蹴鞠伝承の要であった神社の存在
https://www.kokugakuin.ac.jp/account/91657
蹴鞠体験!
https://www.kyotoside.jp/entry/20201020
万葉蹴鞠
http://nara21cf.org/blog/?page_id=909
信濃毎日新聞
http://www.fiber.shinshu-u.ac.jp/tany/kemarihp/kiji/news/shinmai20120601.pdf
不思議の森から
http://www.town.ochi.kochi.jp/upld/files/yokogura/news/Vol_28.pdf
下記の研究発表により、宗祇が近衛家を訪問していたには、息である近衛尚通のための、講師を迎えての講義であったのだ!(そればかりではないとは思うが、一部はそうであった。)
4ページ目の⑨を見ていただけると、古今集 講師宗祇 31回とある。
https://core.ac.uk/download/pdf/235264025.pdf
源氏物語なんかも、講義を受けている。
ただ、読んだことがある…ではないのだ。
この研究、とても面白い!
昔から、パリのサロンに興味のあった私。
これも日本の「サロン」だと思う。
面白いことに尚通の時代には20名も講義を受けている武士がいるようである。
九里もいたことがわかったら、嬉しいのだが。(蹴鞠の授業は受けていたかもしれない!)
読めない漢字。何とよめばよいのだろう。そして、どのような意味なのだろうか。たくさん出てくる漢字。
‥‥とでてくる。
===*===
おしえていただきました!
「さかずき」だそうです。
歴史地震史料検索システムでは、「こちら」と書かれている所から奥に入り、お湯どのの上の日記の記載が出てきた。(おゆどのにっき、と思っていたが、お湯どのの上の、とある。)
東坊城和長は明応九年「凶事記」なるものを書いている。
同人の書いた「菅別記」には宗恩(九里浄椿)のことが簡単に書かれているそうである。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532994
ご興味のある方は、割と読みやすい文字の方ではないかと思うので、挑戦すると面白いことがわかってくるかもしれない。
私は、パス。(笑)
中原氏も似たような職種であったろうと思うので、興味はあるのだが、古文書は読めないし、何だか怖ろしい~~。
さて、この東坊城氏は「天皇の侍読を務める家」「紀伝道」とある。女性も「勾当内侍」として出仕している。
広橋氏・唐橋氏・小倉氏との婚姻関係がある様だが、あまり九里にダイレクトには関係がないかもしれない。
関武兵衛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%AD%A6%E5%85%B5%E8%A1%9B
memo
九里武兵衛 1611年
青森県弘前市新寺町73 日蓮宗 法幢山法立寺
乾四郎兵衛という名も出てくる。
豪姫もまたキリシタンであった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB
前田利家・小西行長・高山右近・内藤如安・宇喜多休閑 この辺りはキリシタンのつながりでもあった。
高山右近・内藤如安はマニラに渡っている。小西・宇喜多は歿し、この中では前田利家だけが加賀で生き延びている。(彼自身はキリシタンではなく、ただ、理解ある人物であったのではないかと思う)
娘六女に送った着物の柄にも「キリスト誕生、東方の三博士(マギ)」由来の図があるようだ。
https://muuseo.com/makoto.panteleimon/diaries/6
前田利家は七尾城主、そして七尾にはキリシタンの寺がある。娘の豪はキリシタンであったことがわかっている。
天正9年(1581年)、織田信長より能登一国を与えられ、七尾城主となり23万石を領有する大名となった。
キリシタンにはならなかったものの、その新しい知識に魅かれていたのかもしれない。
傾奇者は、新しいものがきっと好きだった!と思うので。
前田に仕えていた九里十左衛門・勘気を蒙ってしまった九里少蔵、そして九里甚左衛門正貞、
そして対立することとなった佐々成政の下にも九里がいる。
この辺りにいた九里。そして我が家の家紋は十文字が入っている。キリシタンだったのだろうか?
しかも名前が「榧之内十文字」
今まで気が付かなかったが、榧とは生まれたばかりのイエスが寝ていた木の箱のことだったのではないだろうか?
https://www.kogei-seika.jp/blog/kanazawa/008.html
前野長康もキリシタンであった。
武功夜話のwikipediaにも、このようにある様に「縁者の前野長康(本名は坪内光景)が豊臣秀次謀反によって切腹したこと、長康や編者の千代ら前野一族がキリシタンだったことから、人目につかないよう伝えられたという。 」
我が家の家紋が九里の他家の家紋と違っているのは、隠れキリシタンであったからなのかもしれない。
そう思うと、原胤信、前野長康、近い関係にもキリシタンの信者がいたように思えてきた。
乾正行の系の乾氏は我が家の同じ榧之内十文字である。が、この人がキリシタンかどうかは、情報がまだない。
今まで気が付かなかった「榧」の秘密。
その中の十文字、気になってきた。
日本のキリシタン一覧に載っていない方なのだが「宇喜多休閑」もまた、三人の息子と共にキリシタンであったそうだ。
フーベル師の挙げる【Lettera di Antonio Sanga al Provincuale S.J.,Nagasachi 1622】にその名がジョバンニ・ウキデ・キューカンとあり、一体どなたのことなのかがわからなかったのだが、下記のアドレスの記事を読んで、これは宇喜多休閑のことであろうと推測した。
Lettera di …の記事によると
「ジローラモアンジェリス師とジョバンニ・マテオ・アダミ師は越後及びその北方に在りほとんど日本の外にある佐渡を二回訪れ、それと地方で福音の大きな扉を開き、旧霊につき偉大な収穫をあげた。アンジェリス師は亦日本の外にある蝦夷国の都市松前を訪れ、多数の者に洗礼を授け、信徒に敬虔を教えた。この旅行で師は信仰のため流された津軽国の信徒を慰問した。ジャコモ・カルヴァリオ師は宣教のために同地方へ赴き、7日間の旅行中にウキデ・オーサなる貴族信者で死の床にあるものの告解を聴いた。この人は基督のために追放され、先年困苦の中に同地で没したウキデ・キュウカンの息である。」
https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/christian/christian3.html
?-1620ごろ 織豊-江戸時代前期の武将。
宇喜多家の重臣。宇喜多秀家の一族で,外国の史料では秀家の従兄弟(いとこ)。法華信者からキリシタンとなる。関ケ原の戦いで秀家と西軍に属したため浪人。高山右近の世話で加賀(石川県)前田家につかえる。慶長19年陸奥(むつ)津軽(青森県)に流され,元和(げんな)6年ごろ没した。洗礼名はトマス(一説にジョアン)。
【隠れキリシタン寺、本行寺】で調べるとまだまだ出てくるようだ。
七尾にあるそうで、この七尾もどこか記憶にある。
あの「苦能離」と書いて「くのり」と読ませていた所ではなかっただろうか?
https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/nazo/nazo01.html
1619年 エリウド・ニコライ エゾールムの記述 「西印度及び東印度における新しき実話並に北方諸國頣地誌」(バイエルン國民図書館蔵)
(1)日本の北方に蝦夷即ちアイノモソティなる一大島がある。
(2)蝦夷の東方にはアイノモソティ諸島がある。
(3)蝦夷北方には東西に大陸が横たわり、この大陸で蝦夷の北方に当たる地方をレブンクル国と云う。
この大陸は東方に広がり、北アメリカと陸続きで…西方ではそのまま伸びてアジア大陸と成る。すなわちレブンクルは東に延びてテンヅク、 キヴィラの諸国と接壌し、遂にフランシス・ドレークが1579年の第二次探検旅行で到達しえた北米太平洋岸の最北地点へと到達しうる。‥‥
エリウド・ニコライは、他の本によるとドイツ人である。
「北方渡来」には、元和五年(一六一九)、エリウド・ニコライがミュンヘンで出版した本に「日本の北方に、日本人は蝦夷と呼び、土人はアイノモショチと呼ぶ大きい島があるが、地図に書きもらされている」とあった。
===*===
上記の記述は1619年なので、デ・アンジェリスもすでに蝦夷に渡った後となる時期なので、シチリア島で見たという地図とは関係がない。
彼がシチリアにいたのは、「1598年、ポルトガルのリスボンに到着し、リスボンで神父となった。」とあり、それ以前はパレルモにいたのではないかと思う。とすれば、1598年以前の地図を見た可能性もある。
とすれば、やはりモノクロのこの地図になるだろうと思う。ポルトガルの宇宙学者と言われているIgnacio Moreiraの地図であった可能性が大きいと思う。
===*===
右上に微笑ましくも、まあるい蝦夷が書かれている。
よく見ると、実によくできている地図と思う。
オセアニア周辺も形は違えど、私から見るとあっぱれ!と思う。
これが大航海時代の産物なのだと。
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デ・アンジェリスとカルヴァリオ(一緒に伝道していた人物)との足跡をまとめた箇所があった。
彼等の観察による、和人がまだ奥深く入る以前の蝦夷地、蝦夷の人々の様子、あるいは金の採掘(砂金ではなく小さな塊)その採掘のために人々が渡航するようになったこと、その金堀と称し切支丹信徒や宣教師も容易に蝦夷に入ることができるようになっていた事、其の現場の一つが千軒岳付近であった事。
また、松前殿の甥と同船したこともあると書かれている。
一緒にいたカルヴァリオも詳細な報告がある様であるが、内容はこの本に時折出てくる程度しか書かれていない。
此のカルヴァリオは1624年に仙台で殉教している。
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一部の人(商人等の海外との交易をしていた人々)を除いて、日本国内の内乱で精一杯の状態であった時に、ヨーロッパでは世界に目が向かれ、地図もどんどん進化し、海外に人を派遣し宗教と文化をもたらし、各国・各地の状態を把握し報告書を着々と送っていた。
後に徳川幕府が禁教としたことも、あまりに広がり、力を持ち、危機を感じたからに他ならない。
それほど、人の心の中にまでもはいりこんでいたのだと思う。
下記のwikipedia「日本のキリシタン」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7