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古文書徒然其之参

2012-04-05 23:23:23 | はらだおさむ氏コーナー
鳥取藩智頭宿を訪ねて



 所用で山陰へ出かけることになり、往路ははじめて智頭線を利用した鳥取経由とすることにした。
 ホームページで沿線みどころガイドを検索、智頭町が江戸時代鳥取藩の参勤交代の宿場で栄え、元大庄屋の「石谷家」には当時の文書が数多く現存することを知り、途中下車して現場を体感することにした。
 メールで町役場と連絡、教育課葉狩課長のアレンジで町誌編さん専門員の村尾康礼先生との面談が実現、3時間ほど参勤交代と智頭宿を中心にレクチャーを受け、関連史料をいただいた。以下はその報告と所感である。

 特急「はくと」は上郡から智頭までが第三セクターの智頭急行で運行され、志戸坂峠のトンネルを越えると鳥取県八頭郡智頭町に入る。さらにトンネルを4つ潜り抜けて到着した智頭駅からは因美線で鳥取、津山線で津山経由岡山につながる。大阪から特急で2時間、「みどりの風が吹くまち」(同町パンフ)に到着する。町面積の97%が森林で覆われ、その小盆地に智頭の宿場町がある。
 因幡・美作国境の志戸坂峠を越える智頭往来は、奈良時代以前から畿内と因幡地方を結ぶ幹線で、江戸時代に入り鳥取藩の参勤交代の道として初代藩主池田光仲の入国以後十二代藩主池田慶徳に至る二百十四年間に百七十八回往復されてきている。鳥取を朝9時ごろ出発した一行は千代川(せんだいがわ)に沿ってさかのぼり、用瀬で休憩(昼食)のあと三時ごろ智頭宿に到着、第一夜を過ごしている。帰路は江戸から廿余日目の最後の宿、疲れは隠せないものの四年ぶりの帰国に胸を弾ませ、眠れぬ夜を過ごしたことであろう。

 寛文十一年(一六七一)、藩主光仲は三月十四日に鳥取を出発、四月四日に江戸に到着している。その旅程と宿泊地はつぎのとおり。(鳥取県史第四巻四六五頁「お下り道中日記」)

 ①鳥取発智頭②平福③姫路④兵庫⑤郡山⑥⑦伏見(連泊)⑧草津⑨関⑩桑名⑪鳴海⑫御油⑬浜松⑭島田⑮江尻⑯沼津⑰小田原⑱戸塚⑲川崎⑳江戸着

このときは西国街道・東海道を利用しているが、木曽路も十二回ほど利用されている。いずれもが数百名に及ぶ集団行動、その手配の大変さは各藩に共通する。

智頭宿は鳥取から七里三丁(約三十キロ)、播磨・美作に通じる幹道にあり、鳥取藩主のみの参勤交代路であったため、高札場・牢・御茶屋があり目付けが常駐していた。
わたしが宿泊した河内屋旅館は江戸時代からの旅籠であるが、ご主人談では
二度の類焼で残っているのはあの階段のみと、玄関から奥へつながる廊下の先を指される。一間幅の広い階段ではあるが、手すりもなく踏み板も狭くて、初心者には滑り落ちんばかりの代物。這々の体で通された部屋の裏路地には、天保十四年(一八四三)の『智頭宿全図』によると、下ノ御茶屋があり、目付け屋敷や牢屋が付設されていたようである。
 この地図に記載の当時の智頭宿の戸数は、上町・下町・新町横町・河原町あわせて百八十三戸、同じ地区の平成十二年の戸数は河原町が八倍強に増えているほかは暫増で、それはこの下ノお茶屋の住宅化や御本陣の公民館などへの転用による変遷のみとみられる。
 この地図の五年後の嘉永元年(一八四八)、御本陣立替図と添書きのある『智頭宿御本陣之平面図』が残っている。本道筋の草津宿などと違って小ぶりではあるが、御本陣(主屋)は三拾畳座敷のほか大中小合わせて十四部屋、約六十坪(二百平方メートル)、御奉行所五部屋、約三十坪(百平方メートル)、留守居役住宅五部屋、約十坪(三十三平方メートル)計二十四部屋、約百坪の建屋があった。敷地は推測すると約二百坪、ほかに千代川沿いに約六十坪の御殿河原が描かれている(時にはここで鵜飼も催されたことがあるとか)。

 智頭街道に面して御本陣の表門があり、その斜め前に今も本・石谷家の邸宅が現存している(但し建物は明治以降改造が重ねられている)。
 前掲天保十四年の『智頭宿全図』を仔細に眺めてみると、つぎのようなことがわかる。
 表御門に面して塩屋伝四郎(本家)と塩屋喜右衛門宅がある。この表御門の左右は(東側は二軒の大工宅ほかを挟むが)塩屋直四郎、塩屋弥三左衛門宅となる。さらにその南は中御門に通じる路地まで、二軒の塩屋元左衛門(現・塩屋出店)と塩屋孫三郎宅が取り囲んでいる。ほかに往来筋に間口の狭い塩屋のへ宅もある。この御本陣を取り囲み、往来筋に軒を連ねる塩屋とは、何者か。
 パンフ「石谷家住宅」などによると、つぎのような説明がある。
 街道の中央に位置する石谷家は、古くから屋号を塩屋といい、元禄時代はじめ(一六九一)ごろに姫路から鳥取に移り住んで塩を商い、のち智頭に移住、分家を含む一族で大庄屋を勤めている。いつまで塩の商いをしていたのか不明で、地主経営や宿場問屋(一時期は酒造りも含め)を営み、幕末以降は山林地主から地場産業の代表資本家としてのプロフィールが描かれているが、私はもう少し屋号の塩屋にこだわりたい。
 鳥取県史第四巻につぎのような記述がある(五五一頁)。
 「元禄二年(一六八九)の諸運上定めの中に、他国・地塩とも一斗につき二分ずつ、ほか一文は改人が取ることとされ、領内の生産分のみでは塩不足で、領外塩、主として瀬戸内海の塩を移入していた。享保十七年(一七三二)の例では、奥地の智頭宿あたりでは、播州赤穂から陸送で塩を入れていたが、このころ塩が来なくなったため、諸口銭免除を願い出ている」
 堺屋太一の小説「峠の群像」は、赤穂浪士の討ち入りにいたる背景を良質の赤穂塩の独占販売ルートを巡る葛藤ととらえて話題を提供したが、姫路出身の「塩屋」が鳥取から赤穂藩の上郡に最も近い智頭に出店を置き、以後財を蓄え大庄屋としての地位を固めるそのサクセスストーリの根源は「赤穂塩」にあったことであろう。
 しかし、大庄屋は立場上は地方役人に過ぎない。
 年貢米の取立てから、諸役の管理まで藩と農民の間にあって務めを全うしなければならない。

 最近公表された石谷家文書の内、文化十三年(一八一六)子ノ五月十二日の御帰国をめぐる史料は、参勤交代にからむ宿場の状況を具体的に描出していて興味深い。
 まずお殿様は御本陣に宿泊の事ゆえ別格として、大庄屋に残る文書は御用人
大竹萬録以下家臣・従者の宿割りにふれている。
 御帰国御宿割帳に記載の宿屋は七軒、宿泊家臣の総数は一〇五人を数えるが、御用人宿泊の旅籠しの屋(房之助)でも上下三十四人内十八人相対払とあり、さらに若し手狭之時は近所へ下宿致させ候心得と記されている。他の旅籠においても似たような状況は生じていたに違いない。
 従者(付人)三百九十三人ほか駕篭かきなどを含む御供衆計五百七十八人は
当然のことながら「民宿」ということにあいなる。
 大庄屋石谷八左衛門は周辺の農村から調達した夜具、食器から風呂桶に至るまでを詳細に記録を残している。物資ばかりではない、人足触出し帳には往来の清掃人=安行(アンコウ)から御台所、御遠見などなど具体的な仕事を指定しての人足集めをそれぞれの村に命じている。その合計九百四十四人とある。大変な作業であった。当然それらの代償は藩から支給されているものと思うが、その記述はない。
 これらの史料を見せていただきながら不思議に感じたのは、これだけの物資と人の調達をやりながらトラブルの発生が一件も記されていない事であった。
 村尾先生のご指摘でこれらの史料をさらに注意して見ると、それぞれの項目に○とバツの印がついている、これで出し入れの帳合、確認をしていたのではないか、というのが先生のお話。四年に一度のこととはいえ、農民もさることながら、それを落ち度なくやり遂げねばならぬ大庄屋の苦労は大変なものであった。

 いただいた「古文書が語る『智頭の歴史』」史料集の第六集「『本石谷家文書』を読む」に「一、智頭宿、衰微の事」の項目があり、1、大庄屋石谷伝九郎、お嘆きの事 と 5、町屋見苦しく、お宿勤め成り難き事 の二件の文書はいずれも前述の文化十三年の御帰国にからんでいる。
 前者はこの御帰国前年の八月、作柄から判断して数年来の年貢未納分の借用銀の分割払いも難しいと返済猶予のお願いを「御格別之御評議を以御慈悲之段、
偏ニ奉願候」としている(これは翌春四月却下されている)。
 後者はまさに御帰国直前の三月のこと、智頭宿の年寄衆五人と庄屋が連名で
手元不如意にて「無拠宿並家居等茂甚見苦敷相成」と御帰国のお宿勤め難く、とした上で、「御米百五十石御救とし而被為 仰付候ハヽ難有奉存候」と大庄屋に揺さぶりをかけている。
 こうして迎えた御帰国である。
 個人的感慨は一文字も連ねず、几帳面に事実のみが記された文書の数々。

 「石谷家住宅」(国登録文化財・智頭町指定文化財)はいま因幡街道ふるさと振興財団により管理・運営されている。4号蔵(非公開)は「智頭史料館」となっており、多くの古文書が保管されている。東京大学史料編纂所の山本博文教授(講談社現代新書『参勤交代』の著者)は次のように語っておられる。
 「大庄屋という民間のまとめ役が持っていた史料というのは珍しい、幕府や藩だけではなく、民衆にとって参勤交代がどんな意味を持っていたのかと言う研究の一端になるであろう」(村尾康礼著「参勤交代と智頭宿の御接待」)。

 末尾ながらご指導いただいた村尾先生とアレンジいただいた葉狩課長に厚く御礼申し上げます。

参考図書及び史料=「鳥取県史第四巻(近世 社会・経済)」、芳賀 登ほか二名編著「天明飢饉史料・石谷家文書」(雄山閣)、村尾康礼著「参勤交代と智頭宿の御接待」(とっとり政策総合研究センター)同添付資料1~5、「古文書が語る『智頭の歴史』」第六集「『本石谷家文書』(同町教育委員会)