九里 【九里】を探して三千里

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永田時信を遡ると、師季、の周辺(3) 永田時信と若狭国鎮守一・二宮

2020-06-14 | 永田氏

永田時信の周辺には若狭国鎮守一・二宮との関係も含まれる。



https://genbu.net/engi/1miya.htm#hokuriku

佐々木哲学校の記事によると
http://blog.sasakitoru.com/201112/article_1.html

田中氏の系譜
 高島郡田中郷の所職は、もともと「田中入道」と呼ばれた山崎憲家(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)の子孫が有していたと考えられる。田中入道憲家は「源行真申詞記」に登場する愛智家次(愛智秦氏か)の弟で、その子孫が山崎氏を名乗った。

本佐々木氏では紀道政の一族である真野時家が船木に移住して船木氏を名乗り、さらに若狭に転出するなど、平安末には積極的に高島郡に進出していた。

この太字が九里氏とダイレクトに関係がありそうに思う。舟木庄の代官を務めていた九里である。
転出って、どこに? 大飯の本郷にだろうか?
佐分氏という人も佐々木氏の中にいて、やはり若狭にも「佐分利」がある。

この紀道政は沙々貴神社神職木村氏の祖であり、木村の語源はまさに紀氏の村(氏族
集団)であった。
経方の次妻(行定母)が下野守紀盛宗娘、
井上六郎筑後守行方か、または伊庭出羽守行正(改め実高・さらに改め実遠)の妻が紀盛親娘とされる。

若狭国の平安時代前後からの年表を見ると「紀氏」の記載が多々ある。

真野氏は、若狭国のどこへ転出したのかは、後で調べることとし、平安から鎌倉に近江国から若狭国へと本拠を移していたのが、本郷氏だけではなく、真野氏もであったことに共通点を感じる。
しかも、真野氏は高島郡を足掛かりにしていたとすれば、安曇川のこともあり、当然賀茂氏とのつながりもあったのではないだろうか。(舟木という地名が高島郡にもあった。)

因みに、本郷氏は承久の乱後に本拠を若狭国へ移している。

北船木・船木崎が見える


海洋センター近くの緑の矢印が「永田」である。下に「音羽」が見える。船木とは目と鼻の先!


北船木の上に「太田」がみえる。「大田荘」があった名残ではないだろうか。


緑の矢印は「太良庄」である。名前が今でも残っている。


太良庄に「丹生神社」が見える。緑の矢印


太良庄の近くに加茂という地名が見える。


太良庄から高島郡船木崎や永田付近までが見渡せる地図 左上に飯盛山が見えるが、その方向に本郷がある。


===*===

因幡国では、長田氏が在庁官人であったように「富城氏」も在庁官人として働いていた。(九里氏と名のる以前のことである。)
近江国では、近江八幡内に長田という地名があり、九里(金田庄・金剛町)と同じ蒲生下郡本郷内であった。
そこには九里・賀茂・長田が住んでいたと思われる。

九里は舟木庄の代官も勤めていた時もあった。(応永・明応年付近)
高嶋郡の永田氏はもう一つの安曇川の舟木庄近くに住し、しかもその後、近江八幡にも移ってくる。

賀茂氏は久々に接点が出てきた感じで、嬉しい!








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