ巨大なクリの大木があった。周辺住民は田畑に日が差さなくなるので困り、住民ないし天皇が人を集めてクリの木を伐採して燃やし、その灰を集めて塚としたのがすなわち灰塚山であるというものです。また、栗東や栗太郡の語源は、このクリの木にあるともいわれています。この伝説の裏には、かつて大和朝廷と対立した古代豪族がいて、栗東周辺を本拠地とし、遠くは丹波や伊勢にまで影響を及ぼしていたという史実があるように思います。灰塚山の周辺には他にも多くの古墳群があり、また古代郡衙跡である岡遺跡や、古代豪族小槻氏の拠点小槻神社などもあります。また、市内の万年寺には、聖徳太子がかつて近江の敵と戦って一度敗れ、ある老人がこのクリの大木の下に太子を匿ったとする寺伝があるそうです。

現在に残る城館以降は中世のものであり、これらの伝説が直接城跡と関連はないが、灰塚山一帯がかつて大和朝廷を一度は敗走させたほどの古代豪族の拠点であったとする。

   

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀の城、

本日も訪問、ありがとうございました。


欲賀(ほしか)城 近江国(湖南・守山)

2014年03月20日 | 平山城

欲賀城址とされる浄光寺。

『浄光寺案内石板』より

欲賀寺史略
 持統九年(695)都賀山ノ西側ヨリ温ノ泉湧出天皇叡感ノアマリ百済国ノ僧豊妙ニ命ジテ薬師如来ノ尊像ヲ彫刻シ一字ノ精舎ヲ建立。
 帝モ小像ヲ刻ミ御腹内ニ納メラレ本尊トナシ鎮護国家世ノ病苦ヲ除カント誓願シ給フ。
 精舎ヲ欲賀寺ト称シ興福寺ノ別院トナス。法相三論兼学ノ道場トシ給フ。
 弘仁十四年(823)大安寺ノ僧永厳来ルヤ大和大安寺別院病療院欲賀寺ト改称。正嘉元年(1257)僧空真ノ時郡邑ヲ勧進シ諸堂ヲ建立。ソノ数四十五ニ及ブ当時ノ諸堂

 

所在地滋賀県守山市欲賀町

分 類 : 平城(居館)

築城期:

築城者: 寺田清信

遺 構 : 土塁跡、堀跡

訪城日:2014.3.18

 

現状

 

欲賀城は、浄光寺の境内付近にあったものとみられています。浄光寺の南西隅には土塁跡と考えられている藪があります。また、寺の裏手には土塁および堀跡のような段差と側溝がみられます。

浄光寺北西隅付近にある水度神社は、寺田氏が山城にいたころから崇拝していたものを勧請して建てたものと伝えられています。

浄光寺の北西150mに、欲賀城畑城と呼ばれる城跡があります。『守山城物語』によればこちらは本間氏の居城とされています。

また、浄光寺の東にも宇野氏の大林城の本間氏の居城ある。

2つの在地領主の城に挟まれた寺田氏の欲賀城は、城というより寺院居館。

境内の土塁

本堂裏

浄光寺南西隅の藪。土塁跡

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、

本日も訪問、ありがとうございました。


大林城 近江国(湖南・守山)

2014年03月20日 | 平山城

住所 :守山市大林町

現在の状態 :八幡神社・集落・藪地

形式 :平城

目標点:大林 覚明寺・八幡神社

遺構 :堀跡・土塁

築城者 :宇野久実

築城期:応永年間

城 主:大林伊予守

訪城日:2014.3.18

歴史

周防国より移り住み、その後六角氏に被官した宇野氏が、応永年間(1394-1427)の戦功により三宅・欲賀・大林を領し、大林城を築城、宇野姓を改めて大林と称したとされる。

元亀元年(1570)6月、六角氏と織田方柴田勝家・佐久間信盛により、野洲河原の戦いが勃発し、大林氏は六角方で多くの首級を得たが、六角勢は大敗する。さらに8月には佐久間信盛によって大林城も攻められ落城した。


天正11年(1583)城主大林伊予守は出家し、旧城内に覚明寺を建立した。

集落の四方をめぐる水路

大林城は、大林集落全体と南側に集落に付随するように茂る藪地一帯に築かれていた。
集落と藪地は、現在でも四方を堀跡と思われる水路がめぐるが、南辺の水路は宅地造成のため流路は改変された。
集落南奥に鎮座する八幡神社付近は、集落から見ると一段高い地形になっており主郭に比定できる。
またその奥藪地には館跡の遺構が存在するという。

 
 

旧城内に覚明寺。

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、

本日も訪問、ありがとうございました。


千代城 近江国(守山)

2014年03月20日 | 平山城

八尾神社前には説明駒札

住所 :滋賀県守山市千代町

現在の状態 :集落・神社

遺構 :堀・案内板

形式 :平城

築城時期 :天正3年(1573年)

築城者 :玉岡宿弥彦安か

城 主 :千代氏・旗本渡辺茂

目 標:千代 八尾神社

訪城日:2014.3.18

現状

 千代城は、旧千代集落一帯にあった。千代集落は近年まで四方を水路が囲み、北側水路内側には土塁も残っていたという。                                現在では土塁は消失し、西辺水路は埋められて、新興住宅地が次々に造成されている。

集落北側に架かる橋は、城の北門であったという伝承が残り、北門から入ると通路は4回屈曲し、八尾神社前に至る往時の城道。
集落中程に建つ八尾神社前には千代城の説明板が建っている。

歴史

 守山市誌によると、物部氏族玉岡氏が千代郷に住み、地名を取って千代氏と名乗り建長4年(1252)にはすでに支配していたとされる。
しかし案内板には玉岡宿弥彦安なるものが天正3年(1573年)に築城、慶長元年(1596年)千代中務大夫の時に落城したとされている。
それぞれの築城時期の約300年の開きは何なのか、解明できずじまい。

寛永2年1625 千代村が旗本渡辺茂の知行所となる

      堀(現状:水路)

隣の安楽寺

 

 

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、現地説明板 

本日も訪問、ありがとうございました。