九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

日置荘 大阪堺市(日置部居住地)・鹿児島県日吉(ひよし)町(現・日置市)・薩摩国薩摩郡日置郷(現,鹿児島県日置郡)

2022-05-11 | 中原氏バラバラ情報

【日置】に関する情報が出てきた。

測量士の役目を果たしていた日置部氏

以前近江八幡日牟禮神社を調べていた際に登場していたはず。

 

今度は、中原光氏と関係している。

本来は左方兼東大寺の鋳物師たちをまとめる役目だったのだが、狛近真が興福寺の楽人でもあったためか、文書では同じ興福寺の領であった日置の鋳物師たち(右方)のことにも記載している。

「所称右方鋳物師者,日置,金田,長曽禰此三ケ所也」

 

阿蘇品文書に中原光氏の記載がある事も、この日置荘のことがあったからかもしれない。

★日置荘は、大阪堺市

 

★鹿児島県日吉(ひよし)町(・日置市)北東部に比定される豊前宇佐(うさ)神宮弥勒(みろく)寺領荘園。〈へき〉とも読む。古代の薩摩国日置郡が分割されて成立。1197年の薩摩国図田帳に日置北(ひおきほく)郷(日置市日吉町)内として〈日置庄三十町〉がみえ,領家は弥勒寺下司(げし)は小野太郎家綱であった。小野家綱はのちの史料に当荘の地頭としてみえる大江家綱と同一人物であろう。

 

★薩摩国薩摩郡日置郷(現,鹿児島県日置郡)を母体とする荘園。平安時代末期,同郷は南北2郷に分かれ,うち北郷内70町と南郷内36町は荘国両属の寄郡(よせごおり)として摂関家領島津荘に加えられたが,1187年(文治3)本領主系譜をひき下司職をもつ平重澄はこれを島津荘の一円領として寄進しなおしたので,こののちはしばしば島津荘内日置荘(日置北庄,日置南庄)とも呼ばれるようになった。

 

以下の2つの論文 オススメです。

http://hist-geo.jp/img/archive/163_017.pdf

 

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=11848&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

 

 

コメント (2)
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鎌倉時代後期 鶴岡舞楽師【中原光氏】(2) 左方兼東大寺鋳物師惣官

2022-05-11 | 中原氏バラバラ情報

中原光氏と検索している際に、楽人とは別世界の左方兼東大寺 鋳物師惣官に補任という人物に逢った。

同一人物だろうか?

右方・左方・東大寺 のそれぞれの鋳物師がいたのだと思う。

その左方と東大寺の鋳物師たちをまとめる役目と思う。

「左方兼東大寺鋳物師惣官中原光氏惣官代職補任下文案」という文書が残っている。

 

興福寺領日置荘(コトバンク)に関することにも中原光氏の名が挙がっている。

興福寺御領日置庄」に居住する鋳物師は蔵人所供御人となって雑役を免除され,「短冊」を賜って諸国七道,ことに京中市町,和泉・河内両国の市津を往復し鉄の売買を行っていたことがわかる。また同年11月日の蔵人所牒写(同前)にも「河内国丹南郡狭山郷〈異名日置〉住民本供御人番頭」と見え,年預惟宗兼宗によって日置荘鋳物師が本供御人,番頭に編成されていた。いずれも日置荘が丹南郡狭山郷のうちに立てられたことを示している。「吉記」承安4年9月8日条(大成)には,興福寺領日置荘の住人が蔵人所灯炉作手として造宮役を免除されていたことを理由に造内裏役を未進し,国司との間で紛争が起きている記事がある。

文永3年12月13日の左方兼東大寺鋳物師惣官中原光氏惣官代職補任下文案(阿蘇品文書/同前)には「所称右方鋳物師者,日置,金田,長曽禰此三ケ所也」と見え,日置荘鋳物師は蔵人所右方灯炉作手に属したことがわかる。

 

では、この中に見える【阿蘇品】(苗字)とは?
阿蘇品文書

建武二年(1335)、足利尊氏が鎌倉で新政府に反旗を翻すと、天皇はただちに新田義貞を大将とする討伐軍を送った。その軍中には菊池武重、阿蘇惟時・上島惟頼・阿蘇品惟定らの阿蘇一族、大友貞載らの九州勢も加わっていた。

 

何故この阿蘇品氏が中原光氏に関する文書を持っていたのだろうか?

阿蘇一族とは…(武家家伝 阿蘇氏より)

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aso_k.html

阿蘇氏は、肥後国一の宮の大宮司職を古代よりつとめてきた名家である。『阿蘇宮由来記』によれば、その先祖は神武天皇の皇子神八井耳(かむやいみみ)命とされ、第二代天皇の綏靖天皇の同母兄にあたるという。その後、神八井耳命の子健磐龍(たけいわたつ)命が阿蘇に封じられ、命は阿蘇都彦と称して阿蘇に土着し、その子速瓶玉(はやみかたま)命が阿蘇国造に任ぜられ阿蘇の姓を賜ったのだという。『古事記』に見える「阿蘇君」は、阿蘇都彦のことであるといわれている。このように阿蘇氏のはじめのころは神話に彩られ、「神々の末裔」よよばれるにふさわしいものである。

 

阿蘇友成は謡曲の「高砂」の主人公としても知られた人物である。

 

大宮司職の補任は、律令下にあっては神祇官を経て太政官符が発せられ、国司によって執行されるという国家的な権威を備えたものであった。すなわち、阿蘇氏は大宮司職に任ぜられることで、その地位は国家権力を背景とするものとなったのである。また阿蘇神社の社領を村上源氏を通じて皇室に寄進し、皇室領荘園と化した阿蘇荘の荘官職をつとめた。

 

平氏政権が成立すると、平家は阿蘇氏を警戒するようになった。このことが、源頼朝が旗揚げしたとき、阿蘇氏が菊池氏、緒方氏らとともに頼朝に味方する要因となった。

 

鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』には、阿蘇惟泰が「南郷大宮司惟泰」と呼ばれており、このことは惟泰が武士団の棟梁として、南郷に居館を構えた領主であったことを示している。やがて、惟泰の子の惟次の代の承元元年(1207)、阿蘇氏は南郷から矢部に移り、貞応元年(1222)に岩尾城、愛藤寺城を築いて矢部が阿蘇氏の本拠となった。 

 

***

鋳物師惣官は中原光氏であったが、本当に立ち働いでいたのは鋳物師惣官代職「平友房」と思われる。

網野先生の本に『平友房を「鎮西住廻惣官代職」(「左方鋳物師惣官代官職」)に補任した。』とある。

 

さて、中原光氏は狛近真の猶子でもあった。

其の狛近真は、奈良興福寺に所属し,かつ宮廷勤仕の地下楽家の出身

興福寺に所属という事と、鋳物師のいた「興福寺領日置荘」の興福寺という共通のキーワードに同一人物であった可能性を感じる。

 

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鎌倉時代後期 鶴岡舞楽師【中原光氏】(1) 中原有安ー景安ー光氏

2022-05-10 | 中原氏バラバラ情報

他の方のブログで「弁天様」を取り上げていらっしゃる方がいらして、私も思い出したことがあるので書き留めておこうと思う。

 

以前から、どのような経緯で鎌倉にも中原祐安(有安)をはじめとする楽人たちが関わってくるようになったのかが気になっていた。

 

特に今回は【中原光氏】に注目して調べてみた。

この人物は、鎌倉時代の音楽と舞を職としていた人物である。

(「音楽」と書いて「うたまい」とも云うようである。)

 

彼の養父となる中原景安中原祐安(有安)の養子であり、鎌倉に京の音楽を広めた人物である。

諸説あるようであるが、

私の好きな雅楽研究所「研楽庵」様のブログでは、

http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-923.html

【父は中原景康で、子に光上がいます。狛近真の猶子となります。(系図)】

景康=景安ではある為問題はないのだが、其のあとの「狛近真の猶子」という箇所が気になるので、調べてみた。

『楽所系図』によると狛近真の養子となっていることが知られる。この中原一族と鶴岡八幡宮の楽所との関係も深い。(古代中世音楽史 荻美津夫 著)

左近将監中原光氏(景康子)は、一時、狛近真の養子となり左舞を伝えられた後に中原に復し(日本音楽史叢 福島和夫 著)

舞楽の家の狛近真(国語と国文学)であったため、その舞を伝えてもらうために養子に入ったという事のようである。

光氏家業の笛・神楽歌の他 左舞…も加えられた、という事と思う。

 

狛近真(こま の ちかざね)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%9B%E8%BF%91%E7%9C%9F

コトバンクより ↓

鎌倉時代前期の雅楽奏者で,『教訓抄』の著者。奈良興福寺に所属し,かつ宮廷勤仕の地下楽家の出身。狛氏庶流の則房の養子となったが,祖父の光近を継いだ実兄の光真に嫡子がなかったため,光真の嫡子となった。光真が長く左方一の者であったので,仁治1(1240)年64歳の高齢で,ようやくその地位についた。『教訓抄』(1233)は,近真57歳にして,長男光継は鎌倉幕府の命により関東に住したが職を棄て,次男光葛は狂して道を執らず,最後に頼るべき3男真葛はわずか2歳,という家庭事情から,家芸断絶と舞楽道衰微を危ぶみ,楽道の教訓を子孫に遺さねばならぬという切迫した意図で成った。楽曲の故実,演奏記録,院政期以後鎌倉期の舞楽の実態を詳述した好書であるとともに,光近への畏敬の念,光真への対抗意識,実子たちへの憂慮感など,当時の芸能者の複雑な心境が読み取れる。舞の上手で,「春日権現験記絵」には,建保5(1217)年2月16日興福寺の衆徒が見守るなか,春日社頭で,笙・・太鼓を伴奏に,家芸の「陵王」を流麗に舞う様が描かれている。<参考文献>『舞楽府合鈔』,『楽所補任』(『群書類従』補任) (蒲生美津子)

1177-1242 鎌倉時代の雅楽家。
治承(じしょう)元年生まれ。奈良方。兄狛光真(みつざね)の養子となり本家をつぐ。狛光季(みつすえ)の舞を継承し,笛を狛則房(のりふさ)にまなぶ。伎楽や三鼓もおさめ,狛家の秘曲をうけつぐ。仁治(にんじ)元年左舞(さまい)の一者(いちのもの)。左近将監(しょうげん)。その著「教訓抄」は後世の雅楽の規範となった。仁治3年1月25日死去。66歳。大和(奈良県)出身。

 

鎌倉前期の雅楽家。左近将監(さこんのしょうげん)。光近の子という。父の没後狛則房に父祖伝承の左舞(さまい)を学び、名人と称された。演奏の故実にくわしく、三大楽書の一つ「教訓抄」を著わす。治承元~仁治三年(一一七七‐一二四二

 

平安時代の雅楽家。奈良の興福寺に所属した楽家,狛家の出身。現在の楽部,辻家の遠祖。左方の舞を担当し,その経験を生かして天福1 (1233) 年,雅楽の専門書『教訓鈔』を著わす。

 

胡琴教録の奥付 

以左近大夫将監中原光氏之秘本令書写之、秘書之間、荒涼之人有其憚、仍以女性令書之間、解字等多、得其意追可書改し

 

web上にある関係のある、またはありそうな情報を集めてみた。

京から何故鎌倉へ来たのか、なぜ新天地を求めてきたのか、そのあたりが興味深い!

https://ch.kanagawa-museum.jp/publications/reports

 

↓ オススメ三作 こちらを読むと中原光氏のことがよくわかり、満足できた。

https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr047_2020_watanabe.pdf

↓ が一番 中原光氏に詳しい

https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr046_2019_watanabe.pdf

こちら面白い 九條兼実の琵琶の師匠として景康(景安)が見える。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/59/0/59_59_25/_pdf/-char/ja

 

さらに、下記のお寺にも地図の中に名前があった。

神武寺 ↓

https://www.jimmuji.org/

 

 

そして以前にも紹介したかもしれないが、光氏が鎌倉の鶴岡八幡宮に置いた「弁天様」

国宝である。本当は裸体で、そこに着物を着せている。

 

 

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古庄能成の古庄は、どのあたりなのだろうか?

2022-04-19 | 中原氏バラバラ情報

相模国愛甲郡古庄郷司古庄(近藤)能成。能成は足柄郡大友郷(荘)を領した波多野経家の三女と婚し、三女が能直を生んだ。

 

 

利根文書』所収の「大友( - ) ( ) ( ... )近藤太能成が郷司であった古庄郷の所在は明らかでない。一説に金剛寺のある飯山の地に隣接する旧愛甲郡上・下古沢村(厚木市)とする。能成の子で、能直の弟重能が「吉沢 ...

 

googlebooks のため、機械が読み取っており文章が変だが・・・重要な箇所があったので掲載。

古庄は現在の愛甲郡小鮎村大字古沢であり、そこは広い意味において小鮎川の流域に属するが、白山の南方にあって、 ... 月九日の各条に出てくる「古庄左近将監能直」とい一族で、貞成の子、大友能直(『吾妻鏡』文治六年正月十三日条に「古庄能直」 ...

 

     

 

大井・松田・秦野・海老名・小野が周囲にみられ、仲には栗原も見える。

赤い枠の斜め上の方には、依知 金田もある。

 

 

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親厳 と 藤原定家「明月記」

2022-04-03 | 中原氏バラバラ情報

少し前に見つけた情報で、明月記の中に「親厳」の記載があった。

https://www.google.co.jp/books/edition/%E6%98%8E%E6%9C%88%E8%A8%98%E7%A0%94%E7%A9%B6_7%E5%8F%B7_2002%E5%B9%B412%E6%9C%88/0p9d1GpCjeIC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E8%A6%AA%E5%8E%B3%E3%80%80%E6%98%8E%E6%9C%88%E8%A8%98&pg=PA10&printsec=frontcover

 

寛喜二年八月 1230年

 

藤原定家 1162年生ー1241年没

1230年には病老とあるので、弱っていたのだろうか。

 

 

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親厳 嘉禎二年 寂 八十六歳 

2022-03-30 | 中原氏バラバラ情報

親厳 中原親光息 中原広季猶子 1150年生まれ-1236年 寂

広季の猶子という事は、中原親能・大江広元と義兄弟という事になるだろう。

広季自身の経歴を見ると掃部頭・飛騨前司を務めていたことがわかる。

掃部頭は中原親能に、飛騨守は中原親光にその務めが渡っている。(親能は美濃守も記載あり)

広元は中原・大江 統一されておらず、文書を見ると混在している。

文書には、広元とだけ書かれていて、註を付けた人が「大江」「中原」と振り分けているように思える。

1184年元暦元年 安芸介中原広元

1185年元暦二年 因幡前司大江広元

1186年文治二年 中原広元

1190年文治六年 少外記広元

1191年建久二年 前因幡守

1197年建久八年 別当兵庫頭中原朝臣

1213年建保四年が、なぜか平安時代の中に紛れているのだが、

   当陸奥守大江朝臣(広元)とある。

***・***・***

1225年嘉禄元年 大江広元「覚阿」卒す

1209年承元二年 中原親能 卒す 「寂忍」

1236年嘉禎二年 親厳 寂

***・***・***

寂忍という法名は、九里経久の蓮忍 富木常忍の常忍と同じように「忍」がついている。

https://web.archive.org/web/20061104130245/http://www.e-obs.com/heo/heodata/n537.htm

中原親能、詳しく書かれている。👆

 

さて、中原久経がもしも近江国御家人井口中原系図の中の「賢清」だとすると、、、

親厳と同じ時代の東寺の文書に「賢清」という名が出てくる。

この賢清が久経ならば…と思う。そこ以外に考えられない私。こだわりすぎ…

 

あーあ、なかなか鎌倉時代から抜け出せない。

考えてみれば、鎌倉時代で系図が終わっているのだから、その後は1334年以降の今堀日吉文書、和歌山の系図にある京極と六角との袖切という註、

その後は伊庭氏の又代官をしていた事(東寺百合文書 1300年代から)、忠富王記(1490年代から1500年初期)、など名前は見えるが系図ではない。

九里種信の土地を売る時の文書も明応で1490年代、なかなか一族のつながりが見えてこない。

どこからか、系図が出てきて欲しい!!

 

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二つの花押を比べてみる。千葉県に三途川~

2022-02-16 | 中原氏バラバラ情報

元暦二年(1185年)と建長元年(1249年)の紙背なのでそれ以前の文書となる。

年代も離れているかもしれず、、、、

 

法橋長専からの手紙に冨城殿と書かれている部分があり、富木=冨城であることがわかった。

 

また、裏から読んでいる文字なので確実ではないのだが、傳義通 六郎 顕開顕シ の文字が見える。

義通の仏像か何かを菖蒲六郎に伝えて??

 

縁覚・聲聞・菩薩

という文字も見える。

 

九里三途定〇とみえる。

 

茂原から長生郡長南に三途川があり、じつは茂原は常忍の実家があった場所ではないかと思っていたので、これは久経やその息の文書だったのではないだろうか?

其の裏に 日蓮や長専が手紙を書いていたのではないだろうか?

この紙背文書を上手く読める方法はないだろうか?

大きめにコピーをして、裏から透かして読んでいるのだが、目が悪くなりそう…

 

 

 

 

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文治元年に務めたばかりの歌人・俊職(義定)、文治三年頼朝に所領没収される。

2022-02-10 | 中原氏バラバラ情報

筑後守俊通為子…の前の竹泉は號だろうか?

筑後守といえば、波多野義通と同じであり、其の息子の俊通と見て良いのではないだろうか?

俊通は1160年に歿していて、治承三年(1179年)に十九歳の義定(俊職)は養子に行く…という事は、赤子の時に養子となることが決まっていたという事だろうか。

 

 

此の後に再起を計るために中原となって俊職と名も改めたのかもしれない。(勝手な想像)

 

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高山寺文書に 中原政経 登場~!

2022-02-10 | 中原氏バラバラ情報

昨夜、高山寺文書を一つ一つ確認していた所、出てきた文書である。

嬉しい! このような出会いがあるから、楽しい!

侍所、所司見参など、言葉がわからないので調べてみると、詳しい論文があった。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238627/1/shirin_064_4_498.pdf

出仕の場合は着到、顔合わせのような(私の解釈)ことを見参というようである。

だいたいどこにいたのかがわかって、うれしい限り。(清涼殿の可能性あり)

1181年は、まだ京都である。

 

中原政経の若かりし頃だろうか。

 

光経は同時代に気になる人物で二人以上いるため、その中のどなただろうか?

また、源盛経も何人もいるために私には判別できないが、

中原政経は確かに三左衛門事件の、あの政経と思う。

1181年のことであり、

 

次に出てくるのが「三左衛門事件」の1199年

 

更に政恒法師も同一人物であるならば、1246年

 

ちょっと幅がありすぎるような気がする。

政恒法師は高齢であるか、または別人かも知れない。

しかし、

『寛元四年(一二四六)八月二七日、六波羅探題重時は、葉室定嗣に、「公家殊被/行徳政」るべきこと、関東申次(前関白九条 ... 使者として葉室( 4 )定嗣の許に送り、後嵯峨院の召次案主職に政恒法師なる「関東家人」を補されるよう執申している。』検非違使 中世のけがれと権力 丹生谷哲一著

 

この三左衛門事件で逼塞を余儀なくされた政経が、政恒法師となっていて、

晩年に先祖伝来の近江国伊香郡の召次案主として最後を飾れるように‥‥との配慮だったのではないだろうか。

 

江州中原の景経も同じ職にあり(1244年)、

寛元四年(1246年)なので、政恒法師は景経没後の召次案主のことかもしれないのだが…

 

もしもそうならば、政恒法師は、景経の父・兄弟・息のどれかであろうと思う。

 

1163年以降の生まれと思われる 中原政経 

やはり、景経の兄弟と思うと自然であろうか‥‥

 

その息の代に当たる 九里太郎 蓮忍入道 1180年代はじめに生まれたか?

 

 

 

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高山寺文書の中の藤原朝臣久経は、中原久経のことと思われる!

2022-02-08 | 中原氏バラバラ情報

東京大学史料編纂所DBを「久経」で調べていて、ひとつ中原久経ではないかという人物を見つけた。

高安御領雑事、下問久経候之処

ここである。

出典に「高山寺文書」とあるので、webで調べてみた。

此処では《大介藤原朝臣久経》

大介とは「平安時代後期に諸国の国司が公文書を発給する際に自署に用いた私的な称号。」だそうである。

そして藤原も名乗っていた「久経」であると思うのだ。(秀郷流の中で育って…)

…下問久経…の部分も【八条院関係紙背文書群 五味文彦著】の論文に見つけたのだ。

 

元暦二年八月と云えば、八月十四日に文治に改元されたそうなので、まだ元暦二年(1185年)なのである。

そして、この論文内にもある様にしばらく元暦が使われているようである。

皆に周知されるまでに時間のかかる時代である。

 

さて、この久経、源頼朝の使いとして2月から働いていたのだ。(ここではまだ文治になっていないのに、文治になっている。?変ですね。)

 

 

という事で、荘園のことに関しての困りごとを解消するために(他にもいろいろと仕事はあったに違いないが)「久経」「国平」の二人が全国を行脚している様子が目に浮かぶ。

一体いつ鎌倉に帰ってくることができたのだろうか。

 

丹後国田辺町…どのあたりを歩いていたのだろう。

二月に初めて、八月が丹後国田辺である。

 

アッ、でも高階泰経は、手紙で久経に聞いたかもしれません!

なので、あくまでも私の想像です。

 

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