第44話. ブログ2年目

2017-06-26 23:33:27 | ブログについて
湖畔人です。

このブログも本日で2年目に突入しました。
あっという間の1年のようでもあり、随分時間が経ったかのような印象もございます。言いたい事はまだまだ山のように沢山あるのに、中々時間を作れず、まだ44話しか書けていない今の現状は何ともストレスフルであり、サラリーマンの悲哀を日々感しながら過ごしている今日この頃ですが、これからも、めげること無く、日本の片田舎の湖の畔から、神がおられるならば神は一体我々に何を望まれ、どう生きよと願われるのか、この世界をどう彫刻せよと命じられるのか、それらの視点に思いをめぐらせながら、日々目に写る様々な出来事について自分なりに思うところを発信してまいりたいと思っております。また、そうした固い話以外でも、食や音楽、芸術、芸能、等々、興味関心のある様々な事柄について自由に書いてまいりたいと考えております。 

今後とも湖畔人の呟きにお付き合い頂けますと幸いです。

今後とも、どうぞ宜しくお願いいたします。

湖畔人

第43話. 小林麻央さん

2017-06-24 23:39:53 | よもやま話,雑感,最近思う事
湖畔人です。

小林麻央さんがお亡くなりになりましたね。

それ程熱心に闘病の経緯を見て来た訳でもないですし、ただ何となく、難しい病を抱えながら、同様の境遇の方々の希望の光にならんと前向きに生きて来られた立派な方なのだろうな、とは見てはいましたし、彼女を見守るご家族の愛もとてもピュアで温かいものなのだろうなと見てはいました。彼女の存在自体も他への思いやりに満ちた美しいご存在なんだろうなとは思っておりました。ですので、こんな立派な方なのだから、お子様達も小さい事だし、願わくば何か奇跡でも起こってもらって完治でもしては貰えまいかと密かに期待をしていた人間の一人ではあったのですが、かと言ってそれ程熱心なファンであった訳でもなく、ただただ気に掛けていた程度の関心しか持たなかった私なのですが、この思っていたより早かった彼女の死を今知らされて、何故だか判りませんが、自分でも驚くほど悲しくて悲しくて仕方がありません。

この世知辛い世の中で、稀有なる彼女のようなピュアな存在がこのような悲しい境遇にあると言う、この理不尽さが悲しいのか、小さい子達と最愛の夫や姉、親を残し早々とこの世を旅立たざるを得なかった彼女の無念さを想像してしまうせいなのか、残された子供達や海老蔵さんや麻耶さん他ご家族の悲しみを想像してしまうせいなのか、正直言って判りませんが、今はただただ悲しくて悲しくて仕方がありません。

ただただ今は、彼女の魂の悲しみと無念さが天使達の癒しの光によりできるだけ早く癒される事を強くお祈り申し上げます。そして、海老蔵さんやお子さん達、残されたご家族の皆様の深い悲しみが天使達の癒し光により出来るだけ早く癒される事を心から願っております。

湖畔人

第42話. 唯物論か 唯霊論(唯神論)か、考えを定めて生きる(2) 

2017-06-03 18:26:04 | ★カジュアルスピリチャリズム(カジスピ),多分あっていると思われる事,人生観
湖畔人です。

このテーマで二回目です。でも、ライフワーク的なテーマなので、今後も引き続きこのテーマで何度も書いて行きたいと思います。

前回のまとめとしては、
①唯物論者は、不可視と言うだけで思考するエネルギー体である霊的な存在を否定するが、不可視光帯域のエネルギー形態は我々の日常に溢れており、早合点して否定すべきではない事。
②次に、百歩譲っても、霊的な存在の確率は、在るか無いかの二択であり、存在の可能性は50%であり、霊的存在を否定する者達は唯物論がメジャーであるかのような誤解をすべきでない事。
③唯物論者、無神論者の拠り所としてのダーウィニズム、進化論は、冷静に考えると不思議且つ強引な想像による物が多く、論拠は非常に脆弱で無理があり、信憑性に掛ける事。
④神仏や霊の存在を信じる世界の方が、そうでない世界よりよっぽど安心と信頼に満ちており、より住み良い素晴らしい世界である事。
⑤この世界は神仏の存在抜きに成り立たない世界として出来上がっているように見える。道徳も法律も神から与えられたものと言う視点を抜いては、重荷がなく、有難味に欠け、人々に心まで統御させる動機を失わせる為、神仏の存在の肯定は必須と思える事を述べました。

従って、唯物論者は、神仏の存在も、霊的な存在も、諦めて受け入れ、心を定め、全ての人が神仏の子であり大きな神という宇宙樹の枝葉であり、皆同じ樹の一部であるが故に皆兄弟であり、愛しあい睦みあい信じあうべきである。また我々は転生輪廻の中で様々な経験と知見を重ね、親である究極の神に近づかんと修行をする霊的な存在であり、その考えに基づき日々生きるべきである。そうした話をしました。今回も、③の唯物論者の論拠であるダーウィニズムのおかしな点について、もう少し追記したいと思います。

■生命が勝手に生まれる?
前回も、どうやって灼熱のマグマの塊だった地球に最初の有機物、生命が存在し始めたのか、皆、世間では海に単純な微生物が現れ始め、それがだんだん進化、高度化して、人間にまで進化したと言いますが、私としては、そうした見方は話が強引でおかしいと思っています、と言う話をしました。一体どうやって岩や鉱物など無機物から突然生命が生まれるのか、それが可能としたら魔法の世界であり、神による創造以外に考えられない、と疑問を呈しました。また進化論も、種を超えるのは普通あり得ないし、奇想天外な話で、あまり簡単に受け入れて良い類の話ではない、おかしい、と申しました。そもそも、灼熱のマグマだった地球が冷えたとしても、有機生命が一切存在しなかった地球に、最初にそうした有機物、生命がどうやって現れ得たのか、その点が実はやはりともて不思議なのです。太古の昔、高熱の地球には有機物はまず存在しえなかったはずです。最初にいなかったら、基本、その後も、全く存在しないはずなのです。勝手に岩から生命が生まれたりしないはずです。それが出来ると言うなら、実験による再現性を科学的真理の絶対条件とする科学者達は、やはり太古の地球と同じ状況を実験場に人工的に作り、そこから有機物や生命が生まれる状況を再現すべきです。それが出来ないなら、あまり現在のように海の中で自然発生的に生命が生まれたのは至極当然の事だったかのような言い方をするのは控えるべきです。断定的な言い方は避けた方が良いと思います。本来なら、 “生命の誕生に関しては我々は何も判かっていない、神による創造も含め様々な可能性がある”とすべきと思います。

■二つの可能性
有機物や生命が地球に最初に現れた可能性に関しては、神による創造を除けば、二つありえると思うのですが、
一つ目は、大気圏の形成や水など生命が住める環境が地球に出来た後に、宇宙から降ってくる隕石に生命や有機物がたまたま含まれていて、地球に落ちて繁殖したと言う想定が一つ。
二つ目の可能性は、宇宙から降り注ぐ太陽光や放射能を含む様々な宇宙線の影響、雷などの放電、磁石としての地球の電磁力、それらが織りなす様々な化学反応が、岩や鉱物などに変化をもたらし、無機物を有機物に変えると言うものです。
一つ目の宇宙から降って来た案は、仮にそうだとしても、ではどうやってその宇宙の生命は最初に現れ得たのか、その疑問自体は同じく残り続けるので、二つ目の可能性である、光線や電圧や磁力など諸条件を加えて無機物を有機物に換える証明が必要です。

科学者は、実験による再現性を科学的真理の前提としますが、生命の誕生に関しても同じ態度で臨むべきです。先程言いましたように、やはり太古の地球と同じ状況を実験場に人工的に作り、そこから有機物や生命が生まれる状況を再現すべきです。そこに、遠赤外から紫外、X線等やその他諸々の高エネルギーの放射線、電圧や磁力など諸条件を加えて無機物を有機物に換えられるか実験をすべきです。嘗て、シカゴ大のスタンリー・ミラーと言う科学者が、原始地球にはメタン、水素、アンモニアが多かったと仮定して、無菌状態のチューブ内にそれらのガスを充満、循環させ、そこに数万ボルトの高い電圧を放電してアミノ酸の生成を証明した事があるようですが、その後、アポロ計画で採集した月の石の解析から原始の地球はマグマの塊であって、その当時の大気成分は二酸化炭素、窒素、水蒸気等、火山ガスに近いガスが主流であって、ミラー氏の実験は、地球における有機物の誕生を再現したものとは言えない、と言う結論になったようです。ですから、まだ実験によって、無機物から有機物が発生すると言う証明は出来ていないと言う事になります。仮に、単純なアミノ酸など有機物の生成が出来たとしても、そこから自らの意思で動き回る単純な微生物生命の誕生まで実験で証明すべきだと思います。それで証明が出来ないのなら、今の世間一般でまかり通っている所の、自然発生的に微生物が海に現れたと言う仮説は、かなり可能性が低く、神による創造の可能性の方が実は濃厚であると、ハッキリ言うべきです。あまり現在のように、生命が自然発生的に生まれた何て仮説を、まるで、あたりまえの事実のような断定的な扱い方をするのは直ぐにでも改めるべきです。本来なら、 “我々は恥ずかしながら生命の誕生に関しては何も判かっていない、神による創造も含め様々な可能性がある”とするのがフェアーな態度です。詰めが甘いし、本当に適当過ぎるプロパガンダだと思います。

■DNAについて
前回、DNAの配列が様々な生命で似通っている理由は、記録されていない過去に、高度な遺伝子工学技術を人類が有していた時期があったかもしれず、その当時の高度な人類の仕業として新しい種の創造があったかもしれない、または同様の遺伝子工学技術を持つ宇宙人の仕業か、等と言いましたが、そもそも、神ご自身が地球に様々な生物を生み出す過程において、実は単純な生物に遺伝子工学を駆使して少しずつ改良を加えて来た張本人であるかもしれず、勿論その辺りは判るはずもないですが、そうした可能性も多いにありえると思うのです。いずれにしましても、DNAはプログラムな訳でして、基本プログラムは勝手には書かれないと思うのです。DNA と言うプログラムがもし自然が偶然と環境要因によって作り上げたプログラムだと言うなら、同じように偶然と外的環境要因によって勝手にプログラムが書き変わっても良いはずです。でも、実際にはこのDNAと言うプログラムは、どうもそんな柔な物ではなく、そう簡単には外部要因に因って書き変わる事はないようです。私は死ぬまで私ですし、貴方は死ぬまで貴方ですし。放射線や電圧や温度や磁場等何らかの外的要因を受けても、私が他の物や人になる事は無いのです。このプログラムは死ぬまでその生命に個性を与え続けます。この強固で正確なプログラムを作ったプログラマーがどこかにいるはずで、一体それは誰?という話です。それが所謂“神”と呼ばれるような高度な存在なのではないのか?と思えて仕方ないですが、そう思うのは私だけでしょうか?

■環境に合わせて形を変える?
某NHKの自然や動物等を扱う番組を見ていると、その番組を作る側の視点がとても面白く感じることがあります。番組のナレーターによると、ユニークな動物たちは過酷な環境で生き残る為に様々な特徴や形状や機能を時間の中で戦略的且つ意図的に獲得して来た、と言うような言い方をするのです。まるで動物達に、環境に合わせて今までになかった機能や形を得たいと強く願うと、それら願いを彼らは得る事が出来ると言わんばかりです。まあ、爪が伸びたり、皮膚が固く成ったり、色々ありえると思いますが、願って形にすると言う思想は、神を信じる者からすると、人類が神から与えられた最も神に近いパワフルな能力、“強い念いで物事を成し遂げる力“の事を言っているようにも聞こえますし、番組制作者はそうした不思議な力を動物達にも無意識に見出しているのかもしれません。同じ神の創造物として、動物達にもそうした不思議な力が与えられているとしても、別に何の不思議もないと思います。番組は唯物論者の論拠の一つ、進化論を唱えたダーウィンの名を文字っていますが、もしかしたら、番組制作者の直感は、霊的な視点も持ち合わせたダーウィンの友人、ウォーレスの方に近いのかもしれません。

いずれにせよ、神の創造を否定してしまうと必ず行き詰るようにこの世界は出来ている、と言う視点は多分間違いがないと思われます。今後も霊的な視点を持って生きると何か、実際どうあるべきなのか、自分なりの考えを時折シェアさせて頂きたいと思います。

それでは、また後日。

湖畔人