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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾八

2014-10-05 23:02:03 | はらだおさむ氏コーナー
“友好乾杯”のときは過ぎて・・・


 七十の手習いではじめた古文書学習の関係で、各地の史料館や文書館とのおつきあいがふえてきた。史料の収集(蒐集)などの範囲をみているとまさに“10年ひとむかし”、いまはいずれ“歴史”になるという感覚である。
 日本が明治以降、諸外国、特にアジア近隣諸国との交流のなかで犯した“負の遺産”はいまのわたしたちが受け継がねばならないことは当然ではあるが、それはすべてが“負”ではない。

 わたしの中国とのつき合いは“日中不再戦”がその原点であった。
 中国側の視点も「一部の軍国主義者を除く大多数の日本国民は戦争の犠牲者」とみなし、日中両国民の共通の目標として「日中国交の正常化」が掲げられた。
 1956年の「北京・上海日本商品展覧会」、58年の「広州・武漢日本商品展覧会」の会場では、朝夕日本国旗が解放軍の兵士によって掲揚下され、護衛されていた。ところが58年5月、長崎の百貨店で開催されていた中国物産展会場の中国国旗が暴徒に凌辱されたにもかかわらず、ときの岸内閣はこれに謝罪せず、日中間の友好交流は数年間の断絶を余儀なくされた。
 これは、もう古い歴史に属することかもしれない。
 ところが、である。
 2010年の上海万博のとき、出展した日本館では日本国旗を掲揚しなかった。「反日感情を刺激する」、「日本政府の主催ではない」、という曖昧な説明で逃げてしまった。尖閣沖で酔っ払い船長の漁船が日本の巡視船に衝突したのは、上海万博閉幕の一月前のことである。
 日本の無原則、事なかれ主義が、問題を大きくしてきている。
 これは、歴史の教訓である。

 昨秋の『徒然中国』67号「セブンか、エイトか」の末尾につぎのような追記を書いていた。
 < このところ、しきりと思いだすことばがある。
   「もう、『友好乾杯』の時代は終わった」
   八十年代のおわりごろ、故鮫島敬治・「日経」初代中国特派員がよく話されていたことばである >

わたしと同世代の方ならよく覚えておられるであろうが、鮫島さんは文革初動期の68年6月、北京市公安局軍事管制委員会によって逮捕され、翌年12月釈放されるまでの一年数ヶ月拘留された。鮫島さんとは学部は異なるが、大学の一年先輩、岡崎嘉平太さんなどLT関係者からもかれの逮捕に憤りの声が上がったが、中国の対日関係者もすべて「文革」で下放・軟禁中であった。
 わたしが鮫島先輩とのお付き合いを深めたのは、86年9月、上海で開催された第2回大阪・上海経済会議のときからである。鮫島さんは当時日本経済新聞大阪本社副代表・編集局長で、このときは大阪側基調講演のスピーカーであった。講演の骨子も、これからは実務の時代、<友好乾杯>の時代は終わった、であった。
 大阪ではわたしの事務所と『日経』が同じ路線上にあり、地下鉄でも会合でもよくお目にかかった。東京へ転勤されてからも、日中関係学会などでお会いすることがあり、その都度この逮捕事件のことは是非書いてくださいよ、いや、まだ関係者がご生存中なので、と話したりしていた。わたしが編集の『上海経済交流』にはよく目を通していただいて、アドバイスもいただいていた。
 04年12月、二度目の舌癌手術のあと、薬石効なく昇天された、享年72歳、日中経済交流の先駆者であった。

 一年後、『追想 鮫島敬治』が刊行され、功子未亡人よりその贈呈を受けた。
 末尾 第3部に「回想録メモ」があった。未発表の、未完のメモ「プロローグ」37ページ分が掲載されていた。臨場感あふれる逮捕の瞬間、友好商社駐在員の逮捕・軟禁のはなし、廫承志さんやLT関係者のことのほか、その後、当時の取調官との二度にわたる取材・会食のことなど、“大河”執筆の構想が感じられる「プロローグ」である。
 末尾近くには、「この夜の拘留には、手錠も捕縛も用意されていなかった。その後の取り調べ、拘留期間中も、彼らが私の身体に指一本ふれなかったことだけは、明記しておかねばなるまい」と冷静にこの事件を「歴史」としてとらえようとする姿勢が垣間見られる。
 第1部 「追悼」には多くの方の追悼文が掲載されている。
 中江要介(前・日中関係学会名誉会長、今春ご逝去!)さんの<「日中友好」を言わない>がある。鮫島先輩と元中国大使のやりとりが楽しい・・・<鮫島さんによれば「日中友好は口で唱えるものではない。日中間の様々な部門や側面でそれぞれ尽力して相互理解を深めてゆけば日中友好はおのずからついて来るもの(ついて来るべきもの)であるという考え方です。私はこの鮫島さんの考え方に大賛成で、以後今日まで、わが日中関係学会では「日中友好」を前面に押し出して謳うことをせず、地道に真面目に日中両国及び両国民の相互理解に役立つことを堅実に探求しています」とある。宜なるかな!わたしの大好きな『らしからぬ大使のお話』の著者・中江先生、泉下の鮫島先輩もウイ!とうなずいておられることであろう。

 鮫島先輩の逮捕・拘留は、中ソ対立の象徴ともいえる“珍宝島事件”をはさんでいる。
 69年3月、ウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)で中ソが軍事衝突、死傷者が出た。
 当時私たちは物産展活動を通じて、日中国交正常化への世論喚起に努めていたが、それは[中国を知り、知らせる]運動でもあった。この珍宝島事件をめぐって、わたしたちの仲間でも意見が分かれた。この事件を物産展会場でも紹介すべきかどうか、わたしは「日本と中国」に焦点を絞るべき、中ソ問題は物産展会場での紹介対象にそぐわないと主張、年配の方からきみは現場を見ないと判断できないのか、中国の主張には賛同できないのかと難詰されたことがある。
 事件は同年9月、ホーチミン・ベトナム大統領の葬儀の帰途、北京空港で急遽設定されたコスイギン・ソ連首相と周恩来総理との会談で全面衝突は回避されたが、この事件も契機になって中国のアメリカ接近、日本との国交正常化への動きが出てくる。

 先日 NHKで中国の青年たちに好評の雑誌『知日』についての特集番組があった。これを観たわたしの友人・知人から好意的な反応が多く届けられた。そして日中の世論調査で、中国のほうが日本に好感を持つ人が多いのはなぜかとの質問もあった。
 以下は独断と偏見の私論になる。
中国の人はメディアよりも自分の「情報源」を信用する人が多いが、日本人はメディアや政府に文句タラタラながら、結局はその情報に操られているのではないか、自分のアタマでモノを考える習慣、自分の「情報源」を持つ必要が日本人は中国の人より少ないのではないか、というのがわたしの結論である。頼りになるのは「五星紅旗」なのか「日章旗」なのか、はたまた友人や親族なのか、その是非はさておくが、もう友好乾杯の時代は終わった・・・、いまは「日中不再戦」を原点に「戦略的互恵関係」の構築に智慧を絞るべきときであろう。
                   (2014年9月23日 記)