九里 【九里】を探して三千里

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武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(4)良峯姓 前野宗康 周辺 改訂

2020-11-04 | 佐々氏 バラバラ情報

九里氏に関する部分のみ、略しながら書いている。
柏原織田家臣系譜(国立国会図書館蔵 デジタル)の良峯姓佐々氏(前野氏)の時基の跡、宗直までの空白を埋めるためもあり、ココに書き出している。

宗康:長義二男、小次郎尉、右京という。
宗康永禄三年(1560年)卒、寿七十二歳、室は小坂氏の女、永禄十二年(1569年)卒
前野小二郎尉宗康と称す、尾州岩倉城主織田七兵衛信安の旗下なり、宗康は岩倉三奉行の一人なり、岩倉落去候いてより在所前野村南窓庵に蟄居す、弘治改め系図に宗康は長義長男とす、されど永正改め系図には長安次男とこれあるに依る。

宗康は織田信長に所領安堵をもらい、また、本居の神天満宮を再建している。室は小坂氏、生国は但州出石郡小坂郷小坂次郎左衛門其の子孫三代の末小坂源九郎吉俊の女久藏尉の妹なり、また山神を勧請す。

忠勝:前野坪内元祖 長義三男、又五郎というの濃州松倉居住

忠勝永禄十二年(1569年)卒、寿六十八歳、室は美濃国大桑郷前野山内掃部介の女
前野又五郎忠勝という、尾張国犬山城主織田伯厳(信康)に奉仕す、織田弾正様(信秀)上郡の御人数集められ美濃国に隙入り稲葉山を取り抱えんと欲し、大軍にて大河を押し渡り攻め入られ候の時、伯厳様に御随い申し御供仕る、城山下‥‥御嫡子十郎左衛門様(信清)、松倉野府の城主坪内将監殿に殿(しんがり)陣仰せ付けなされ犬山へ退きなされ候、この殿陣将監殿遮二無二支え候、無勢にて候由、美濃長森において討死仕る、又五郎尉将監殿と共に踏み留まり退口を開き候、後年将監世子相無く訃厳様名跡絶ゆるを惜しみ松倉河内は節所ゆえ、又五郎尉に坪内の名跡を襲わしむ、すなわち又五郎坪内を称号、松倉の城へ入れ置かれこの城を守る。
右前野坪内の由緒にて候。
===*===

忠勝は宗康の弟である。
「その忠勝の息に勝長がいる。そして宗康の息にも勝長がいる。」というのが今までの謎であったのだが、ココでわかった事は忠勝の息と思われていた勝長は実は前野宗康の三男であり、加賀守となっていた人物であった。
つまりは同一人物であったのだ。

この周辺を書き出すと以下のようになる。

===*===

忠勝の娘 於弥:加州富樫流れの事
忠勝の女子於弥という、この女子加州牢人富樫宗兵衛の室と成る、宗兵衛為定は子相無し、又永正系図に曰く於弥女は長義女とあり。

為定:富樫流れ宗兵衛為定加州より尾張国郡村生駒八右衛門尉の屋敷に寓居仕るところ、武辺者にて御座候、犬山訃厳殿に召し出され旗下と相成り度々高名あり、又五郎尉の猶子と相成り坪内宗兵衛尉を称号玄斎のことなり、岩倉落去候後織田上総介信長様に随い申し高名無限なり、後年坪内の名跡を舎弟舎弟玄蕃(勝定)に相譲り申し候いて、爾今は前野宗兵衛尉為定濃州松倉に居住仕る者なり。
一、惣兵衛尉の親藤左衛門は、長享の江州陣に小田氏に随い入国、越中より前野村に来住。

勝長:忠勝長子小兵衛尉という実は前野宗康の三男なり、加賀守と成る。
勝長天正十三年没。(1585年)室尾州比良佐々平左衛門の女。
前野小兵衛尉勝長という、尾州春日部郡平の城主佐々蔵人助成政に奉仕、元亀元年越前金ヶ崎御陣、江州浅井備前守(長政)御退治の時、鉄砲隊二百をもって比類無き高名あり、天正元年織田信長様は蔵人助成政様に随い申さざる者御打果すべく越中国に遣わされ候の時、蔵人助様小兵衛尉に仰せつけらる。すなわち小兵衛尉、佐々平左衛門尉共に併二千を率い魚津松倉の両城を取り囲み両城を責め取る、天正申歳成政様加賀の前田俣左衛門利家殿と加賀坂井において争う時、加賀境朝日山にて取り合う、末盛責め等軍功無限なり、成政様家老職に御取り立て蒙り井波の城主となるも、病のため越中国新川郡において相果て候者なり。
一、小兵衛尉勝長、又五郎忠勝の猶子成るも、後年佐々内と相成る


吉康:勝長長子又五郎という、左馬助と成り加賀守となる、吉康没年不詳。
前野小兵衛尉の嫡子又五郎吉康という。加賀守となる、佐々蔵介成政に奉仕、小兵衛尉と共に加賀国越中国に出勢い御陣に随い申し候、天正九州島津御退治なされ候の時千校を顕し、成政様肥後熊本を拝領、又五郎吉康肥後に住するの時、国中一揆の輩随い申さずすなわち成政様、佐々与左衛門前野又五郎尉に命令なされ人数凡そ三千を以って打ち果たし候、なお国中盛んにて各所に蜂起治まらず、遂に太閤の御勘気の御科を蒙りなされ、摂州尼ヶ崎に進まれ候ところ法華寺において切腹仰せ付けられ候、又五郎尉肥後熊本に留り候、後年淡州稲田大炊様に身を寄す。

勝長二男:三左衛門 この人は阿州蜂須賀蓬庵様(家政)に召し出され御奉公仕る子孫阿州にあり。

勝長三男:嘉兵衛ー助七ー喜左衛門ー助七ー幸八
この人は前野村に居住。幸八は今人なり。

===*===
ここで、柏原織田家臣系譜と名前は違うが符合する人物を書き出そうと思う。

まず、勝長は柏原織田家臣系譜では「宗直」になっている。1611年まで生きていたことになる。
吉康は「宗能」で、柏原の系図でも淡州に住んでいることになっている。
三左衛門は「直勝」久三郎で、熊本から阿州(柏原の系譜では讃州となっている)へ渡り、ここでは時代的にまだ未来になってしまうので書かれていないが、その後大和宇陀松山藩に入ってくる。つまり、この人物こそが佐々宗明と宗淳(水戸黄門の助さん)の系となる。


嘉兵衛ー助七ー喜左衛門ー助七ー幸八
この人は前野村に居住。幸八は今人なり。…と書かれたこの系図にある人物たちは、ひょっとすると九里十助の関係者?だろうか?

もしもそうだとすると、このあと、どうなったのであろうか。九州の原城の闘いでは敗戦している。
九里十助は又五郎の子(吉康=宗能)の息で、九里に入っていて、佐々成政と共に行動していたと思う。

下記の肥後国前野佐々氏系図によると
六左衛門ー六蔵―七右衛門となっている。

九里六左衛門の系を調べていこうと思う。



佐々宗明の曾孫も九里に入り「九里修政」となっている。







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