「チャコちゅうぶ」で二週続けて「帯」についての話をした
人類がこの地球に現れてこちら「腰に帯を巻く」のは当たり前の姿だ
「かぶる」「合わせる」という二つの衣服の形がある
そのいづれにしても腰に布を巻きまたは毛皮を巻いて、布が体から離れないように工夫する・これは有史以前からの人類の衣服の在り方。しかも洋の東西を問わず
その中でもわが日本は平安時代から、衣服は「襟を合わせる」という形になり、そうするとますます、腰に帯をまかなければ恰好がないことになった。というより帯がなければ前がはだける
その帯は着る人の自由で前で結んだり、脇で在ったり、後ろで結んだりしながら、現在は後ろで結ぶっという形が定着している
着物はもともと無地であり、植物染料で染めた美しい布を重ね着して、その色の重なりの美しさを愛でた、その為帯は機能的であればよく、帯はまた着物の中に隠れていた。
それが段々帯が表に出るようになってきて、帯にも趣向をからすような時代になったのが安土桃山時代であろうか?男も女も華やかで凝った帯を締めている絵画が多くみられる、織の技術が発展して、錦織綾織という絢爛豪華な織物が作り始められたとき、打掛と帯との柄の連動も始まった
特に明治に入ると女も自由に外に出られるようになり、着物を短めに着るとどうしても帯の幅は広くなる。その方が裾もはだけないし、着物姿が安定する
帯の幅が広くなると、そこに描く柄は「絵画」となってくる。その絵もはじめは刺繍や絞り、または絵描きが直接布に描く「素描」から、江戸中期に出はじめた「友禅染」が好まれた
同じ柄を描くのなら「季節」を先取りしたいという思いが強く、季節の花柄が模様として選ばれていく。階級制度がはっきりとしていた明治から昭和の初期までは、貴族や華族、富豪の令嬢たちと、一般の娘たちの着るものは違ってくる。友禅染の華やぎのある着物は庶民の娘たちには縁が薄く、地味な紬にせめて帯を華やかにするという着方だった。その帯に思いを込めて季節の花などを取り入れていた
上の階級の令嬢たちの帯は丸帯か袋帯でほとんどは織の帯。華やかな染の着物にこれまた綾錦の帯を合わせるので、いまの私たちの目から見ると「満艦飾」。でもそれは富の象徴
帯の行方が気になる昨今ではある