皆様、地震、御無事でしたでしょうか?
かなり大きかったようで…心配しています。
心よりお見舞い申し上げます。
震源地から遠い地域の皆様においても、再び地震の対策見直しを!
我が家も先日避難用のリュックを見直しました。
完璧ではなくとも、何かの折に役に立つかも…を入れて置くと少し安心できます。
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再びアンジェリス周辺の続きです。
2018年に私はジローラモ・デ・アンジェリスを調べていたのだが、其の時の本のコピーが書庫から発掘されたので、それを見ていこと思う。
コピー代を節約して其の時に関係がありそうな部分だけしか複写しなかったので、今思うとコレハ失敗であった。
今はコロナ禍で大学図書館に一般人はお断りの状態なので、、、全部を揃えることは先になりそうである。
蝦夷地との接点という観点から、チョイスしてみようと思う。【デ・アンジェリスの蝦夷國報告書に就いて】より 抜粋・改変
慶長十九年(1614年)家康の時代、切支丹禁制の布告が発布されて、外人宣教師は国外へ追放せらるることとなり、デ・アンジェリスも長崎ㇸ追われたが、国外放逐を免れて、その付近にかくれていた。
其の布告と共に捕らえられてm津軽へ流された国内の信徒七十二名が、その翌年(1615年)に凶作と飢饉のために極度に窮乏しているので、救済の手紙を長崎の信徒に出し、元和二年(1616年)の春、デ・アンジェリスはこれを長崎において受け取り直ちに救済の品を集めて、船に積んで津軽に赴き彼らを慰問した。そしてこれが動機となって彼の奥州および蝦夷地への伝道が始まったのである。
その年、彼は蝦夷地松前に渡るのだが、パジェスという人の記述では「1616年頃、蝦夷で豊産の金山が発見された。多くの坑夫がその地に渡ったが、その中に若干はキリシタンであった」と記されている。
デ・アンジェリスもおそらくはそれらの坑夫に混じって蝦夷に渡ったと思われる。
1616年が初の蝦夷地渡航
1618年二度目の渡航
1621年9月三度目の渡航
1622年四度目の渡航 だったが、間もなく江戸に赴き、江戸の切支丹信徒50名と共に火あぶりと成る。
彼は56歳であったそうだ。
1602年に日本に渡ってから二十年間も日本に滞在していたことになる。
この本によると1622年急に江戸に行かなければならなくなり、身辺に何か危険が起こるかもしれないと予感した為、その前に書き上げてしまおうと決心したのではないか、とある。
もしもそうならば、今までのエッセンスが蝦夷地報告書にあったのだ。
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次回は、
もう一冊【蝦夷に関する耶蘇会士の報告】より 抜粋・改変して 書き留めようと思う。