第280話. 確かな事(2)永遠の命と輪廻とカルマは悪者にはツライ現実 & 確かな事(3)人生の答えはいつも一緒 & 確かな事(4)誰も進化の現場を目撃したことが無い

2019-06-23 23:15:28 | ★確かな事
湖畔人です。
 
何時も申し上げている通り、虐待や殺人等凶悪事件が後を絶たない思想的背景にも、または中国のなど共産主義国に自国民の虐殺数が数百万人、数千万人と言う驚愕の規模で行われてしまう思想的背景にも、また減らない自殺の背景にも、同じ思想的な背景があると思っていて、それは、唯物論、無神論にあると思っているのです。人をアメーバから進化した単なる物、物質、肉の塊であり、死ねば何もなくなる、と思うからこそ、平気で自殺で状況をリセットしようとするのでしょうし、共産党政権のように平気で政権に物申す人達を天安門で数千人、数万人規模で戦車で轢き殺しても平気なのでしょうし、子供の虐待等、理不尽で意味不明の殺人も後をたたないのでしょう。
 
しかし、この世界の真相はと言えば、彼ら悪事を成す人々にとっては大変残念な事に、また長い意味では彼らにとっても有難い事に、我々人類は一人残らず例外なく皆神の子なのであって、神の一部なのであり、神と言う巨木の葉の一枚一枚のような存在なのが我々なのであり、神と同質の性質、神性、仏性と呼ばれるものが各自の内にあるが故に、他を傷つける事も、自らを傷つける事も(自殺)、各自の奥にある神性、神そのものを傷つけてしまう事と同じ事であるが故に大変罪深く、大いなる償いが必要になってくると思われているのです。その償いの為に、転生輪廻の中、我々は永遠の命を生き、その中でその罪を償う状況を体験しその罪の帳消し、リセットが出来るようになっているのです。それら行為の記録は、業ともカルマとも呼ばれている消えないインクで書かれた魂の記録帳、魂の成績表なのです。
 
そう、我々は皆神の子なのであり、神の一部でもあり、祝福された存在なのであり、永遠の生命を生きる存在でもあり、転生輪廻の中、各自がより神近き存在に成るべく様々な経験を積んで努力研鑽している存在なのです。そして転生の中、他に対し様々な良き事もすれば悪しき事もする我々なのですが、相手もまた神の子であるが故に各自の内にはそれぞれ神性や仏性があって、その相手の仏性に対する善行や悪行が全て記憶されており、それら全ての行為への反作用を受ける事になっているのです。それがカルマの刈り取りと呼ばれるものです。
 
だから、沢山の人の命を奪ったような悪人と呼ばれるような方々は、それなりの罪の償いを未来世で受ける事を覚悟しなければならないのです。何人も人を殺めたなら、それだけの回数、殺される事を覚悟した方が良いのかも知れません。永遠の生命と輪廻とカルマと言うものは悪人によっては大変厄介な現実なのかもしれませんね。ですが、それも致し方ありません。悪事をなした人も、その本質は神の子であり神の一部であるが故に、成した罪は必ず償い、罪を成した相手の仏性に対し、謝罪と、罪への埋め合わせをし、綺麗になって本来の神の子としての本性を発揮しないといけないからです。
★永遠の命と輪廻とカルマは悪者にとってはツライ現実なのかもしれません。
 
また、自殺を思う人も死ねば楽になる何て思うべきではないのです。自殺した魂はあの世にも帰れず、地縛霊と呼ばれ、その場に縛られた存在となると聞きます。死んだと思ったのに意識があるので自分は死んでないと誤解をし、何度も死のうと試みる為、その過程で通りすがりの人に取り付いては、自殺を繰り返し、余計な罪を無意識のうちにどんどん積み重ねているのです。自分の置かれている状況を理解出来ないと言うのは本当に恐ろしい事なのです。だから自殺は御法度です。してはならない事なのです。だから、自殺を思う程辛い状況にある場合は、死ぬ位ならそのつらい状況から逃げた方がまだましなのです。何故なら、この世は神が作りし世界、そうであるが故に、その世界の否定は期待されている答えとは違うのです。この世への恨み心を持って死んだ人は、例えその人物の人生の殆どが立派な生き方だったとしても、死に際で、世を恨み、神を恨んで亡くなった場合には、どうも地獄に落ちているケースが多い印象なのです。何故ならそれは神の作りし世界の否定、神への否定に繋がって行くからだと思われているからです。
 
だから、天国に行くには、最低でも、死ぬ際に、“今世も色々と辛い事もあったが、それに耐えて強くなったし、学びも多かったし、魂の成長も実感出来た収穫の多い良い人生だった、神様、良い人生の機会をお与えいただきありがとうございました”と思って死ぬ必要があるように見えるのです。
だから、まぁ辛い事も耐えられれば良いのですが、良い人生だったと思える程度の辛さに留めておくべきであって、神や世を恨んでしまいそうな惨い状況に囲まれているなら、そんな状況からは逃げた方がマシなのです。世を恨み神を恨む位なら、逃げた方がマシです。勿論、心を変えて環境を変え課題を克服できたならば、それは100点満点なのですが、でもまぁ悪魔に取り付かれたような人を相手にして心を病む位なら、そしてそのせいで、世を恨み神を恨む位なら、そんな環境からはとっとと逃げ出した方がマシだと思います。ただ本人が気付くべき課題が残っている場合には、多分また似たような環境が出てくるはずですので、その場合は、どうもこうした環境は自分自身が作り出しているものであって、その課題を直視し、冷静に自分を見つめて何かを変えないといけないんだなと思うべきなのですが、それでも、余りにも理不尽な環境によって心を曇らす位ならば、そうした環境からはいち早く抜け出して、新たなる環境を求めたら良い、と考えます。
 
★人生の答えはいつも一緒のように見えます。何時だって"今世も良い人生であった"と思って死ぬのが人生の正解のように見えるのです。どんな時代でも多分それは一緒のように見えます。だから、死ぬ時に良い人生だったと思える人生、天国に行ける人生を目指して生きるべき、と考えます。
 
先述の通り、虐待や殺人等、凶悪事件が後を絶たない思想的背景にも、または中国のなど共産主義国で自国民の虐殺数を数百万人、数千万人と言う驚愕の規模で出来てしまうその思想的背景にも、減らない自殺の背景にも、唯物論、無神論、神への信仰の欠如がそこにはあると思えるのです。そして、その唯物論、無神論のベースには、ダーウィンの進化論があるのではないかと思うのですが、でも、そうした進化論を信じる方々に言わせると、我々人間も、元々アメーバのごとき単純な生命だったのが何億年と言う時の中で段々と変化を重ね進化して来た存在なのだと言うのですが、でも実は人類の歴史上誰もその進化の瞬間を目撃した人はいないのです。たったの一人もいないのです。誰も見た事も無いのにまるので見て来たかのように語っているだけの話なのです。それはただの想像、妄想のレベルの話であって、信仰の世界と同じなのです。科学者達は、何か偉そうに宗教を上から目線で見てバカにしていますが、実は進化論もただの仮説、妄想の類であり単に信じているだけの話なのです。その意味で彼らも立派な信仰者です。
多くの種の発生の経緯なんて、進化論支持者達が信じるような何億年もかけて段々と多くの種が生まれたのでは無くて、実は予め多くの種がほぼ同時期に大量に作られていた、なんて事も十分あり得るし、その内の一部が絶滅して、その内の一部がただ生き残っただけの話なのかもしれないのです。その真相は実は誰にも分かりません。以前も37話で言いましたが、新たな種は勾配では生まれて来ないのです。猫と犬のあいの子は出来きないのです。何故なら種が違うからです。種の壁と言うものは実はとても高くそうそう混じり合えないのです。一般的に新たな種の誕生は突然変異によって生まれると言いますが、新たな種として生き残っていくには、子孫を残すほどの大量な突然変異の新種の生命体が同時に多数発生しない限り新たな種として残って行く事は出来ないのです。突然変異でそんなことが起こるのか?と言う話なのです。あり得ない話をしているのです。だから嘗て太古の昔に遺伝子工学によって単純な生命をベースに何度も遺伝子改良が重ねられ、ほぼ同時期に多数の種が作られたと考えた方がより自然で、よりあり得る話だと思うのです。ではその遺伝子操作は一体誰がやったのか?と言う話なのですが、神と呼ばれるような偉大な御存在によるのか、それとも他の星から来た高度な生命体の仕業なのか、或いは嘗て人類が遺伝子工学において高度な知識を有していた時期があって、人類自身が数多くの動植物を多数作り出したのか、その三択が現実的な答えなのではないかと思っております。
まぁ勿論この宇宙全体を無から創造したクリエイター(創造主)が人や動植物も同じように無から創造したと考える事もありえますが、胎児の子宮内での成長過程を見る限り、いっぺんに出来たと言うより、単純な生命に改良が加えられて、次第に神に似た形態を持った人間が出来上がって来た印象を受けるのです。そこには試行錯誤があった印象を受けます。一時期は、肉体と霊体の中間、透明なジェルのような状態だった時代もあったと言う話も聞く位、色んな試しがあったのかも知れませんね。勿論真相は分かりようがありませんので、そこは高次なる神とアクセスが出来る預言者に聞くしかありませんがね。

★いずれにせよ、ハッキリしている事は、誰一人、新たな種が生まれる瞬間に立ち会った人などいないのです。一人もです。それは確かな事であると言えるのではないかと思います。

進化論は実験で再現できる話ではないのです。ただの妄想の類の話です。

余り不動の真理だなんて思うなよ、ってことです。

だから唯物論こそが洗脳なのであり、その洗脳の結果、命を軽んじる人間が増え、多数の殺人が行われ、その結果、多くの人々が人間不信に陥り、神の作りしこの世界を呪い恨むような事があるとしたならば、そうした状況を見て一体誰が喜ぶのか?と言う事です。そうした事態を見て悲しむのは神様であり、そうした状況を見て喜ぶのは悪魔と呼ばれる存在なのです。唯物論も無神論も唯物論的進化論も間違いなく悪魔が広めた誤った思想と思われています。それを科学的とか適当な事を言って有難がる現代の風潮には間違いなく誤りがあるのであって、この唯物論的進化論は、人が思うよりずっと毒性が強い思想なのであり、人の心を腐らせ、社会に混乱をもたらす危険な考え方と知るべきなのです。生物の環境への適応と変化程度はあり得ます。ただそれでもって新たな種は生まれて来ないのです。新たな種の発生は勝手には起きて来ません。新たな種は作らないと生まれて来ないのです。

遺伝子工学以外のアプローチで、新たな種を発生させる程の極端な自然環境を実験室で再現し、進化論を実験室で再現、証明してごらんなさい、と言う事です。そしたら進化論は科学的だと訂正しますから、でも、永遠にその時は来ないはずです。だって新たな種は環境の変化程度では生まれて来ないからです。悔しかったらやってみろと言う話です。唯物論的進化論は妄想です。そんな妄想に対しては、"もしかしたら我々の信じる唯物論的進化論は間違いなのかも知れない、やはり神の生命の創造と言うものは、聖書に書かれているものとは多少違うかもしれないが、でも確かにあった事なのかもしれない"位に思っておくのが、丁度良いと思うのです。唯物論的進化論なんてただの洗脳なんですからね。簡単に騙されてはいかんのです。

人間はただの物でもないし、死んだら終わりでもないのです。人間は神の子であり、転生しながら永遠の生命を生きる尊い存在なのです。だからこそ自らが成した過去から逃げる事は出来ないし、一方で初めから偉大で初めから救われた存在なのです。だって神の子なんだし神の一部でもあるのですから、そりゃ最強であり、最高に安泰な存在であり、最高に幸せな存在でもあるのです。アンブレーカブル、最強最高なんです。単に気付いて無いだけなのです。早く気付けと言う事です。その事実に基づいて日々生きて行く事が大事なのです。そしたら余裕だし、ゆとりも出来て人にも優しくなれるはずなんです。
どうぞお試しあれ。

それでは、また後日。
 
湖畔人

第205話. 確かな事(1) 無神論者が多い世の中より霊的な人生観を持つ人達が多い世の中の方が“絶対“に良い!

2018-11-27 00:42:45 | ★確かな事
湖畔人です。

確かな事一回目ですが、今回言いたいのは、無神論者が多い世の中よりも、霊的な人生観を持つ人達が多い世の中の方が、絶対に良い世の中になる!と言う点を指摘させて頂きます。

“第4話. 一度きりの人生を大切に生きる為に【2】 -世界をどう見るか-”でも、
“第37話. 唯物論か 唯霊論(唯神論)か、考えを定めて生きる(1)”の中でも申しましたが、

神や霊的な存在を信じる人達が多い世の中と、無神論者が多い世の中の、どちらの世界が、より住みやすく、より信じられ、より身を置きたくなり、より我が子を育てたくなる世の中になるのか、その選択をしようとした場合に、多分、間違いなく、神や霊的な存在を信じる人達が多い世の中の方が、より住みやすく、より信じられる世界で、そして、より身を置きたくなり、より子を育てたくなるような世の中になると思うのです。

何故なら、
神や霊的な存在を信じる方々は、人に見られる事のない状況下にあっても、自らの行動や、自らの心の動きも、全て目に見えない霊的な存在、神や天使や先祖達に見られている、と言う考えを持っている為、その行いも、その心の在り方も、神仏に作られた者達に期待されている心の在り方に沿うものであろうとするでしょうし、愛、他への優しさ、正直さ、正しさ、等、道徳と呼ばれる事柄を神から身に付ける事を期待されている事柄として、真剣に捉え、真剣に守り身に付けんとするはずなのです。また、周りの人間達も同じく神の子達と見るはずで、自も他も神に作られた存在として大切に扱い、いじめ等あるはずもなく、頂いた命を自ら殺める自殺等もあるはずもなく、自らも、その家族も、地域社会も、職場の同僚も大切にし、仕事や行いに善念を込めて精一杯生きるはずなのです。そんな人達の集まりですから、世の中は良く成るしかなく、そこで育つ子供達も素直にすくすくと育つはずです。それは信じられる世界、素晴らしい世界だと思うのです。

一方、神仏も霊的な存在も信じ無いと言う、無神論者の方々と言えば、人は死んだら終わり、楽しまなきゃ損、苦痛を出来るだけ避け、うまく生き切りたい、と思う方が多いはずで、神を信じないので、日頃の行いが死後の行き先を決める、なんて言う発想は全くない為、行いや心持に他人を害する利己的な悪しきものがあったとしても、それを恥じる事も、反省する事も無く、悪事はバレない限り何をしても宜しいと考えており、道徳も法律の背景にも神の意図を反映した教えベースにしたものと重く捉える事は無く、あくまで便宜的なものと捉える為、人に見つからなければ、法に触れさえしなければ何を思おうが何をしようが構わないと思っている、道徳的に素晴らしいと思われている美徳と言われるような、愛も、優しさも、正直さも、勇気も責任感も正義感も、正しき心の探求も、本当は全く意味が無いと思っている、人は偶然の重なりで出来た物、単なる物質、アメーバから進化した物質であって、自分も物なので、自殺も平気で出来るし、他人も物と見るので、平気で他人をイジメたり傷つけたり、殺めたり出来てしまう(政府に反抗する若者達を戦車で轢き潰したり、列車事故は国の恥と隠ぺいする為に車両に人が残っているのにも拘わらず車両ごと地中に埋めようとしたり、イスラム教を信じるマイノリティーを強制収容所に入れ臓器売買の対象にしたりする隣国のように)、人権の尊さなど本当は信じておらず、脅そうが、陥れようが、苦しめようが、利用しようが、全く構わないと思っている、人を傷つけ殺めても良心も痛まないし、寧ろ人が傷つくのを見て喜んでもいる、そもそも良心など存在しない、と思っている、そんな方々が多数出現してしまう可能性が非常に高い、それが神を否定した世界に住む人たちが行き付く先なんだと思うのです。もうこうなると、ほとんど人の面を被った悪魔達の住む世界と同じであって、もう人間として末期と言える状況かと思われます。暴力と恐怖と嘘と陥れと快楽と権謀術策が渦巻く野獣の世界の出現です。まるで某国の共産党の権力闘争の世界、所謂生き地獄ですね。そんな世界に、住みたくなる事も、そんな世界に住む人達を信じる事も、そんな世界にあこがれと共に身を置く事も、自らの子を預けたくなる欲求も湧いてくるはずもありません。(しかし何と我々の住む世界に近い事か・・・・)まあ、極端な言い方をしていますし、多くの人は神を信じる人達と、無神論者の世界の中間に位置しているのだと思いますが、極論をすると、こうなるのです。

こういった無神論者の世界と、前述のような神仏と霊的存在を信じる人々の集う世界のどちらの方が、より良いかと言えば、当然迷いなく前述の神仏を信じる人々が主流の世界の方が、より住みやすく、より身を置きたくなる、そしてより信じられる世界、より我が子を預けたくなるような世の中だと言えるかと思うのです。

だから、宗教と言うと敬遠しがちな日本ではありますが、神仏、宗教を信じる人が多い世界をもっともっと歓迎すべきだし、神を信じる人達が多い世の中の方が、より安心できるし、より信用できる人達の集まりとなり素晴らしい、と考えるべきなのかと思うのです。

兎に角、ハッキリと言える事は、あらゆる悪事、イジメや暴力や詐欺や窃盗等、あらゆる悪事、あらゆる犯罪が起きる、その根底には、この神を信じない心が有る事は間違いのない事実である、と言えるかと思います。だって本気で神を信じていたら、そんな罰当たりな犯罪行為等、出来るはずもないからです。信じてないからこそ、怖いもの無しだからこそ、そんな悪事が容易に出来てしまうのです。

だから、世界を見渡すと、宗教を持つ国が圧倒的に主流です。日本以外の国ではほとんどの国が、中東でも欧米でも南米でも、アジアの殆どの国であっても、皆、神を信じ、宗教に入っている人達が主流なのです。何故なら、神を信ぜず神を畏れない人達は、前述の如く、簡単に悪を犯す事が出来てしまうため信用が出来ないからです。宗教に入っていると言う事は、神の元、信じられる世界の建設に積極的にコミットしようとしていると宣言しているに等しいのです。

ですから、日本だって、神仏や霊的な世界観を尊ぶ人達が多くなるような方向でもっともっと努力、改善して行くべきなのです。神を信じる事で、互いの内なる神性を尊び合い、本当の意味での人権の尊重が出来る世界、互いに親切にしあい、互いに尊敬し合い、互いに愛し合い、反省して心まで整える優しく丁寧な人達の集まりが出現して来るのです。そこにはイジメも騙し合いもあるはずも無く、信じられる世界が出現するのです。そんな良い世界に、自らの子供達を預けたいと思うのは私だけではないはずです。その為には、神を畏れ尊び信じる気持ちはその世界の前提として必要なのです。ですから、もっともっと日本は宗教大国になって行くべきなのです。

一方、人々を宗教から遠ざけている要因が宗教自身にある事も知ってはいます。宗教アレルギーの主要因は、問題のある宗教の存在にこそあり、そうした存在は、宗教間で自浄作用を働かせ淘汰して行くべきと考えます。神に誤解を与え、神を人から遠ざける存在は最も罪深い存在です。そうした悪しき種は摘んでいく必要があります。しっかり自浄する必要がありますね。

悪魔教的で、人や動物の生贄を要求したり、呪いを推奨したりするような宗教の存在は許されるべきではないですよね。また、極端な一神教で他宗を排斥し、他宗を悪魔認定し、暴力により滅亡させる事を肯定する教義を持つ宗教の存在も許されるべきではないし、また、正当防衛の目的以外での殺人や、薬物使用を推奨したりするような反社会的な行為を推奨する宗教の存在も許されるべきではありません。また、宗教の心の教えの部分ではなく表面的な古臭い生活慣習の強要や、意味のないカーストのような前時代的な身分制度や差別観の強要も許されるべきではないし、または現代の社会活動や現代の経済活動の妨げになるような、そんな古い慣習を強要する宗教の存在も矯正されるべきだし、また、洗脳され自分で物を考える事を放棄し、思考停止をした人達の多数の出現も、まるでロボットみたいで薄気味悪いので、基本的な物の考え方のみを教えたら、後は、その教えの応用を各人に任せて、各人に自分の人生に責任を持たせ、自分で考える習慣、精神的に自立した人間達の多数の輩出を目指す宗教の出現が推奨されたり、等、本来、許容できる健全な宗教とはこうあるべき、と言う方向でレギュレーションが設けられ、とんでもない宗教の存続が難しくなる状況が作られる、逆に、健全な宗教には更にお墨付きが与えられる、そんな宗教間の規定のようなものが設けられると良いと考えています。多分もうそうしたものは存在するのかもしれませんが、かなり教義にまで踏み込んだ、普遍的人類目線での本音の規制が要ると考えます。そうする事で、宗教を要因にした戦争を誘発する考えを根絶できるし、宗教へのイメージダウンを誘発する物の考え方も規制でき、また、とんでも宗教を根絶させる事ができると思うのです。
宗教を起因とした戦争も過去、世界史の中で数多く御座いましたし、宗教的な風習で現代的生活が送れないイスラムやヒンドゥーの世界も変革が要りますし、そうした事柄を見てウンザリしている方々が、無神論に流れている感じも否めなくはなくて、そこは宗教界の自浄が足りてないと考えます。それは理性的でオープンに語られるべきと考えます。ただ、我が教えこそが一番正しい、という気概は別に否定されるものではなく、逆にそう思えてないと救済など出来るはずもないと思えますし、そこは否定する必要は無いと思うのですが、ただ、であるから自分以外の他は全て悪、と言う考えは将来禍根を残すのでNGとなるかと思います。また、信者の獲得は、純粋に競争であり、宗教の教義の中身や活動内容でもって競われるべきであり、そこはフェアに行われるべきと考えます。ですから、嘘偽りで他宗のイメージダウン狙ったり、暴力に訴えかけたりするやり方はNGで、協定違反とし、宗教資格剥奪とすべきと考えますね。いずれにせよ、宗教間の自浄がもっともっと要ると考えます。

そして、オカシナ宗教がいない世界、宗教が本当に尊敬される本来あるべき世界の出現に期待をしたい所ですね。本音を言えば、個人的には、私が尊崇している宗教家の教えが、もっと広く受け入れられて頂きたいなと、思っていますけどね。

また、希望を言えば、ただ神を信じれば良いと言う訳でなく、人類を皆神の子として見る思想、人生は一度でなく輪廻があるという思想、カルマがあり、己が成した全ての事に責任が付いて回るという思想は、個人的には必須と思っており、伝統宗教で輪廻を持たない、ユダヤ、キリスト、イスラムであっても、せめて、輪廻なんて言う考え方も、もしかしたらあるかもしれない、位には、思っていただきたい所ですよね。でないと、以前も申しましたが、育った生活環境も境遇も人それぞれなのに、一度の人生の結果、永遠の地獄の業火に焼かれ続ける、なんて言う思想は余りに救いがなく絶望的で最悪だと思いますのでね。やる気が無くなります。そんな世界観ではね。だから、輪廻とカルマは必須の考え方と考えます。一説には、553年の第2コンスタンティノポリス公会議で輪廻が異端と否定されたと言う説があり、逆に言えばそれまでは肯定されて来た、とも言えなくはない状況ですね。または、ユダヤ教においてもギルガルと言う輪廻思想がある、何て言う説もあるそうですし、いや意外と砂漠の宗教にも輪廻があった可能性があるのです。何らからの政治的理由で輪廻思想はユダヤ教からもキリスト教からも消し去られたと言っていいのかもしれない、そんな感じで捉えて頂けるとありがたいのですがね。

さて、今回の確かな事をまとめますと、

① あらゆる悪事、あらゆる犯罪の背景には、神を信じない心が有る事は間違いのない事実。本気で神を信じていたら、そんな罰当たりな犯罪行為等、出来るはずもないから。神の不在は罪を生む。

② 一方、神を信じ、宗教に入っていると言う事は、神の元、信じられる世界の建設に積極的にコミットしようとしていると宣言をしているに等しい為、信頼でき素晴らしい。

③ だから、神仏を信じる人々が主流の世界の方が、信じない人達が主流の世界に較べ、より住みやすく、より身を置きたくなる、より信じられる世界となる、だから、より我が子を預けたくなるような世の中になるのだ。

④ だから、日本人はもっと、宗教を尊ぶ風潮を作るべきだ。

⑤ 一方、宗教界は自浄能力を発揮すべし。

と、こんな感じの結論になるかと思います。

今後も、こうした”確かな事”括りで色々とチャレンジしてみたいなと思っています。

それでは、また後日。

湖畔人

第204話. 確かな事

2018-11-25 23:01:15 | ★確かな事
湖畔人です。

私のブログの主テーマの一つに霊的人生観の普及みたいな事があるのですが、霊的な話云々と言うと、目に見えるものではありませんので、中々確証を持った言い方をする事が出来ず、それが故に“妄想“と言うカテゴリーを用意しているのですが、でも、そうした霊的な事柄でも”確実にこの点は間違いがない“と言える事柄は幾つもあると思いますし、霊的でなくても”確実にこれは普遍性のある真理だ“、あるいは”普遍性のある物の考え方だ“と言える事柄は幾つもあると思いますので、今後そうした事柄をこのカテゴリーに、まとめとして格納して行きたいと思っております。そうすれば、まあ、今後様々な事を一から説明しなくても、”これらの点は既にもう疑う余地もなく真理だと嘗て確認した通り“と言えるかと思いますので、今後そうしたまとめを集めて参りたいと思っています。

湖畔人