九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

清少納言の祖母は、近江国御家人井口中原系図の中にいた人物の娘であった。

2022-12-08 | 中原氏バラバラ情報

ひょんなことから「清少納言の父 清原元輔」の母親に目がいった。

【高向利生】の娘であるそうだ。

高向には記憶があったので、近江国御家人井口中原系図に当たってみると【高向利男】とある。

 

つまり、清原元輔の従兄弟がこの中原長谷であったことになるか。

 

今まで高向利男には出会えなかったので、嬉しい情報であった。 高向利生で調べてみよう!

同一人物と仮定して進めていこう。「となり」と読んでいるようだが、「としお」なら両方に当てはまると思うのだ。

 

 

 

清少納言は清原氏の実父と橘氏の夫なので、何処かで久利氏と中原氏と繋がっているかもしれない。

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中原友景 コトバンクより 大中臣友景・大中臣光氏・二人の父(?)大中臣景康(景安)

2022-08-05 | 中原氏バラバラ情報

【中原友景】コトバンクより

鎌倉時代中期の官人。建保5(1217)年に修明門院下北面(院に仕える),嘉禄2(1226)年に使宣旨を受け,その後10年ほどにわたって検非違使として活動の所見がある。西園寺実氏の後見といわれており,武家との申次 をつとめるなど,同家において重要な立場にあったらしい。後嵯峨院の下でも,下北面の所司・御厩案主に任じられている。西園寺家の興隆を下から支えた人物のひとりといえよう。

(本郷恵子)

 

中原友景は途中から大中臣になったのか、はたまた二人いたのか…

下記を見ると二人いたと思われるのだ。

因みに友景の父景康、そして友景の兄弟の光氏も大中臣姓となっている。

なので、有安の養子は大中臣家に入ったと考えられるのではないだろうか?(多氏に入ったとイコールなのかもしれない

一時期で、また中原姓に戻っている可能性もある。

 

 

 

多氏と大中臣氏の関係はどうなっているのだろうか?

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hitatinaka.htm

 大和の意富(多臣の本拠で、現田原本町多)は三輪山型蛇神伝説の発祥地・三輪山の真西に位置しますが、常陸では逆に朝房山の真西に意富と大井神社があります。大井神社(=鹿島明神)の祭神には、「建借馬命、木花開耶姫命」があげられます。多臣氏は、神武天皇の皇子神八井耳命の後裔と称しましたが、実際には竜蛇神信仰をもつ和邇氏族の出であったことに留意したいものです。「那賀」は長で、蛇の意味の「ナーガ」に通じますし、「那珂」だと和邇氏族の起源地・筑前国那珂郡にも通じます。この辺りの事情は、宝賀会長の論考「猿女君の意義-稗田阿禮の周辺-」(『東アジアの古代文化』106~108号、とくに107号所収部分)に記述されています。

 

田原本町は鏡に関する神社も3つはあり、ずっと気にかかっている場所である。

上記によると「大井神社」が「鹿島明神」とイコールになっている。

 

 

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中原景安 (2) 左近将監に任ぜられ、大中臣景康という記述もあるが…?

2022-08-02 | 中原氏バラバラ情報

中原有安の養子と云われている【中原景安】は多氏の養子となり楽統を継いだ。

 

下記のアドレスの論文に 中原景康かと思われる人物が【大中臣景康】として、またその息と思われる【友景】が【大中臣友景】として記載があることがわかった。さらに光氏も【大中臣光氏】が東大寺文書に見える散在田地・畠地・家地など一覧の中にいる。

 

一体どういうことなのか、探ってみることにする。

 

1196年 右近将監 大中臣景康 伊勢神宮遷宮用塗料を進納するも病のため不仕たるにより季遠に功を譲るにより右近将監に任ず。『大間』第七「所々奏」

 

1226年 中原景康 関東に下向し、鎌倉一者となる。後、左近将監に任ず。『楽所』

1231年 大中臣友景 在:春除目において右近将監より左近将監に転任する。『民経』寛喜 3 ・ 2 ・ 5 )

 

近衛府下級官人補任稿 ―将監― 西山史郎 著 

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0048/DB00480R199.pdf

 

ところが、良く調べてみると同時期に名前が同じ人物がいたとも考えられる

 

 

つまり、可能性としては一人は大中臣友景となり、一人はそのまま京の防鴨河判官として活躍していた、とも読める。

文書の判別は難しいが、盗賊を捕まえたのも中原友景のほうで、楽士のほうの友景ではなかった可能性がある。

 

【大中臣景康】が元は中原景康で、多氏に養子に入ったことで大中臣になったのではなかろうか?と思っている。

 

(此処は慎重に深堀する必要がある。)

 

 

久経の情報 ↓

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/16203/p123.pdf

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中原景安

2022-07-31 | 中原氏バラバラ情報

景安はもと厳島の神官の一族であったが、中原有安がその才能を愛でて養子にした者という。

もと吉備津宮の神官のこにて侍けるを・・・という説もある。

 

中原景安らの興味深い逸話があり、中にも鴨長明の秘曲づくしの話は最も有名である。

(文机談は景安が書いたのだろうか?)

http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-1248.html

 

以前にもご紹介したが、鎌倉時代の音楽に関する論文

中世都市鎌倉と地下楽家中原氏  中原有安・景安・光氏の系譜と活動を中心に  渡邊浩貴 著

https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr046_2019_watanabe.pdf

 

景安は、多久忠に養子に入り楽統を継承した。

ここに、「多氏」が出てくるのだが、この多氏は鹿島神宮とも関係があり、更に片岡氏とも繋がってくる氏族と思われる。

 

多氏はもともと大野東人以前に蝦夷討伐の為に東上している。

 

伊賀國目代中原久安 

 

1292年正応五年

景康に戻ると以下のように大江久康に神楽の歌曲を伝授しているようである。

 

三善長衡(コトバンクより)

 

没年:寛元2.3.25(1244.5.3)
生年:仁安3(1168)
鎌倉時代の文士。西園寺公経の家司としてその興隆を築いた。父の算博士行衡の跡を受けて算道の長者となるとともに,公経の家司となって承久の乱(1221)では後鳥羽上皇の挙兵を幕府にいちはやく知らせ,また幕府軍の上洛を迎えた。その後は公経の「専一無双の者」と称されて主税頭や陸奥守となり,幕府,朝廷にもその活動はおよび,さらに日宋貿易をも手掛けて富は「陶朱の類」とうたわれた。出家して法名は理繆。長衡以後,三善氏は代々関東申次となって富と権勢を誇った西園寺家に仕えることになる。<参考文献>竜粛『鎌倉時代』,五味文彦『武士と文士の中世史』

(五味文彦)

 

バラバラな情報で恐縮だったが、ココに留めておきたい。

この楽家とのつながりが「琵琶」とつながり、熊野本宮の近くに「大智庵」を守っていくことにつながったのかもしれない。

 

 

 

 

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中原友景は石見前司であり、中原成行の裔であった、と思う。 そして有安との関係!

2022-07-31 | 中原氏バラバラ情報

【中原友景】

7月20日の当記事の北面の武士に名を連ねていた「石見前司 中原友景」のことである。

この人物は近江国の中原氏の中でもとびきり文書が残っている。東京大学史料編纂所内に115件も。

 

もしかすると同姓同名が何名かいたかもしれない。(藤友景になっている嘉禄の友景は別人と思う。)

 

この友景は、石見と中原を繋いでいる。

また、三善と中原を繋げている。

近江国御家人井口中原系図の中の中原成行の裔と思われるため、近江とのつながりもある。

 

景康ー友景ー範景ー景則 と思う。

 

友景の父景康

景康の息光氏

という事は友景の兄弟に【中原光氏】がいた。あの、光氏、狛光氏ともいわれている人物!

以前調べたので、当ブログ内にも多々情報が残っているはずである。

 

さらに、重要なのは中原有安の養子に景康(景安)とあるので、この友景と光氏の父のことではないかと思う。

そこで、中原有安は元は清原氏

石見国と繋がってる。

 

つまり、成行の方の系に三善・大江・さらに清原の婚姻・養子縁組関係がある。

これは、九里と同じである。

九里の祖は中原久経と思っているのだが、経行の方ではなく、成行の方に近いのではないだろうか?

しかも、藤堂氏とも同じ繋がり、更に浅小井と思われる「朝越城主」

 

成行の系の中に久利がいた事にもなりそうである。

 

中原成行(愛智郡大領)ー隆行(肥後守)ー依景(菅)-吉景(藤堂)-景基(藤堂)ー景真(菅)-景康(藤堂)-友景(後嵯峨院 北面)-宗景(後伏見院 北面)ー景氏(石見守)-政景(後田融院 北面)ー景盛(藤堂太郎)-景勝(右京亮)-景安(右京亮)-景良(将監 朝越城主)

 

なぜ、成行の系に石見国が入ったのか、しかも景康の後に国司になっていることを考えても、中原有安の系(兄は頼業・父は祐隆!)とつながりがあったからではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

繋がった。

清原定隆が石見守であった。(1072年卒)

そこから、中原友景につながるまでには長い期間があり、どうなっていたのかは調べなくてはいけないが、

ともかく清原から中原に養子に入った【有安】

有安に養子に入った近江国の【中原景康(景安)】

其の景康の息【中原友景】が北面の武士であり、石見守であった時代もあった。

このように解釈できるのではないだろうか?

 

近江国御家人井口中原成行の系図と清原・中原有安とつながり、さらに有安を遡ると石見国の国司につながり、

そこには久利郷があり、清原氏が久利と称するようになった。

 

久利を考える際に、菅原氏との関係を見てみると、

久利は菅原氏と古くに縁組があった。菅原善主の系である。

 

菅原善主の裔に養子に入った【久利民部真利】の年代は、菅原善主の100年後あたりと考えられる。

善主は852年に歿している、遅くに養子に入ったはずなのでアバウトなのだが、952年あたりには存在していた人物と考える。

この菅原氏に入った久利氏が石見国に入り、後に清原と同化していったのかもしれない。

 

一つ進んだように思える良い一日であった!

 

貴 人 と 楽 人  - 中原有安 略伝-
          石 百合子 著

https://www.jstage.jst.go.jp/article/toyoongakukenkyu1936/1989/53/1989_53_43/_pdf

 

問題
- 成立時期・編者・編纂態度-

          森 治 著

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/26181/20141016153542329446/kokubungakukou_140_1.pdf

 

 

清原氏(広澄流)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F_%28%E5%BA%83%E6%BE%84%E6%B5%81%29

 

 

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後嵯峨院  〈寛元四年正月廿八日御譲位、同二月廿一日北面始〉memo

2022-07-20 | 中原氏バラバラ情報

後嵯峨院  〈寛元四年正月廿八日御譲位、同二月廿一日北面始〉 1246年

〈院司右少弁顕雅、所司前石見守友景〉
  前石見守中原友景〈所司〉          前備中守中原行範〈一条殿侍〉
  左大史夫中原定季              左大夫尉惟宗盛長〈近衛殿侍〉
       藤原重澄
 左衛門少尉「信久子」(朱書、以下同)藤原信継    「同」藤信茂
  (康清子)中光清                 「康重子」源康廣〈宝治二二廿、内北面〉
       藤為継                  藤基景
      「信廣子」藤信時             「同」藤信連
       平光種〈寶二五九、内北面御幸等聴之〉   藤忠景
       紀久廣                  藤盛康
       紀清兼                 「友景子」中範景〈西園寺家侍〉
 右衛門尉中原弘季
     已上廿人
文永六年以歴名注之
   正四位上
 祐俊縣主〈鴨〉
   正四位下
 祝部成賢宿祢〈日吉祢宜〉
   従四位上
 弘継縣主〈鴨、宝治二一九参〉          祐國縣主〈賀茂氏人〉
   従四位下
 康家〈賀茂〉                 「同」能直
   正五位上
「源」盛季〈所司、大夫尉隼人正〉        「紀」宗信〈隼人正、出羽守〉
「中」行實〈大夫尉、四品、美作守、一条殿侍〉  「同」章澄〈大判事、明法博士〉
「同」明盛〈大判事、明法博士〉
   従五位上
「惟宗」行澄〈大夫尉、行種子、對馬守、□□殿侍〉 「源康遠」〈大夫尉、康遠「業」子、壱岐守〉
 光清〈廷尉〉                  佐継〈斎藤以継子、上野守「介」〉
 基兼〈大夫尉、筑後守〉             康定〈権中納言資宣侍〉
 宗長〈馬権助、豊前守〉             信友〈大夫尉、能登守〉
   従五位下
 延平                      重春
 経村                      有家〈大夫尉、肥前守〉
 親佐                     「藤」宗村〈大夫尉〈宗継子、近衛殿侍〉、豊前守、大将實有侍〉
「惟」範経〈大夫尉、行経子、右馬権佐、近衛殿侍〉尚康
   左衛門尉
 藤原長康                    藤原盛員〈馬医師〉
 大江弘澄                    藤能兼
 大江遠継                    源満家
 藤頼遠                     豊原章長〈号飛騨左衛門尉、土御門大納言顕定侍〉
 藤景氏                     源行継
 中原光廣                    惟宗長章
 中季教                     源嗣
 惟長氏                     大久経
 藤信種〈信継子〉                中仲成
 藤重継                     中宗清
 中正経                     源教経
 源宗季                     紀久氏〈号豊後左
 源康経〈号源内左  広橋中将侍〉        紀行清
 大景親〈豊後守、葉室中納言侍、修理職年預、蓮花王院公文〉  藤原行景〈信継子〉
 源康光〈号肥前、山科左大臣家侍〉        中為景
 源行村                     惟行頼〈近衛殿侍、行範子〉
 橘重國〈佐渡守、堀川大納言基具侍〉       源康久〈大夫尉、豊後守、京極為准后侍〉
 中原章長〈高倉大夫判官〉            藤親村
 藤経景                     紀久隆
 藤基種                     藤原康兼〈徳大寺大臣家侍〉
 藤忠國〈廷尉、花山院侍、号藤内判官〉      藤原信兼〈西園寺侍、壱岐守〉
 藤原重直〈大夫尉、日向守、二条大納言良教侍〉  平實秀
 源行國〈近衛中納言侍〉             藤原行清
 源邦俊〈号肥前左  、高二位邦経侍〉      橘公久
 中原行賢                    藤原重高
 藤原景房〈今林准后侍〉             源康俊〈左衛門尉、山科大臣家侍〉
 中行景〈行範子、一条殿侍〉          源貞盛
 平種有〈号上総左衛門、土御門大納言通成侍〉   大章基             
 源重友〈大夫尉、肥後 、西園寺侍〉       藤廣時〈大夫尉〉
 源康顕〈大夫尉、康遠子、隼人正、周防 、〉   惟盛能〈廷尉、盛長子、近衛殿侍〉
 平為季                     大久重
 藤季親                     藤景政
 源信季〈使、大夫尉、越中守〉          藤廣親〈使、大夫尉、三條防(坊)門内大臣侍、信乃守時廣二男、〉
 惟長澄                     藤基茂
 源康連〈大夫尉、刑部権少輔、隼人正、下野守、出家、法名康円〉 藤重種〈使、出家、行種〉
 藤原盛廣                    大江盛種
 藤助盛                     源勝
 藤仲頼                     藤信昌
 源重経                     源季久
 藤以氏〈斎藤〉                 藤信氏〈使、出家、常昭、藤大納言俊光侍〉
 藤原康國                    橘政季
 藤原重藤                    紀久能
 源友俊
   右衛門尉
 源致兼〈使、致久子、西園寺侍〉         中範経 
 藤信祐                     源康行
 中景季
   左兵衛尉
 源康範                     藤光忠
   僧
 行阿〈備中前司中原行範〉            乗智〈出羽守藤原時弘〉
 行禅〈下総守藤原基景〉             明恩〈字良願〉
 重深〈字常陸〉
古人并出家被除北面輩
  正五位下
「中」友景〈大夫尉、所司、石見守〉       「中」行親〈大夫尉、備中守、一條殿侍〉
「源」康景〈所司、大夫尉、隼人正、壱岐 、葉室中納言侍〉 「中」範景〈大夫尉、壱岐守〉
  従五位上
「惟」盛長〈大夫尉、筑後守、近衛殿侍、光能子〉 「藤」重澄
「惟」行貞〈行季子〉              「源」康廣〈有栖川中納言、大夫尉〉
「中」章種
  従五位下
「中」定季                   「藤」信継
「藤」為康〈安範子、近衛殿侍、「進藤」〉    「藤」以経〈近衛殿侍、斎藤以継子〉
「藤」康房〈康重子、近衛殿侍〉         「大江」章綱
「藤」盛康                   「藤」信茂
「藤」重宗                   「藤」範景
「藤」親佐〈式部大夫〉             「平」長季
「藤」季秀                   「源」重継
「中」行友                   「藤」廣能
「藤」秀茂〈秀能子歟、左衛門大夫〉       「藤」國清
  左衛門尉
 紀清兼                     藤忠景
 紀久廣                     藤信時
 藤為継                     藤信連
 平光種                     中弘季
 源季兼〈号七郎左衛門、土御門内大臣侍〉     源康継〈寶治二二五、内外聴之〉
 藤原盛久                    中行季
 神為光                     紀久宗
 藤有重                     田使重職〈花山院侍〉
 藤宗継                     藤廣経
 藤行言                     源康氏〈寶治元五十四参也〉
 平資久                     藤原季信
 藤原國盛                    藤原隆頼
 源仲業                     田使守職
 源康高                     紀盛清
 橘仲康〈葉室中納言侍、信康子〉         平光景
 藤行長                     中友継
 紀久成                     藤教継
 藤忠長                     源康忠
 藤泰隆〈吉田中納言為経侍〉           平良親
 源康朝                     源康衡
 藤季兼                     藤成康
 中知員                     藤忠康〈進藤、安範子、近衛殿侍〉
 惟行時〈行貞子、近衛殿侍〉           中盛廣
 藤景清                     大政景
 橘久康〈種康子、号橘左衛門尉、葉室中納言入道侍〉大匡氏
 藤季継                     平俊清
 平基久〈康清子〉                源康茂
 平有國                     藤長高〈近衛殿侍、長範子、「進藤」〉
 藤康高〈近衛殿侍、康貞子〉           平資景
 藤原宗久                    中原家員〈薩摩守成経子〉
 藤宗用                     平朝親
 藤仲兼                     藤忠朝
 藤為有                     源業季
 藤佐秀                     源資春
 源重清                     中原行雅
 藤原親幸                    源師季
 藤以村                     藤重範
 藤廣實〈俊親子、二條殿侍歟〉          惟行有〈廷尉、行貞子、近衛殿侍〉
  右衛門尉
 紀宗有                     藤忠康
 平基頼
  社司
 賀茂久継縣主                  同重経ゝゝ
 同能継ゝゝ                   鴨季成ゝゝ
 賀茂種平ゝゝ                  同世平ゝゝ
 祝部成茂宿祢
  僧
 定祐〈字賢林〉                 賀茂氏久〈寶治二〉
 藤重有                     橘宣國
 藤信遠                     同時宗
 中宗秀                     藤親康
 惟章(宗)行資                 藤盛廣
 惟宗行賢                    藤景種
 中原兼清                    藤原重康
 大重國                     藤康長 

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富木常忍の働き

2022-06-27 | 中原氏バラバラ情報

https://temple.nichiren.or.jp/0041039-yodenji/2022/01/id668/

大檀越富木常忍(とき じょうにん/1216~1299)は、この頼胤の被官として重きをなした人物で、守護の周囲に多くの信者を創出するなど、重要な役割を果した。九州大学・福岡大学の川添昭二氏によれば、日蓮聖人は、富木氏を通じて、九州千葉氏から幕府の対蒙古政策の進展や、文永・弘安の役の速報を収集していた可能性が高いという(川添昭二著『日蓮とその時代』〈山喜房仏書林・1999年〉、同『日蓮と鎌倉文化』〈平楽寺書店・2002年〉、同『中世・近世博多史論』〈海鳥社・2008年〉ほか往見)。

 

「速報を収集」はありそうですね!

ふき・とみく と関係はあるのだろうか? そこが知りたい! 紀氏との関係も。

https://blog.goo.ne.jp/atty-xxx/e/2de0b45dd4632590387c717e4785ee57

 

 

 

 

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愚管抄 慈円著 全現代語訳 大隈和雄訳 (3) 巻第五 平頼盛と一条能保そして中原政経 1181年高山寺文書のその後  

2022-06-04 | 中原氏バラバラ情報

巻第五 九郎義経の謀反

この段の中に 頼盛が源義仲にまず初めに狙われたこと、其の後、頼朝を頼って逃げ下っていることが書かれている。

確か、頼盛の郎党に中原清業がいたはずで、この清業が閑院流の藤原実明のもとで播磨国守護代を務めていたはずである。

実明は、元暦二年(1185年)6月に播磨国守護に任じられている。

平頼盛に話を戻す。wikipediaの記載を使うと、

『10月20日、頼盛逐電の情報が流れて騒ぎとなった(玉葉)。 閏10月になると、親鎌倉派である一条能保(頼朝の義弟)・持明院基家(頼盛の娘婿、能保の叔父)も危険を察知して鎌倉に亡命した。』

 

この部分、愚管抄では、

『頼盛大納言は頼朝のもとへ逃げ下っていった。頼朝は鎌倉から二日の道程のところにまで出迎えて、あたかも父に対するようにもてなした。また頼朝は以前から、妹が一人いたのを大宮権亮能康(能保)という人の妻にしていた。それでこの能康もまた妻とともに鎌倉へ下ったのである。こうしてしかるべき者どもが鎌倉に集まり、頼朝は京都の人々の様子などについてもたいへんよく知ることができた。』とある。

 

頼盛の郎党に中原清業、そして一条能保の家司には中原政経がいた!

この政経は1181年迄は京にいたことが確認できるため、一条能保について下ってきたのかもしれない。

もしくは、源義朝の娘ということで坊門姫についていた人物だったのかもしれない。

(朝長の義理弟が中原久経であるため。)

 

一条能保・坊門姫の家司となったには、中原久経という人物がそのきっかけとなった可能性があり、政経は久経の縁戚者であろうと思われるのだ。

 

私は、この政経が後の【政恒法師】となると予想しているのだが、政恒法師は近江国御家人井口中原系図の伊香郡に関わりがある先祖を持っていると思う。(以下の資料より)

 

とすると、一条能保・坊門姫周辺にいること、近江国伊賀郡との関りを持っていることの二つを考えるに、

政経は、中原久経の息カ、義理の弟か、本当の弟か…あるいは甥か…

 

1181年に政経は、初の出仕のような雰囲気であるので、年的には久経の息にも当てはまるか、はまらないか‥‥の年代である。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/b7a7055390e16a2a87d243d29bd97f4a

 

政恒法師が中原政経であろうと思われるのは、「関東御家人」という部分があるからであり、

江州の中原氏であると思うのは「近江伊香郡」の部分である。

この案主職は 九里の祖となった経久の弟経季の職と同じなのである。

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中原景安と藤原孝時 そして孝道の娘

2022-05-19 | 中原氏バラバラ情報

中原有安の養子であった「景安」は「文机談」に詳しいブログ様によると藤原孝時入道が景安の家の前をちょうど通りかかった際に呼止め…とあり、その時に東国へ旅立つことの決心を語ったそうである。

http://houteki.blog106.fc2.com/?mode=m&no=926

 

この藤原孝時とは、以下のブログに記載があった。

https://www.mikumano.net/setsuwa/geido.html

「 法深房(藤原孝時。孝道の子。孝道は琵琶の名手で、木工権頭として琵琶の製作にも長じていた)は二十歳の年から熊野へ詣でて、「我が芸がもし父の芸に及ばなければ、ただちに命を召しあげてください」と申された。祈請の旨が神慮にかなって、琵琶の道における第一人者となった。

 

西園寺実宗(実明の兄)からみると、曾孫の西園寺公相の妻が中原師朝の娘であり、実兼の母となった人になる。

 

藤原孝道のコトバンクより

1166-1237 平安後期-鎌倉時代の雅楽家。
仁安(にんあん)元年生まれ。琵琶(びわ)の家に生まれ,父孝定および藤原師長(もろなが)にまなび,演奏,製作,修理にすぐれる。長じて師長につかえ,木工頭(もくのかみ),楽所預。西流の当主となり,琵琶の秘事口伝を「知国秘鈔」「残夜抄」にのこした。嘉禎(かてい)3年10月22日死去。72歳。

 

琵琶の製作からという処がすごい!

さすがに【琵琶の家】である。

更に木工頭という職務が、琵琶などの楽器分野も範疇に入っていたという事も驚きである。

 

因みに西園寺実兼の家司が中原章任である。

中原章任(のりとう)のコトバンク

鎌倉後期の 明法家。章継の子(『職原抄』は章職の子とする)。明法博士,検非違使,左衛門尉。院北面,西園寺家家司をも勤める。法書『金玉掌中抄』を著し,花園上皇に律令を進講するなど,当代有数の明法家であった。

(上杉和彦)

?-1321 鎌倉時代の官吏
大判事,明法(みょうぼう)博士,明法侍読,修理権(ごんの)大夫をつとめる。中原家につたわる説をまとめ律令注釈集「金玉掌中抄(きんぎょくしょうちゅうしょう)」をかいた。元亨(げんこう)元年6月死去。

 

 

横道にそれるが

和歌山の九里のいた場所 と 琵琶がキーワードとなる。

但し、雅楽琵琶 と 平家琵琶は系統が別だそうである。

 

和歌山 熊野の話である。↓

『平家物語』は、盲目僧形の芸人、琵琶法師によって琵琶に合わせて語られましたが、熊野本宮大社の近くにある今は無住の大智庵というお寺が、かつて全国の琵琶法師の総本山とされていたと伝えられます(中世以後、幕府公認で、盲人により組織された団体「当道(とうどう)」の根本史料『当道要集』を後に考証した『当道秘訣』巻下に記載された「熊野本宮光神山天夜尊御旧跡縁起」による)。…

https://www.mikumano.net/setsuwa/mojin.html

てつ様のブログです。

 

小堀遠州も平家琵琶を学んでいたそうで、益々もって九里との関係が感じられる。

小堀と九里は枝分かれしたもともとは兄弟である。

 

 

 

 

 

 

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九条兼実の家司 中原有安 は 『兼実の琵琶の師』でもあった。

2022-05-17 | 中原氏バラバラ情報

九条兼実の家司 中原有安 は 『兼実の琵琶の師』でもあったそうである。

https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr046_2019_watanabe.pdf

 

面白い小論文を見つけた!

中世の貴族と日記 ー玉葉を中心に  佐藤英子 著

その中の一文 ↓

【『玉葉』に九条兼実家の「家司」として明確に記される人数は約七十名近くにのぼる。】

 

兼実の家だけに仕えている人は少なく、ほとんどは掛け持ちのような立場であったようだ。

さて、中原久経は九条家の家司と聞き及んでいたが、はたしてそうなのだろうか?

近藤国平と中原久経が頼朝の命で行動していた時期は、どうなのだろう。

1185年の中原政経は京にいた事がわかっている(高山文書)のだが、久経は?

 

嬉しい情報としては、清原頼業が来た際には大外記頼業と正確に記載がある。

 

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