絶望していると君は言う
だが君は生きている
絶望が終点ではないと
君のいのちは知っているから
〜 谷川俊太郎「絶望」 〜
昨日
は
新潟の伯母ちゃん。
の
告別式
でした
駆け付けられず
とても
申し訳ないコト
を
したなぁ
と
想いながらも
自身の場所
で
自身のコト
を
目一杯
頑張るコト
が
御供養なのかな
と
言い訳のよな
慰め
を
自身へと
云い聴かせて
おりましたよ
あらためて
御尊母様の
在りし日のお姿を偲びつつ
ご冥福をお祈りいたします
不意に
色々な
苦しみ
や
哀しみ
が
膜を張る
藻搔いたり
抗ったりする
と
なおさら
息苦しくなる
ココロ
落ち着けて
継ぎ目
や
空気穴
が
出来るまで
膜を脱した
自身
を
イメージしてみる
まるで
羊膜に包まれた
赤子のようだ
と
いまは
膜を脱する
時期では無い
と
不自由だと
邪魔モノ扱いしがち
な
膜
も
ほんとうは
保護膜
と
なる
場合
も
在るから
際限あるモノ
こそ
価値は有る
と
いう
資源
生命
繋がり
ほんとう
は
それら
の
無限の可能性
など
を
信じたいけれど
甘んじぬよう
疎かにせぬよう
際〜きわ〜
を
意識するコト
も
大切なのかも
しれない
際〜きわ〜
を
噛みしめる
その瞬間
こそ
ほんとう
の
つかのま
の
自由
と
孤独
を
抱き合わせて
手に入れる
機会
と
なり得るだろう
そう
想う
と
苦しみ
も
哀しみ
も
吾れ覆う膜
も
何処と無く
何処とはなく
いとしく
いつくしみ
など
憶えたり
して