九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

佐竹氏の家臣 片岡氏

2020-07-05 | 片岡氏

片岡経春(常春)海上氏の経春、佐竹氏の婿

つながるか?千葉氏流前沢氏 
前沢讃岐守 片岡名代 …片岡氏の代わりに???

つながるか?佐竹家臣の片岡氏
片岡政守
片岡政胤




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片岡氏の祖は「壬生氏」かも知れないという … 追記あり!

2020-06-10 | 片岡氏

永田氏を探しているのだが、ちょっと寄り道。片岡氏

http://www.myouji.org/kataoka.htm

*戦国時代以前の片岡氏には 諸説あり、壬生氏(皇子 御養育に仕え奉る人々、或いは その封民である
     壬生部の後裔)等の可能性あり。

と、あり調べてみると横田頼業の曾孫から「片岡氏」がいるという情報があった。wikipedia
壬生朝業(みぶ ともなり)は、鎌倉時代の御家人。壬生氏の祖とされる。

横田頼業の曾孫にあたる。下野国都賀郡壬生郷を支配し、壬生氏を創始したとされる。

壬生氏の一族は横田氏同様「業」を世襲していたが、戦国時代に入ると朝業の末裔とされる壬生胤業は惣領の下野宇都宮氏に臣従し、胤業の子以降は宇都宮氏当主から「」を拝領し、以降通字として世襲した。

===*===

宇都宮頼綱の息が「横田頼業」(1195年ー1277年)であり、佐々木氏とも近く、九里氏とも近いと思う。

追記;平貞能の母は宇都宮氏であった。その貞能娘の夫に佐々木盛綱がいて、盛季を産んでいる。
佐々木盛季は、平貞能の孫であり、宇都宮氏の曾孫となるのではないだろうか。

不思議だが、この片岡氏も「浪合記」の伝承と関係があり、長田氏も浪合記に出てくる大橋氏と接点を持っている。(長田平右衛門尉重元の妻が大橋修理太夫の娘。)

===*===
話を戻すと、

横田頼業の曾孫が壬生氏となり、且つ片岡氏となっていったかもしれない。
として、それ以前の片岡氏は大中臣氏の範疇であったのでは?と思うのだが、どのように調べていくといいのだろう。。。

宇都宮氏に近いところ。小槻氏は、中原氏や清原氏、そして大中臣氏のように明法道や出納などに強く、立場は同じで「地下家」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A7%BB%E6%B0%8F

壬生町に鎮座する雄琴神社は、胤業が小槻氏の氏神である近江国雄琴の雄琴神社より勧請して合祀し、同名に改めたものとされる。 …とwikipediaにもある様に、近江国とは縁の深い小槻氏!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A7%BB%E6%B0%8F

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A7%BB%E5%B1%B1%E5%90%9B

なるほど、この小槻氏ならば、ありそうである。
中原師重の娘も嫁いでいる小槻氏である。



武家家伝片岡氏の中の「○○-経光-盛保-経季」は中原氏とも思える。若しくは小槻氏と中原氏が重なっていたかもしれない。

===*===

この土佐国に渡った片岡直綱の系は後に山内氏の配下となるあたりも、乾氏ともご縁ができることも、佐々木氏の直綱っぽいので、佐々木氏の系図に入ったのかもしれないし、直綱が二人いたのかもしれない。

また、謎のまま、この件は終わることになる。

===*===
memo
九里の私の系に頂いていた手紙(通称 別紙)に旦那は壬生に居り…とあったので、「壬生」という言葉もキーワードとして残しておかなくちゃいけない。

http://www.myouji.org/MFDocuments2/kataoka.htm
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ふと見ると、永井宮内大輔大江時千の娘 がいた。 佐々木六角氏頼の母である。

2020-06-08 | 片岡氏

PCの画面上にある、どこのファイルに入れるのかを迷った資料を見ていると、
永井宮内大輔大江時千の娘が母親として記載があった。 佐々木六角氏頼の母と云う。


氏頼のとなりに弟の直綱がいて、称片岡 となっている。上野国というからには、片岡弘経の片岡郷と同じ場所と思われる。
何故この直綱が片岡氏を称することとなるのだろうか。
義経の郎党となっていたあの片岡氏とどこかでつながっていたのだろうか。

土佐国の高岡郡黒岩郷も「片岡村」としたことが記載されている。

六角氏頼についていたのが「九里助泰」である。石寺にいて、九里掃部助助泰となる。



片岡…不思議である。

佐々木定綱の娘の註にも書かれていた。
さらにココ。

ともかく、佐々木氏と関係がある氏族であることは分かった!

後に、多賀氏からも出ているし、片岡善左衛門が近江にいた事も分かっている。
また、「満済准后日記 下」に片岡右京亮の名がみえる。



意外と、片岡氏と永井氏は佐々木氏を通してつながっているのかもしれない。
佐々木直綱が片岡を名乗っているのだから。もしかすると母親が氏頼と同じかもしれない。



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志都美神社 と 刺田比古神社

2020-05-27 | 片岡氏


片岡家と関係のある 志都美神社
http://www.y-tohara.com/nara-situmi.html

当社を創健したという片岡綱利(綱俊とも)の生没年・経歴等は不明だが、拝殿脇の案内(上記案内とは別)には「大職冠藤原鎌足六世の孫」とあり、奈良県史所載の藤原家系図に、
  鎌足(大職冠)--不比等--武智麻呂(南家)--豊成--綱継(縄麿とも)--綱利 ・・・→片岡家
とある藤原南家に連なる人物で、父・綱継以降当地一帯を所領して片岡を名のり、その子・綱利が所領地の鎮守(片岡家の氏神)として創建したのが当社であろう。

なんとここでも藤原南家につながっていた。

「◎虎列拉(コレラ)祈念碑
 拝殿横の案内に
 「明治12年(1879)8月コレラが流行適行し、氏人が氏神に侵入防止を祈願した結果、ひとりの患者も出なかったのを喜んだ人々が感謝の意味で本殿背後の石垣に、
  『明治十二年八月虎列拉病流行氏人祈願無一人患者無人歓呼奉納』
と刻み奉納した」
とあり、本殿裏にその記念碑があるというが、本殿裏はだいぶ荒れていて気づかなかった。

 因みに、わが国でのコレラ流行は文政5年(1822)・マカオから入ったのが始まりで、明治に入ってのそれは、同10年(1877)9月の横浜での流行にはじまり、予防治療法が一般に知られていなかったことから、コレラ除けのために、神仏の前で護摩を焚いたり、赤紙に牛の字を三つ書いて門口に張ったり、厄神送りなど、コレラの流行は外からやってくる厄神・コレラ神の仕業として、それを神仏の力で押さえつけたり村外に送り出そうとするなどの騒動があったという(明治13年までの患者数16万8千人・死者数10万人という)。
 当地の人々が当社に祈願したというのもその一つで、外からくる疫病神(コレラ神)の侵入阻止を神に祈ったのであろう。」とある。


===*===

やはり片岡と関係のある 刺田比古神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E7%94%B0%E6%AF%94%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE

和歌山県和歌山市片岡町


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高向利春 と 片岡利春

2020-05-19 | 片岡氏


大和北葛城郡史 の 片岡氏の系図に片岡利春が見え、延喜三年卒となっている。



いっぽう、高向利春 は、昨日の記事にもある様に延喜十八年に武蔵国守になっている。

惜しいが、別人であることになった。

===*===

しかし、今まで鹿島神宮付近に「片岡」の地名は見つけられない思っていたのだが、片岡遺跡発掘調査なるものがあったそうで、昔はそのあたりに「片岡」があったことがわかった。
神宮の宮中という地名の中である。
縄文後期からになるのだろうか、人々が営んでいた跡が見えるそうである。

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/28435?all=%E7%89%87%E5%B2%A1%E9%81%BA%E8%B7%A1No.74%E9%81%BA%E8%B7%A1&has_file=x&include_file=include&series=%E9%B9%BF%E5%B6%8B%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1




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佐々木氏族 片岡経俊の記載のある系図(3)

2020-04-25 | 片岡氏

いろいろと探しているうちに、また加藤正方が登場してきた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%AD%A3%E6%96%B9


加藤 正方(かとう まさかた、天正8年(1580年) - 慶安元年9月23日(1648年11月8日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。熊本藩加藤氏の家臣。加藤可重の子。兄に重正。幼名は清六。通称は清左衛門。のち片岡の名字を名乗る。号は風庵。官途は右馬允。妻は秋月種実の娘。

その弟は正云。「加藤右馬九正方の弟にして片岡善兵衛を号す」と八代郡誌にある。

そして、ごさんべえさんのページに系図がある。
佐助の右に「片岡善兵衛跡相続」とある。
同じ片岡氏の系だろうか??
http://gos.but.jp/katokq.htm

もう一つ「源義経の家来片岡八郎経春の子孫と云われ、片岡荘に住み、その後裔民部丞範季は元弘年中足利氏に従って功績を挙げています。」と書かれた片岡家邑久郡南幸田村の記事!
http://gos.but.jp/kataokas.htm

調べてみると、岡山県史に「備前国片岡別宮の民部丞範季」と同じ名が出ていた。
1023年より石清水八幡領である片岡荘が備前国にあり、極楽寺領=元暦2(1185年)片岡別宮あり、と歴博DBにあった。

この備前の片岡荘の「片岡」であったのだろうか?

===*===

様々な片岡氏が出てきているが、もう一度「片岡経春(常春)弘経(為春)」に戻ると、経春の方は裔が備前国の片岡荘へ、弘経の方は上野国片岡郷へ、となるようである。

その弘経の方が、太郎経久に続き、更に「護良親王」と共に闘っていた片岡八郎は系図の中の利一である。



「元弘元年(1331年)10月末(?)大塔宮一行は皆、柿色の法衣に笈を背負い頭巾を被り金剛杖を握り山伏の姿であった。一行の氏名は、赤松則祐・光林房玄尊祐・矢田彦七・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上義光・片岡八郎・平賀三郎の9人であった。

ただ、系図をよく見ると「経久」の息が「太郎大夫利仲」であり、これは、片岡=九里ではないと思う。

片岡利一が十津川で没したこと、楠木氏と共に闘い、後に楠木氏の娘が室となっている事(女紋は橘紋だそう)、和歌山にも九里氏がいる事、野長瀬氏と関係がありそうなこと、護良親王の母がもしかすると日野氏であるため、家司であった九里にも関係しそうなこと、等が重なっただけ、と今は思って、先に進もうと思う。

もう少しで何かはわかりそうなのだが…
片岡桂嫩 様(九里浄椿の法名…景徐周麟が付けてくれた)教えてください!
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佐々木氏族 片岡経俊の記載のある系図(2)

2020-04-24 | 片岡氏

片岡経俊の記載のある系図は「土佐国諸氏系図」なのだが、黒い三角の印は何だろう?
別の続きの系図があるよ?という事だろうか。




間があくのだが、佐々木時信の息に注目!



佐々木時信は妹に太田時連の室となった者がいる。
その息「氏頼」に和歌山の系図の「九里助泰」が仕えている。



その弟直綱が、実は片岡氏となっていた。
始めは上野国、そして土佐国に赴いている。土佐ではこの片岡氏の系は「秦国親の娘」を妻とし、土着したようである。しかも江戸時代に入ってからと思われるが、深尾氏に仕えている。

「高知市秦土佐市八幡中土佐町八幡高知市秦は、秦国親の在所であり、土佐市八幡は秦氏につながる松尾八幡宮の勧請地であり、中土佐町八幡は、長宗我部盛親の三女の嫁入地として知られる。」

確か、中原秋家も一条忠頼に仕え、源頼朝に忠頼が誅された際、土佐に行くことになったはずである。
中原秋家 コトバンク
「?-? 平安後期-鎌倉時代の武士。
幕府御家人。一条忠頼の家臣であったが,元暦(げんりゃく)元年(1184)源頼朝から公文所(くもんじょ)寄人(よりゅうど)に任じられた。建久4年土佐(高知県)宗我部(そがべ)・深淵(ふかぶち)両郷の地頭職(しき)をあたえられる。建仁のころから地頭の一条秋通(忠頼の遺児)を補佐した。姓は大中臣(おおなかとみ)とも。」

この秋家は武家家伝山田氏にも顔を出す。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/t_yamada.html

===*===

上野国と土佐国に赴いた「片岡氏」・そして定綱娘の息の片岡経俊もが佐々木六角流であるはず。
氏信から出ていないのになぜ片岡氏を佐々木京極氏族と名のっていたのであろうか。
多賀氏とつながったからだろうか?

また、経俊が八条実俊の息か養子であろうとして(疑問は感じるが、以仁王の関係でだろうか?)、
経春は義経と共に討死し、為春が逃げのび、その系はどうなったのであろう。
氏頼の弟の直綱とは、別の「片岡氏」ではないのだろうか?

片岡経俊(経利)は、以下の系図につながり、活躍の舞台は大和国となるのではないだろうか?
そして、そこには義経の息「乾氏」南都衆徒がいて、何かしら繋がっていたのではないだろうか?


===*===

結局よくわからないままである。
片岡を称した直綱の系図に「山田五郎左衛門尉」とあり、ますますおかしな感じである。
中原秋家と関係があったのだろうか? 中原も土佐では「山田」を名乗る様になっていく。
複雑だ===!
やっぱり「大中臣」??
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佐々木京極氏族 片岡経俊の記載のある系図

2020-04-23 | 片岡氏

片岡常春  https://ja.unionpedia.org/%E7%89%87%E5%B2%A1%E5%B8%B8%E6%98%A5

片岡 常春(かたおか つねはる、生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。平忠常の子孫である両総平氏一族・海上庄司常幹の子。通称は太郎、もしくは次郎、八郎とも。片岡氏は常陸国鹿島郡片岡を名字の地とするが、本領は下総国三崎(海上)庄であった。.
…とwikiwandにはあった。

もし、佐々木京極氏がこの片岡氏と繋がるとすれば、どこでだろう。
その常春と経利の前から?
元祖とは?



宇多天皇後裔とある。多賀氏ではなく、宇多天皇後裔の佐々木氏の方であったようだ。。。
(下の系図は「土佐国諸氏系図」)


この系図では、片岡経俊(経利)の母は、従二位公(八条実俊の息・藤原公世)の母でもあり、佐々木定綱の娘であることになっている。

八条実俊のwikipediaにも佐々木定綱娘とあり、またさらに二人(実俊と定綱の娘)の娘が中山忠定の室となっている。(中山法華寺の中山ヵ?)
中山忠親の家司は中原祐安であった。(忠定の祖父)

さらに実俊の母親が源資賢であり、有賢と高階為家の娘の二人の息である。
資賢の妻は賀茂保文の娘である。

八条実俊・佐々木定綱の娘夫婦の息に片岡経俊がいたという事なのだろうか。

片岡経俊…賀茂の片岡社の片岡だろうか? 
定綱が宇都宮氏に寄寓していた頃、中原氏とつながったのかもしれない。

「男子は広綱、定重(鏡)、定高(沢田)、信綱、広定(馬淵)、時綱(佐保)、行綱(伊佐)、頼定(山中)、僧定厳、僧定賀がいた。また女子には、西園寺公経の弟公暁室(北野別当公澄権僧都母)、春華門院大進(閑院流八条実俊室)、沙々貴神社神主平井定景室がいた。」

「白河院の養子である後三条源氏の左大臣源有仁佐々木庄領家 であり、また清和源氏の源為義が同庄預所であった。」と佐々木哲学校にもある。
http://blog.sasakitoru.com/



参考として 
三条公教ー滋野井実国ー藤原公清ー八条実俊 となり、三条公教の妻が源有仁家女房となっている。

 九里彦八郎秀重が唐崎合戦討死しているのだが、この定綱と比叡山の争いの時のことかもしれない。




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片岡経春 と 片岡為春 そして 佐味?

2020-04-23 | 片岡氏


江州中原氏と片岡氏が繋がり、長野・多賀・冨城・九里・・・・と分かれてきたのだろうか。

片岡経春・為春の父「経利」(つねとし)が頼朝義経に従って、文治元年(1185年)讃岐で亡くなっている。

この七代の裔に「柏原新三郎昌高」がいて、註に「母は楠木氏 母と共に河内国志紀郡にいる柏原の祖なり」とある。

下のHP に「片岡為春(弘経)」に関しての記事があった。 面白い!

http://katagataryu.web.fc2.com/yoshitune/siteki_hatirou.html


この情報からすると「上野国片岡郡」が為春の本拠地である。
この片岡郡を調べると後の「多胡郡」であり、聞いたことのある「片岡郡・緑野郡・甘楽郡」が前の郡名であった。
さて、緑野郡、鏡と佐味というキーワードに凝っていた時に出てきた。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%B7%91%E9%87%8E%E9%83%A1

近江国伊香郡余呉にも片岡があり、周辺に佐味神社がいくつかある。
この上野国片岡郡付近の緑野郡にも佐味神社。

しかも昨日の才の神(岐の神)=クナド神にも関係があるのではないだろうか。

江州中原氏は、文官でありながら、祭祀も執り行っていたと思う。(武官もいるが…)
その関係で神社の神官・宮司関係も居たと思われる。

現に幕府によばれても、祭祀で忙しいため…と断っている中原氏も何度か見かけた。
さらに「多賀大社」にはいつの時代からか「坊官」(熊野神社の御師的存在のような人)もいて、各地を渡り歩いていたはずである。

ある時には薬を売り、ある時は「参詣漫陀羅」を持ち、神徳を説き、ある時は様々な情報を得るという事もあったのではないだろうか?
布教活動と共に各地を回り、情報を得、それらを持ち帰ることで神社が権力とも繋がる…そのような構図も見えてくるように思える。

===*===

それらは想像…として、この片岡為春の本拠が上野国片岡で、兄の常春(経春)が大和国の片岡だったのであろうか?

やはり、派遣されていたとしか思えない。

さらに気になる点は、大和国の十津川との関係。(和歌山の系図をお持ちだったのは十津川の方!)
楠木氏との関係。こことつながると、橘紋になる。(和歌山の系図の裔と思われる方は折敷の中に橘紋

===*===

其の片岡氏が多賀氏につながっている。
多賀の妻が片岡氏の女性であったこと、養子縁組、ぐらいしか思いつかないが、なにかがココにあるのではないだろうか?

多賀城も実は国府機能があったことも、江州中原氏が居たかもしれない可能性がある。
また、佐々木秀義が、はじめは奥州を目指していたこと(叔母がいたとか?)、しかし渋谷氏に勧められ、結局は東国で落ち着くのだが、多賀氏は一族の誰かがいる奥州多賀城まで行ったのかもしれない。

その後私の見ている系図では「片岡為春」は、鹿嶋 行方に落ち着くのであるが、その鹿嶋神宮と片岡も縁がある様で、大和国の片岡神社も(『大和国葛下郡 片岡坐神社』)今は、連絡先が奈良県の鹿嶋神社 社務所 となっている。

このつながりは何なのか。


http://kasimajinjya.web.fc2.com/kataoka.html

常陸国
鹿島神宮には、古来、2つの重要な神職があった。大宮司と大禰宜である。これらについては、もと「宮司」「禰宜」として奈良時代から平安時代にかけての時期に、朝廷からの任命になっている。宮司は、大安3年(859)2月16日の太政官符(『類聚三代格』)に、天平勝宝年中(749~757)「元宮司従五位下中臣鹿島連大宗」とあるのが初見である。大宗以降は、左大臣大中臣清麿の子清持とその子孫が宮司に任命されている。中でも、長保4年(1002)12月と寛弘4年(1007)5月に宮司に任せられている大中臣公利(『類聚符宣抄』)の後裔は鹿島郡片岡に住して片岡を称したと社伝では語られている。鹿島門徒の祖の順信の俗姓は片岡であったと伝えられていることとからんで、注目しておきたい。

↑の記事は「親鸞」の弟子である片岡に関してのものである。


多賀氏も多賀大社の他に、鹿島神宮の大宮司・大禰宜を任せられる「大中臣」であった可能性もあるのではないだろうか?
そして系図では、大中臣と中原・清原は重なっている部分もある。

さらに現在の多賀大社の宮司さんにも「片岡氏」がいらっしゃるようである。

===*===

九里の周辺は謎だらけ。

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片岡氏系図 片岡氏から多賀氏へ そしてまた片岡氏へ

2020-04-22 | 片岡氏

この系図の説は、どうなのだろう。
奥州の多賀城(域?)主からはじまり、常陸国鹿島行方に住し、義経に付き従って奥州高館衣川で討死。
1469年文明元年に蒲生郡下郡嶋向の「伊庭六郎」の跡地領地をもらい受けてる。

以前載せた系図を見て欲しい。中ほどにある「片岡氏 家系」の部分を!
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/1a8c8dc3a2aae55c1c60febb937713c6

まず、佐々木京極氏と書いてるのに、奥州宮城郡多賀城主の末裔とあること。??
京極豊後守高忠は佐々木京極高数の息と言われているので、その点にも触れられておらず…??

しかし、系図は何かを残したく思って書いていると思う。
それは、もしかすると、片岡氏と多賀氏は昔から繋がっているのだ!という事なのではないだろうか。
この片岡氏は私もずっと気になっている片岡氏なので、是非解明したく思う。

大中臣の鹿島神宮の片岡なのか、伊香郡余呉の片岡なのか、大和国にある片岡、紀伊国名草郡片岡なのか、、、、近江国草津の片岡…

多賀高忠は佐々木京極の出だが、妻は多賀高直の娘だそうである。

さらに、本阿弥光悦のwikipediaには、
「京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。父光二は、元々多賀高忠の次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心(侍所の開闔や政所の執事代を勤めた松田氏一族から娘婿として迎えた六代当主本光の子息で本阿弥七代当主)[1]の娘(妙秀)婿養子となったが、後に光心に実子(八代当主光刹)が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われる。」とある様に、

高忠の息は「片岡次大夫」と名のっていた。

===*===

土佐藩郷士 片岡家も関係があるとすると、前野氏・乾氏・山内氏も出てくることになる。

===*===

多賀城
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった

奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊[7]および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波[8]被災[9]まで、第4期は869年 - 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる[10]。なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』中の貞観津波が「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の日本三代実録では「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほか、「府」あるいは「多賀国府」と記載されている[11]。

多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ[12]、政庁や食料を貯蔵するための倉などが置かれ、附属寺院が設けられていた。霊亀2年(716)には、移民によって黒川以北十郡(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)が成立し、神亀元年(724)には陸奥国府は仙台郡山遺跡から多賀城に移された。北方の備えとして石巻平野から大崎平野にかけては天平五柵(牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵・不明の1柵/中山柵か[13]が設置され、これらは石背国・石城国・陸奥国に三分された陸奥国を養老4年(720)ふたたび統合し、新国府として多賀城を建設し、弱体化した陸奥国の支配強化を図った[14]。これにより、奈良時代の日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。

多賀城跡とその周辺の調査が1961年から開始され[15]、外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860mの築地塀や柵木列がめぐる政庁域が確認された。その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの築地塀で囲まれた区域があり、主要な建物の跡と見られる礎石や柱穴が多数確認され、正殿と考えられた[16]。政庁の南東方向に「多賀城廃寺」(位置)(旧称「高崎廃寺」、城下の山王遺跡の発掘調査では「観音寺」の墨書土器が出土している)、政庁正殿の北側には延喜式内社の多賀神社(六月坂)がある。

多賀城政庁東門跡(位置)に隣接して陸奥国百社を祀る陸奥総社宮がある。陸奥国一宮鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する[17]。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市が築かれ、砂押川の水上交通と東山道の陸上交通が交差する土地として繁栄した。

1966年4月11日、遺跡は国の特別史跡に指定された[18]。その後も発掘調査が進展した結果、多賀城跡一帯とともに多賀城廃寺跡、館前遺跡(位置)、柏木遺跡(位置)、山王遺跡(位置)などを含む範囲の追加指定がなされている[19]。
歴史
神亀元年(724)- 大野東人によって創建される(多賀城碑)。
天平9年(737)- 『続日本紀』に北方を固める「天平五柵」とともに「多賀柵」として初出。天平五柵とは、石巻平野から大崎平野にかけて造営された牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵の四柵と不明の一柵である。伊東信雄は「古代史」『宮城県史』第1巻(1957)で不明の一柵に小田郡中山柵[20]を充てた。
天平宝字6年 (762)- 藤原朝狩によって大規模に修造される(多賀城碑)。
宝亀11年(780)- 伊治呰麻呂の乱で焼失した後に、再建された事が書かれている。
延暦21年(802) - 坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
貞観11年 (869)- 陸奥国で巨大地震(貞観地震)が起こり、地震被害とともに城下は津波によって被災し、溺死者を千人ばかり出している(『日本三代実録』)。この後、「多賀国府」として復興した[21]。
11世紀前半頃までかろうじて維持された国府政庁は、11世紀後半には政庁隣接地に平場を設け、政庁に代わる宴会儀礼の場が整備され、国府中枢としての機能は大きく変質した[22]。
11世紀後半の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、承徳元年(1097)にも陸奥国府が焼失している。
養和元年(1181)には陸奥国府および「高用名」(国府用に由来。南宮荘・岩切村・村岡村ほか)を拠点とする勢力は平泉の藤原秀郷を陸奥守として迎え入れ、八幡館(末の松山)および開発低湿地(八幡荘・中野郷・萩薗郷・蒲生郷を私領化。多くは津波被災地)に拠点を置く陸奥介らの勢力とに袂別した。多賀国府の勢力は文治5年(1189)奥州合戦および大河兼任の乱で没落していったが、八幡館を拠点とする陸奥介は鎌倉幕府から地頭職を得て、鎌倉に屋地を得るまでになっている[23]。八幡荘は鎌倉将軍家を本所とする関東御領として存続した可能性が強い[24]。

多賀神社(多賀城市)
近江国の多賀大社から勧請している。延暦15年(796年)に朝廷より従五位下の神階を受けた。その後、多賀城の衰退と共に神社も衰退し、所在不明となり、陸奥国一之宮の鹽竈神社では、延享2年(1745年)の『鹽竈社記』において、現在の多賀城廃寺の塔跡がある「塔の越原」の礎石跡を往古の大社「多賀神社」の跡地と推定していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%9F%8E%E5%B8%82)

久那土神 岐の神  疫病にも関係があるそうである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E3%81%AE%E7%A5%9E

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多賀城が国府の機能も有していたことは、中原氏と大きく関わる。
なぜならば、在庁官人や出納であった江州中原氏(冨城氏)が因幡国に派遣されていたように、この陸奥国にも派遣されていたとも考えられるからだ。
押領使であった江州中原氏もいる。

大宰府にも赴き、陸奥にも赴いていたのだろうか。

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多賀氏と片岡氏、そして佐々木京極氏。さらに本阿弥氏。

河端氏と片岡氏が九里氏の裔だという説もある。


コメント (3)
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