湖畔人です。
縁起の良い"7"が並んだ今回は折角なので大事な話をしてみたいと思います。
今回は“信じる“という事に関して少し触れてみたいと思います。
このブログを通して、人は霊的な存在であり、転生の中、より神仏に近づかんと霊性の獲得を目指して何度も地上に生まれ変わっているのが我々である、我々は神仏の子であり、神と言う名の巨大な木、宇宙樹の葉の一枚、それが我々である、よって我々は神の子達でもあり、神と言う体の細胞の一つでもある、神の子であり一部でもある、そうした偉大な存在でもある。様々な宗教や思想の最大公約数的な真理として、そう思える、そうした事を繰り返し述べて来ておりますが、その我々の転生の目的、この世に生まれて来る目的としての“霊性の獲得”の一項目として、この“信じる力の強化”、という修行課題が間違いなくあると思われるのです。
信じる対象は色々ありましょうが、最終的なゴールとしては、究極に近い神、創造主、そうした根幹的な存在と、一体である、そうした究極の神と繋がっており、守られており、愛されている、そう信じ仰ぐ事、信仰が何より重要なのだと思うのです。それが仮に出来るのであれば、本来的にはあらゆる事が可能になるハズですし、本来的にはあらゆるストレスから解放され、絶対的な安心の世界に参入するハズですし、究極の安らぎの世界に生きる事になるハズなのです。であるにも関わらず、それが出来ていないという事は、それは、まだまだ信じる力が弱い、足りない、まだまだ修行が必要、という事を証明している、という事になるかと存じます。この世において、名を成し、実績を残している方々の多くは、そうした信じる力がそれだけ強い、そうした現実、成功を形作るだけの信念力を持っている、という事が言えるかと思います。信じる力は、本来、現実を形作る、現実を彫刻するノミ的な存在です。信じる力が強く、うまくコントロールできる人は、それだけ、彼の望んだ現実を彫り出し、出現させる事が出来る、作り出せる、という事になります。信じる力には明らかに実力差があり、強い弱い、うまい下手があるのです。またネガティブな方にだけ強い力を発揮する不思議な方々も実は数多くいるようです。結局何を信じるか、その選択を誤ったのでしょう。そして不幸な現実を強く信じたのでしょう。誤った使い方をしたのです。
まずは、究極の神と繋がる事、それを信じる事、それが大事です。それが信じられれば、この世界を作り出した強力な創造の源泉と繋がる事になり、最強の後ろ盾を得たことになります。
それが出来たら次には、何を思うか、その質と方向性をコントロールする事が重要です。その思いが自他ともに利する正しいものであり、人が霊的存在であり、転生し皆修行し神仏に近づかんとする存在であり皆神仏の子達であると言う世界観に親和性があるものであり、究極神が認める物である方向に制御出来てさえいれば、後はそれを出来るだけ強く思い念じ、実現して行くだけ、という事になります。その願いは神仏の祝福を得ながら叶っていく事となります。
但しその思いが自己中心的なものであったり、他を害するものであったりしてしまうと、究極神と繋がっているつもりが、別の方面の支援を受けるようになり、脇道に、悪しき道に反れていく事になりがちであり、危険なのです。悪しき者達にも力だけはある者達も多く、彼らの力を得ても一定の実現力が付くので、判りにくいのですが、悪しき縁で得た成果は必ず副作用を伴い、人を転落させ、危険なのです。一見判りにくいのですが、注意が要ります。
謙虚であり、感謝と利他の思い、愛の思いとともにあり、願いが自他を利するものであれば、究極神の力を得やすくなり、正しい道にとどまる事が出来るようになります。まずは正しく思う事が大事です。
思いが正しく、究極神が喜ぶものであるのであれば、次は、信じる力の質と強さの制御の問題となり、そこを鍛えるのが、この世に生まれて来る目的の一つでもあります。疑いと言う名の毒素を抑え、制御し、強くして行く方向で、実力を付けていく事が、この世に生きる大切な目的、“信じる力の強化”になるのです。私の尊崇する宗教家も、“信仰の力に比例して思いの力は強くなる、何故なら大いなる力と一体化するからだ”と言うような主旨の事を言われていました。信じる事が思いの力も強めるのです、思いが強まれば実現力が付くはずです。
その為には日々の祈りや点検、反省や瞑想が重要で、そうした細部はまた別の機会で触れて見たいと思っております。とは言いいましても、私自体、他人様に何か偉そうに講釈を垂れる程の立派な実力があるのか?、と問われれば、そんな大した力があるはずも無く、そんなお前が一体何を偉そうに他人に語るのか?、という事にもなるのかもしれませんが、とは言いましても、何があるべき姿なのか、何が正しい姿なのか、位は判っているつもりではございますので、分を弁えつつ、皆さんと共に正しい方向で一緒に力を付けて行きたい、と、そう強く願っております。
それでは、また後日、このテーマでやってみたいと願っております。
それでは、また。
湖畔人
縁起の良い"7"が並んだ今回は折角なので大事な話をしてみたいと思います。
今回は“信じる“という事に関して少し触れてみたいと思います。
このブログを通して、人は霊的な存在であり、転生の中、より神仏に近づかんと霊性の獲得を目指して何度も地上に生まれ変わっているのが我々である、我々は神仏の子であり、神と言う名の巨大な木、宇宙樹の葉の一枚、それが我々である、よって我々は神の子達でもあり、神と言う体の細胞の一つでもある、神の子であり一部でもある、そうした偉大な存在でもある。様々な宗教や思想の最大公約数的な真理として、そう思える、そうした事を繰り返し述べて来ておりますが、その我々の転生の目的、この世に生まれて来る目的としての“霊性の獲得”の一項目として、この“信じる力の強化”、という修行課題が間違いなくあると思われるのです。
信じる対象は色々ありましょうが、最終的なゴールとしては、究極に近い神、創造主、そうした根幹的な存在と、一体である、そうした究極の神と繋がっており、守られており、愛されている、そう信じ仰ぐ事、信仰が何より重要なのだと思うのです。それが仮に出来るのであれば、本来的にはあらゆる事が可能になるハズですし、本来的にはあらゆるストレスから解放され、絶対的な安心の世界に参入するハズですし、究極の安らぎの世界に生きる事になるハズなのです。であるにも関わらず、それが出来ていないという事は、それは、まだまだ信じる力が弱い、足りない、まだまだ修行が必要、という事を証明している、という事になるかと存じます。この世において、名を成し、実績を残している方々の多くは、そうした信じる力がそれだけ強い、そうした現実、成功を形作るだけの信念力を持っている、という事が言えるかと思います。信じる力は、本来、現実を形作る、現実を彫刻するノミ的な存在です。信じる力が強く、うまくコントロールできる人は、それだけ、彼の望んだ現実を彫り出し、出現させる事が出来る、作り出せる、という事になります。信じる力には明らかに実力差があり、強い弱い、うまい下手があるのです。またネガティブな方にだけ強い力を発揮する不思議な方々も実は数多くいるようです。結局何を信じるか、その選択を誤ったのでしょう。そして不幸な現実を強く信じたのでしょう。誤った使い方をしたのです。
まずは、究極の神と繋がる事、それを信じる事、それが大事です。それが信じられれば、この世界を作り出した強力な創造の源泉と繋がる事になり、最強の後ろ盾を得たことになります。
それが出来たら次には、何を思うか、その質と方向性をコントロールする事が重要です。その思いが自他ともに利する正しいものであり、人が霊的存在であり、転生し皆修行し神仏に近づかんとする存在であり皆神仏の子達であると言う世界観に親和性があるものであり、究極神が認める物である方向に制御出来てさえいれば、後はそれを出来るだけ強く思い念じ、実現して行くだけ、という事になります。その願いは神仏の祝福を得ながら叶っていく事となります。
但しその思いが自己中心的なものであったり、他を害するものであったりしてしまうと、究極神と繋がっているつもりが、別の方面の支援を受けるようになり、脇道に、悪しき道に反れていく事になりがちであり、危険なのです。悪しき者達にも力だけはある者達も多く、彼らの力を得ても一定の実現力が付くので、判りにくいのですが、悪しき縁で得た成果は必ず副作用を伴い、人を転落させ、危険なのです。一見判りにくいのですが、注意が要ります。
謙虚であり、感謝と利他の思い、愛の思いとともにあり、願いが自他を利するものであれば、究極神の力を得やすくなり、正しい道にとどまる事が出来るようになります。まずは正しく思う事が大事です。
思いが正しく、究極神が喜ぶものであるのであれば、次は、信じる力の質と強さの制御の問題となり、そこを鍛えるのが、この世に生まれて来る目的の一つでもあります。疑いと言う名の毒素を抑え、制御し、強くして行く方向で、実力を付けていく事が、この世に生きる大切な目的、“信じる力の強化”になるのです。私の尊崇する宗教家も、“信仰の力に比例して思いの力は強くなる、何故なら大いなる力と一体化するからだ”と言うような主旨の事を言われていました。信じる事が思いの力も強めるのです、思いが強まれば実現力が付くはずです。
その為には日々の祈りや点検、反省や瞑想が重要で、そうした細部はまた別の機会で触れて見たいと思っております。とは言いいましても、私自体、他人様に何か偉そうに講釈を垂れる程の立派な実力があるのか?、と問われれば、そんな大した力があるはずも無く、そんなお前が一体何を偉そうに他人に語るのか?、という事にもなるのかもしれませんが、とは言いましても、何があるべき姿なのか、何が正しい姿なのか、位は判っているつもりではございますので、分を弁えつつ、皆さんと共に正しい方向で一緒に力を付けて行きたい、と、そう強く願っております。
それでは、また後日、このテーマでやってみたいと願っております。
それでは、また。
湖畔人