九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

間違い訂正!  後法興院記より

2021-03-21 | 九里【まとめ】

さて、後法興院記の記載から様々な想像を展開したが、間違いがあったので訂正を入れて置きたい。

 

この、後ろから二行目に登場する「九里四郎次郎」(員秀の事と思われる)、

私のコメントでは「座布団」の関係のことか?と書いていたが、これは大きな誤りであったと思う。笑

 

「有蹴鞠、飛鳥井宰相、左小辨伊長、極臈資直、藤蔵人、興基僧都等来、九里四郎次郎進圓座、廿枚先日便宜時令所望了」

と、全部が関係あったようで、コメントに詳しく自閑様が書いてくださった!

 

それを基に、書かせていただくと、

この蹴鞠のメンバーは

飛鳥井雅俊 1498 参議(宰相の事)
勧修寺尚顕 1501 左少弁 確定
甘露寺伊長 1501 右少弁 確定
富小路資直 文明16年(1484年)六位蔵人兼左近衛将監に任官。蹴鞠・医学にも通じたとwikiにあるのでほぼ確定

となる。

 

こんなすごいメンバーに誘われた九里四郎次郎、どうやら近衛政家に何か便宜をはかり、その時に何か欲しいものはないか(仮)と聞かれ、蹴鞠がしたいと答えたようである。

彼は、無事に蹴鞠は出来たのだろうか。

飛鳥井雅康に頂いた「蹴鞠五部抄」を読んでいたはず。

是も興味(憧れ)があって、何かの折に所望した物だったのかもしれない。

 

極臈資直の「極臈」は、↓

六位の蔵人(くろうど)で、最も年功を積んだ人。一﨟。ごくろう。(コトバンクより)

 

また、もう一つは和漢会、私の想像では漢方に関する記述がいくつか見られたため「和漢方の会」だったのだが、

 

実は下記のようである。

月次和漢会とは、漢詩と和歌の会だと思います。」

漢方ではなく漢詩と和歌。

そういえば、医師の名が見えないかも。(笑)

===*===

近衛政家と丹波親康のことが書かれていた小論があったので、ココに載せておこうと思う。

 

http://jsmh.umin.jp/journal/45-2/168-169.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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足利義政と日野富子との娘 光山聖俊(1462-1505) - 景愛寺・大慈院・宝鏡寺の住持  後法興院記 より

2021-03-19 | 九里【まとめ】

 

三月二日 佐々木小三郎の行に「廿九日寶鏡寺殿入滅云々」とある。

この方は、下記の方とは別人なのだろうか? 明応4年なので1495年に歿したことになる。

足利義政と日野富子との娘 光山聖俊(1462-1505) - 景愛寺・大慈院・宝鏡寺の住持

 

代々同じ「寶鏡寺殿」と呼ばれる方が出てくるため、よくわからないが、

寶鏡寺殿と九里はともに同じ文書に顔を出す。すぐ近くで。

 

宝鏡寺 理豊宮 理豊女王(りほう じょおう)1672-1745年

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B1%8A%E5%A5%B3%E7%8E%8B

 

 

 

 

 

最後の九里対馬と共に出てくる方は、1532年以降の「宝鏡寺殿」となる。

宝鏡寺理源(足利義晴の娘だが、この方は義輝が1536年生まれなので1540年以降に生まれていると思う。

とすればその先代の鏡寺殿が鹿苑日録に九里対馬と共に出てくる人物と成るのではないだろうか。

 

「恵照以後、足利将軍家の女子は、将来の住持として幼少期から比丘尼御所に入室することが多くなった。」とある。(wikipedia 恵照より)」応永29年4月27日(1422年5月17日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E7%85%A7

http://hokyoji.net/history

 

九里九郎左衛門と宝鏡寺殿・九里対馬と宝鏡寺殿 の関係がわかれば嬉しいのだが。

 

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文亀二年八月 九里四郎次郎  後法興院記 より

2021-03-18 | 九里【まとめ】

文亀二年 八月 (1502年)九里四郎次郎が登場してきた。(後ろから二行目です。)

 

近衛政家ともつながりがあった!ということになる。

 

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延徳四年 1492年 後法興院記 より

2021-03-18 | 九里【まとめ】

四月の三行目に九里、三井以下…とある。

延徳4年(1492年)3月、安富元家が六角軍に奇襲されて金剛寺から敗走した。足利義材は赤松政則、武田元信、斯波義寛に出撃を命じ、浦上則宗、逸見弾正、織田敏定が送り込まれ、3月29日、安富元家と合流して簗瀬河原で六角勢4000人を打ち破った。義材は浦上らに感状と太刀を与えている。同年5月、義材は安富元家に替えて斯波義寛を先鋒に任じ、赤松氏、武田氏と共に甲賀に送り込んだ。さらに10月17日には自ら出陣して金剛寺に本陣を置き六角征伐を進めたため、六角軍は甲賀を捨てて伊勢に逃亡したが北畠氏の軍勢に迎え撃たれ潰走した[3]

足利義材は、細川政元に替えて六角虎千代六角政堯の養子)を守護に任命して兵を引き払い、12月14日に京に凱旋した。

===*===

ところが、その虎千代もすぐに没落したようである。

この時代は将軍家・六角・京極の佐々木氏さらに出雲の尼子経久までも入り乱れて、様々な戦いが繰り広げられている。

複雑なので、今はパス。

 

 

佐々成政は政堯の後裔と伝える。

 

 

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後法興院記(近衛政家)の中 の 九里次郎(伊賀守息)久利五郎 久利治部大輔 も登場

2021-03-18 | 九里【まとめ】

後法興院記 第三巻 九里次郎(伊賀守息)が出ているそうである。

また、久利氏二人も、記載がある様で何とか探して読んでみたい。

後法興院記(下)が国立国会図書館デジタルにあった!

近衛政家の日記で、読んでいると恰もこの方とお知り合いのような気がしてくる。(笑)

今日は薬湯の日でしたね。猿楽も楽しゅうございましたね。

「梅見事」とあるので、今日は梅を愛でましたね!

・・・などなど、何かしら会話したくなってくる。

人さまの日記をこのように垣間見てしまってよいものか‥‥でも、その時代の生活をみる貴重な機会であり、一応人にも見られることを意識していたかもしれない(例えば、近衛一族の後裔に)

彼、近衛政家もまた【日記の家】であったのだろうか?

wikipediaには書かれていなかったが、政家と尚通は、日記を残している。

 

小野宮流藤原氏

桓武平氏高棟流

勧修寺流藤原氏

 

近衛政家の時代明応の大地震があった。

 

調べものついでにこのようなものが見つかった。

歴史における地震(の資料)が一目でわかる。

(明応の地震)明応地震と港湾都市・明応七年紀州における地震津波と和田浦 等…

1498年9月20日の事項を見ていくと出ている。マグニチュードは8.2-8.4 とある。

http://etna.seis.nagoya-u.ac.jp/HistEQMap/

 

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家司 九里九郎左衛門 京都叢書 ・ 九里家 東寺大師行状 日本随筆体成 

2021-03-16 | 九里【まとめ】

今、気にかかっているのは、江州中原氏の時代には、九条家・一条家・日野家・広橋家等の家司をしていたと思われるため、それが九里氏にも繋がっていたのではないだろうか?という事である。

「家司 九里」と検索すると、京都叢書にあったのである。

私的発見!!

それが【九里九郎左衛門】である。時代はわからなかったが、家司が九里にもいたのである。

 

===*===

もう一つ、それとは別に出てきた情報memo

 

て 武田和昭著

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1993/183/1993_183_1/_pdf/-char/ja

こちら今の星占いに通じている。平安の後期のようだが、入ってきたのはそれよりも以前であろうと思うので、益々興味深い。

 

真本在三鷹司家元社頭同年中行事書卷

真本在三鷹司家,

同石山寺緣起真本在石山寺、

原家西行記畫

九里家東寺大師行状東寺

長谷川家日高川畫巻日高道成寺

柳原家王生寺緣起 ...

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久里九兵衛か 九里武兵衛か? 二人いたのだろうか?

2021-03-14 | 九里【まとめ】

この 久里九兵衛 ・ 九里武兵衛 が、弘前藩にいた。

武兵衛‥‥とあるので、武兵衛が家の主で九郎衛は、弟か、息か、甥か、と想像できる。が、同一人物かもしれない。

津軽での事件に巻き込まれたのは「久里九兵衛」であるのか?

「九里武兵衛」であるのか?

 

彼の名「久里」を九里とすると「九里九兵衛 慶長五年に利長が大聖寺の山口宗永へ降伏するよう使者として派遣されるが断られ戻る。大聖寺城で戦い、金ケ丸で戦没。」とあるので、その裔となりそうである。

 

しかし、近衛氏の猶子(庶子)となった大浦氏に仕えることとなった者もいたかもしれない。大浦光信の娘(阿久)が尚通の子・大浦政信を産んでいる。尚通が25歳の時の息と成る。

政信は1541年に歿している。

 

九里源兵衛と但馬が赴いたわけではなさそうなので、また何か新しい情報が入った際に戻ることとし、

九里但馬の周辺を探したい。

なんせ、大和国と関係がありそうなので、大和宇陀松山藩の九里に距離が近い!

 

 

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足利義昭に出した意見書の中にもその名が…「上野豪為」(ひでため)

2021-03-14 | 九里【まとめ】

https://pleasure-bit.com/3604.html

「一、何の落ち度も無いのに、全く恩賞を受けられない者達が信長に泣き言を言ってきます。私は以前にも彼らに対して恩賞をお与えになるように申し上げましたが、その内の一人にもお与えになっていないようですね。私の彼らに対する面目がありません。「彼ら」とは、観世国広(かんぜくにひろ)・古田可兵衛・上野豪為(うえのひでため)のことです。」

と名前が出ている。義昭の許でも働いていたことがココでもわかる。

という事は、九里但馬もいたかもしれない。

義昭は1568年から将軍職だが、それ以前から’上野清信と同一人物ならば、だが、)越前朝倉氏の許へも供奉している。

桜本坊豪為は、1564年・1565年、足利義輝・足利義昭の近くにいた者であったようである。

という事は、九里但馬もしかり。

 

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上野清信 父上野信孝

2021-03-14 | 九里【まとめ】

上野清信という人物が、上野紀伊守豪為=桜本坊豪為であったかもしれない。

というのも、父の上野信孝が、以下のように書かれていた。

「信孝が幕府内に大きな発言力を持つようになるのは、13代将軍足利義輝の時代になってからである。度重なる義晴・義輝の近江動座に随行したことで義輝やその生母である慶寿院から信用を得たのではないか、と推測している[1]。」[1]は 木下昌規「総論 足利義輝政権の研究」木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年)

 

信孝は1563年に歿しているため、其の跡は息清信に渡ったのではないだろうか?

ただ、紀伊守とは書かれていなかったので、別人の可能性もあると思う。

 

この桜本坊という場所のほうは、たぶん吉野の‥‥と思われるのだが、如何であろうか。

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桜本坊豪為の被官であったのか? 九里但馬。

2021-03-14 | 九里【まとめ】

義輝時代からの奉公衆・将軍御供衆  上野紀伊守豪為=桜本坊豪為

この人物の被官であった「九里但馬」ではないだろうかと思う。

共に記されている「慶寿院」は1565年迄生存しているため、下記の文書(二枚目)の1564年も桜本坊豪為であった可能性があると思う。

つまり九里源兵衛の息の活躍期と成ると思う。

九里但馬は、1530年位に生まれた人物かもしれない。

慶應大学 所蔵古文書

https://kmj.flet.keio.ac.jp/kmj.php?mode=mjg&mkey=2&gcode=KO0010&sort=1&odr=a&line=20&page=17&tbl=2&code=KO00100330&rown=9

 

 

 

上野氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%B0%8F#%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B5%81_%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%B0%8F%E5%AB%A1%E6%B5%81

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