第63話. 正しい英断 ミニストップ

2017-11-26 12:10:22 | ★改善・変更の要る仕組み 仕来り 風潮 法律
湖畔人です。

大手コンビニチェーンのミニストップが、来年から全店舗での成人雑誌の販売中止を決めたそうです。これは大変素晴らしい決断だと思うし、出来ればもっと早く実現してほしかった位です。
以前、第6話の嫌いな事(1)でも伝えた通り、一般人が毎日使う小売店にこれほど大量の成人誌を置いたコーナーが存在する国は日本以外にありません。日本だけに見られる特異な状況です。他の国では見たことがございません。そう言った類の雑誌を販売するような店は、別途専門店として存在し、一般人の日常生活から隔離されています。年間の来日する外国人観光客の数が2千万人を超えるこの御時世に、“皆さん、是非日本に来てください、日本人がどれだけ異常か判りますよ”と喧伝しているようなものです。反日国の皆さんもきっと大喜びでしょう。この状況で、慰安婦がどうのと言っても、全く説得力に欠けてしまいます。まずは、足元を正せという事です。
子供向けの図鑑やコミックが入っている棚の横に成人誌コーナーがある場合が多く、当然、子供達の目にも入る訳で、そんな成人誌のエグイ表紙を見ながら子供達が成長するのかと思うと、世も末かと思ってしまいます。
幾ら儲かるからって、オーナー達は悪魔に心を売っているのも同然の行為です。まあ、悪魔など信じないからこんな事が出来るのでしょうが、社会における精神衛生環境を著しく乱しています。犯罪に等しいです。人の道を外れています。政府も教育無償化とか言う前に、こう言う性的な情報の管理やイジメとか精神的な環境整備にもっと力を入れるべきです。何より、人が見ていない所で成した行為や思いも含めて、全て神仏や霊人達が見ているよ、と言う視点が欠けている事が問題です。神仏を信じ、転生の中、あらゆる行為への責任がずーっと各人について回ると言う思想をもっと浸透させていく事が重要かと存じます。
いずれにせよ、ミニストップの決断は立派です。他のコンビニチェーンも直ぐに見習って成人誌の取扱い即刻止めるべきです。

湖畔人

第62話. 気になった音楽③ クロード ドビュッシー ベルガマスク組曲 第3曲 『月の光』

2017-11-25 13:37:23 | 気になった音楽
湖畔人です。

第16話の前前前世?、第52話の『Guess I'm Dumb』に続く、気になった音楽の三回目です。
今回は、クラシック、ドビュッシーの『月の光』です。

POPS大好きの私ではありますが、たまにはクラシックを聴くこともあります。
『月の光』は、誰もが知っている名曲中の名曲かと思いますが、私は学生時代に友人の薦めで聴き始めた曲の一つでして、時が過ぎた今でも、ふと思い出しては、何度も繰り返し聴いている曲の一つです。

何度聴いても聴き飽きるという事はなく、聴けば直ぐに独特の静寂の世界に引き込まれて行きます。

禅語では無いですが、この曲を聴いている間は、見事に前後が裁断されて行くのです。つい先程まで周辺にあった喧噪や、心のザワツキ、不安や怒りが瞬時にシャットアウトされて行き、直ぐに心の波が治まり、静寂の世界へと引き込まれて行くのです。

ドビュッシー自体は、多くの芸術家同様、個人としては色々と問題行動も多く、難しい人物だったようですが、彼の生み出したこの名曲は、多くの人々に安らぎと静寂を与え続けてくれています。人類への貢献の仕方も様々ですね。

『月の光』は、私にとってはとても相性の良い鎮静曲、瞑想導入曲なのです。

日が沈み、収穫の終わった鏡のように輝く蓮田の水面に月が映る様を見る度に、この名曲を思い出します。

お勧めです。

湖畔人

第61話. 冬の湖畔② 蓮田の色彩

2017-11-23 23:38:35 | 花鳥風月
湖畔人です。

この秋は殆ど週末晴れる事がなく、いつも曇っていてグレーの空の下、色彩の無い湖畔の魅力は半減どころか10分の1程度に減少し、あんまり湖畔の自然を堪能できなかったのですが、ここ最近の週末は二週連続でとても綺麗な夕空でしたし、休日だった本日も午後遅くから綺麗な青空が広がり、ワンシーズンで一度か二度お目にかかる事が出来るような、“可能ならこの瞬間を永遠に留めておきたい”、と思わせられるような美しい夕日を今日も見る事が出来ました。先々週末、先週末に続き本日で3日連続でそうした美しい夕日を見る事ができたのは大変ラッキーでした。腹立たしい選挙も終わり神々のお怒りも小休止と言った所なのでしょうか。北の今後もどうなるか気になりますが、そんな事は一時忘れて自然の織り成す美しい風景に身を置き英気を養わせていただきました。やはり曇っていると世界から色彩が失われますが、晴れているとその時の湿度や風の状態等で空や雲や湖面の色合いが毎回違った表情を見せてくれるのです。特にこの時期は、蓮が枯れ、蓮根の収穫が始まるのですが、この枯れた蓮の茎が作り出す明るい茶色が湖畔の風景に色彩のアクセントを付け足してくれるのです。大ぶりの葉と茎を持つ蓮は、枯れると茎が折れ曲がり、近くで見ると少しグロテスクな感じなのですが、少し離れた所から見ると、オレンジに近い明るめの茶色が輝き、土手の明るめの緑と、すでに刈り終えた稲田から僅かに生えて来ている稲の新芽の白っぽい淡い緑とが、程良い色彩のバランスを作り出し、それはまるで印象派の絵画のようです。ヴァンゴッホのラ・クロの収穫(青い荷車)の色彩に似ています。ヴァンゴッホは、北斎の描いた浮世絵の色彩を求めて南仏に移住したと聞きますが、現代に生きる日本人が、今度は日本の風景の中にヴァンゴッホの色を見ているのですから何とも不思議なものです。緑の稲に覆われている春夏の湖畔も良いですが、様々な色彩が楽しめる秋冬はもっと味わい深くて良いと思います。タゲリの舞いも見る事が出来て、溜まっていた疲れも少し取れた気がします。

湖畔人

第60話. 霊性をベースにした普段の生活②-霊性の向上を求めるが故の体調管理や身だしなみの重要性

2017-11-23 22:27:42 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

前話に続き、霊性をベースにした普段の生活の話です。
霊性を高める事は、この世に生まれて来る主目的なのだと思うのですが、霊性を高める中には、霊的な法則や霊界の世界観に関する知識の向上も必須だと思いますが、その他にも神仏の子としての視点から、自分も他人も神仏の子としての自覚が深まる方向で力を尽くす事が望まれていると推察します。その為には、自分や周りの霊性が開花する方向での祈りや、普段の生活でそうした願いを込めたコミュニケーション力を付ける事が望まれているのではないかと推察しますし、それは前話でお話しした通りなのですが、周りに愛を込めた思いや行いをしようとした場合、その為にも、前提として、やはり自分自身が体調もよく、健康である事が大事だと思っています。霊性、精神性の話をしておいて肉体へのケアの話をするのも何か一見矛盾しているように思えるかもしれませんが、やはり、健全な体に健全な心宿るではないですが、健康である事が何より重要だと思っています。体調が悪いと自分の事ばかりに意識が行きがちですし、周りに意識を向け気遣うのが難しくなりますので、利他に生きる為にも自分の体調は万全にしておく事が大事です。よって、適度な睡眠を取る事や、適度な運動をする事が重要です。そう言いながらも、実際の所は、これまでの私自身の生活は、不健康を絵に描いたような不規則な生活をずっと過ごして来ておりまして、海外に出る事も多く昼夜が逆転しがちですし、万年寝不足であり、睡眠時間は短めで、海外ではカロリーが高めな食事になりがちであり、ストレスのはけ口として食で気を紛らわしてきた歴史も長く、現在の私は体のアチコチにガタが来ており、体中が悲鳴を上げている次第でして、今は抜本的な生活習慣の改善や体質の改善が必要とされており、出来るだけカロリーを抑え、睡眠も多めに取り、歩く時間も増やすなどして体調の改善に努めている最中です。霊的であろうとすればする程、自分の肉体が万全である事が望ましく、健康な体が霊的生活には必須である、と最近強く感じている次第です。

また、話は変わりますが、他人とのコミュニケーションを円滑にするためにも、見た目(服装や香り等)も相手に悪い思いをさせない程度に小綺麗にしておく事が重要だと思っています。これも、霊性がどうのと言いながら見た目、外見の話をして矛盾をしているようで恐縮ですが、見た目を小綺麗にしておく事は相手への気遣いとして、エチケットとして重要だと感じています。個人的には心の中では人類皆これ神仏の子、皆兄弟、等と呟きながらも、見た目は少し派手目でチョイ悪オヤジ風にしておく位がちょうど良いのではないか?と思っています。まぁ、あくまで個人的見解ですが・・・。

湖畔人

第59話. 霊性をベースにした普段の生活①-悪意を持つ人との対峙法と祈りについて

2017-11-20 23:55:05 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

以前第50話でもお話しした通り、このブログにおいては、様々な教えの最大公約数的な真理として、人類が霊的な存在であり、神仏の子であり、転生輪廻の中、様々な経験をこの物質世界で積み、霊性の獲得を目指している存在だと想定していて、その視点から見て、どう世界を見るのが正しいのか、どう生るべきなのかと言う事を考える契機にして行きたいと述べましたが、今日は、ではそう言う思想の元、実際、普段の生活において、どのような心持で過ごしているのか、本来どうすべきなのか、今日はその一端の報告です。こうした試みはこれまでやって来ているようで、実はあまりして来なかったので、初トライをしてみたいと思います。個人的には、霊的な生活において一番大事だと思っているポイントは、周辺の人間を、彼らも皆、同じ神という名の宇宙樹の葉の一枚であり、皆神の一部、皆神の子、皆兄弟であると言う視点で他人を見る事が大事だと思っています。実際、社会に出れば、色々な人が居ますし、どちらかと言うと悪意を秘めて人の足を引っぱる事に忙しい人達を数多く見受けますし、本来神の子であるはずの彼らがむしろ悪魔に近く見える場面にも数多く遭遇します。特に自分に対して積極的に敵対をしたり足を引こうとする方々に出会った際には、それらの方々を神の子達として見なさい、と言われても中々難しいところがあるのも事実です。ただ、その現象がどうであれ、彼らも皆神の子である事実には変わりはありません。ただ、その神の子としての自覚を今彼らが持っているか、将来持つのか、来来世に持つのか、というただ時間の問題、タイミングの問題だけとも言えます。自覚のある人間からすれば、何と罪深い行いをするのか?!、と思うかもしれませんが、自覚の有り無しの問題であって、彼らの根っこが神の子であることには何ら変わりはないのです。ただ一方で、彼らも神性、仏性を内に宿す身だからこそ、相手に対する自己保存的欲求(エゴ)に基づく悪意や悪業は、相手の内にある仏性、神性、神と繋がった宇宙樹の部分への冒涜や罪であり、自らの内にある神性や仏性への冒涜でもあり罪でもあるため、相手にも自分にも償いを必要とするはずですし、転生の中、カルマとして、業として償いが要る、という事になるかと存じます。その罪が深ければ深い程、それ相応の償い、カルマの解消が必要になるかと思います。その償いは、死後の地獄での修行かもしれませんし、将来に現れてくる辛い出来事になるかもしれません。凶悪事件を起こす方などは、それ相応の償いが要りますので、気の毒な未来が待っている事になるはずです。ある意味、無知であるが故の気の毒な話なのです。しかし神性への罪はゼロ化、帳消しが要るはずですので、自分に悪意を持って対峙する人間達も、その自分や彼らの仏性、神性への冒涜により、将来必ず償いを受ける事になるはずですので、それを知っていて彼らに罪を犯し続けさせるのは何とも意地悪な話ですので、うまく彼らが彼らの本当の姿に気付けるような誘導が要るのかと存じます。将来の業を避ける為、その解消法、軽減法の一つとしては、様々な宗教の教えによれば、反省、懺悔、が良いと言われており、特に一番良いのは直接の謝罪がカルマを持ち越さずに済む良いカルマの解消法となるようです。相手の奥の仏性に、心から謝罪をするのが、一番のようです。話は戻りますが、もし私に悪意を持ち此方を批判する人間が目の前に現れた場合には、その状況をどう判断し、どう対応するかですが、そのパターンは、単なる悪意による批判行為の場合と、実際に自分に非もある批判の場合と、その両方が混ざっている場合と、3通りあるかと思いますが、それらに対する自分なりの折り合いのつけ方としては(それが正解かどうかは判りませんが)、まず、その批判行為が明確に悪意を伴ったもので、明らかに私にダメージを与えんとした悪意ある批判行為であると見られる場合は、私にダメージを与えるのが彼らの狙いですので、あまり彼らの狙った通りにダメージを受けることが無いようにする事が大事だと思います。真に受けず、軽く受け流す事、フーンと受け流し、軽くかわし、別の話題に切り替え話を反らす等してしまう事、時には無視をする事、とにかく、こちらが全くこたえていない事を示し、彼らの悪しき試みが効かない事を示す事、しかも、それを何度も繰り返す事が大事だと思っています。この方式は、そこそこ効き目がある印象です。ただ、度を過ぎた敵対行為には、多少キレる事も有効と感じる事もございます。基本、彼らの判断基準は、相手の人間が自分の将来にとってどう影響力を持つ対象なのか、役に立ちそうか、怒らせると厄介なのか、その辺りを見ながら、態度を決めて来ますので、こちらが多少怒る反応を示すと、これはマズイと態度が改まる事も何度も見てきております。そんな単純な理由で態度が変わるのか?と残念に思うこともありますが、実際、そう言った場面をこれまで何度も見て来ており、かなり有効な手法のようです。この方式の前提としては、ある程度その組織で実績があり、組織の中枢とのリンクがあると尚良いと考えます。私は余り怒る事ができず、何方かと言うと苦手な方で、それが課題の一つなのですが、相手を増長させない有効な手立てのようですので、今後コミュニケーション技術の一つとして身に着けたいと考えております。出来るだけ頑張ってみようと思っています。次に、私の方に明らかに非があり批判を受けた場合や、或いは多少相手に悪意もありはするが部分的には此方にも非があり批判を受けたと思える場合には、その批判内容に対して、その批判を受け入れ改善した場合に、自分達が所属する組織にとって、その改善が一体良きものなのかどうか、効用が見込めるのか、その視点から見てみて、どうも有効のようだと言う見解になる場合には、それらの説明をした上で、素直に受け入れ、改善を試みようとします。その代わりに、相手に対しても、改善を促したい点がある場合には、同じように、所属する組織にとって、どうその改善が必要なのか、有効なのか、と言う視点から、相手にも改善を促す、という事をしています。できるだけ理性的に理論的に説明をし、改善を促します。個人の改善がどう組織にとって有効なのか、と言う視点が、やはりあらゆる判断の基準としてあるべきなのだと思うのです。もちろん、その組織が社会にとって有益であることが大前提ではありますが・・・。正しいかどうかは判りませんが、これが現時点での私に対する3種の批判への対処法です。今後も色々と試行錯誤をして行きたいと思っています。いずれにせよ、人間関係が悩みのほとんどです。感情的にならず、相手に神性、仏性を見つつ、此方に非があれば批判を取り入れ改善し、たまには怒り、個々人の変革を組織を利する方向で一致させるよう調整を掛けて行きたい、と思っています。まあ、霊性を高めると言っても、実際、社会生活を送っていれば、そんな考えを持っている人間は、ほんの一握りですし、余り似たような思想を持っている人に会った事もないですし、表立ってそれを言えば変人と思われるのが必定ですし、余りそうした言動ばかりしていると、弱みとして使われるのが落ちですから、余程でないとそう言った事は表立って人間神の子等とは言えませんが、ただ、言い方次第ではほのめかしに因る誘導位は可能かと思いますので、オブラートに包んで、罰が当たるとか、神様も呆れてるとか、色々な言い方で誘導は可能かと思っています。天使と悪魔の心は誰にでもございますので、相手の中の天使の部分が強く出てくるように、まずは、此方が相手の心の奥にある仏性や神性を強く信じ、拝み出し、“貴方も神の子でしょう?、それにふさわしく生きてください!”、と心の中で強く念じ、その上で、賢く、うまく誘導して行ければと思っています。そのやり方が正しいのか十分なのかはわかりませんが、一応、今の自分にとってのベストなやり方です。また、第4話でもご説明した通り、祈りも、霊的な生活には必須と考えています。自分が霊的な存在である事の確認作業にもなりますし、課題のある相手にも祈りの中で相手の改善と気付きを願うことは大事だと思っています。私は尊崇する宗教家が提供してくださっている祈りの言葉を幾つか毎朝毎晩唱えさせて頂いており、守られているな、祈りがシールドになっているな、と感じる事が実際、多々ございまして、大変感謝している次第でございます。お勧めです。
では、また、きっと後日進展もあるでしょうから、その際御報告いたします。

では。

湖畔人

(2017.11.25改訂)