(1)
まず、(1)系図の中にいる人物で、わかりそうな人から探ってみた。
左の和田実家妻の「和田実家」とは?
福井県史によると「和田平井七郎実家」であるそうで、以前から気になっていた「星谷寺」(しょうこくじ)の鐘の人物と重なるのではないだろうか?
『武蔵の川越には鍛冶町があり、相州から平井某という者が来て鍛冶を伝えたといわれます(『武蔵三芳野名勝図会』中島孝昌)。「相模のどこからか不明だが、平井は星谷寺梵鐘の銘文にある大檀越沙弥西願(佐々木一族愛智四郎太夫家行の子平井権守家次の次男康家〔泰家〕は平井七郎、法名西願)の本姓であるので、もしかしたら、飯山の鋳物師は平井姓で、西願が故郷(近江平井、現愛知川町平居)から伴った鋳物師かもしれない」と、野火さんは考えられています(カッコ内は適宜補足しました)。』
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/imoji1.htm
他のweb情報では、
『坂東三十三観音第八番札所、星谷寺にある鐘です。銘文中に「源朝臣信綱」の名があり、これが鎌倉時代の武将、で佐々木信綱あると言われ、佐々木氏の相模国在住を裏付ける物的資料として唯一のもので、日本史の上でも重要な資料とされています。国の重要文化財に指定されています。』とあり、
『千葉胤綱の娘』が佐々木信綱の妻として嫁いできていたかもしれない傍証にもなりそうだろうか? 信綱(1181‐1142年)
===*===
この信綱と大檀越沙弥西願(佐々木一族愛智四郎太夫家行の子平井権守家次の次男康家〔泰家〕は平井七郎)
さらにその西願と同一人物ではないかもしれないが「和田平井七郎実家」
鋳物師を使い鐘を作っていた…。これは神社関係である可能性もあり、清原氏・中原氏・大中臣氏的な感じがする。
特に同時代、仲原景経も鐘を作らせ銘を入れている。
===*===
蛇足と思うが、東郷氏にも胤の字がついているので調べてみると、信綱との関係が見える。
永田氏だけではなく、信綱の娘の婿となった長井泰重の関係から以下の東郷胤時や飽浦氏とも繋がってくる。
佐々木哲学校によると
http://blog.sasakitoru.com/201003/article_1.html
まず備前守護となったのは信実の三男時秀(東郷氏)であり、信実がのちに次男実秀(大友二郎左兵衛尉)に相続させようとしたところ、幕府はその所領を没収してしまった。実秀は幕府に所領回復を愁訴している。
そのあいだ大江広元の子孫長井泰重(因幡前司・備後守護)が備前守護を兼務した。
備前守護職は実秀の孫長綱(小島太郎左衛門尉、筑前守)が東郷胤時(時秀の子左衛門尉)の女婿になることで、小島実綱・長綱父子に受け継がれて佐々木加地氏が回復した。
こののち備前守護佐々木加地氏(小島氏)は太郎左衛門を通称とし、東郷胤時の子胤泰(十郎左衛門尉)は飽浦氏を名乗っている。
「武蔵の川越には鍛冶町があり」
今は公園しか無いみたいですが、夕方涼しくなったら散歩してきますね。
拙句
やっぱりね家が良いとて初冷房
まだ、何かしら痕跡があるかも、ですね!
平井氏もいくつか流があり、この西願は愛智四郎の系。
佐々木信綱の曾孫平井師綱が「平井氏の祖」
ともあり、複雑です。
さて、今日は図書館に偵察に行って、武蔵三芳野図絵を借りて来ようと思います。
実は、3月で仕事を止め、3ヶ月引きこもりをしていますが、何の目的も持たない人生に憧れていましたが、何か目的を持つ必要に目覚めた所ですので、気軽にお申し付け下さい。
拙句
春過ぎて夏至るらし夜さんぽ
(北海道の夏至は8時頃まで明るいとか。朝は3時かと存じます。将に、雲のいづこに月宿るらむですね)
プレート一枚、発見ありがとうございます!
私は家で義母の介護をしていた際に、音を出さずに、静かに活動できるものとして、叔父の歴史探訪をインターネットで調べることを始めました。
歴史は飽きがこないことがわかり、はまっています。
そういえば、小さな頃から「宝探し」が大好きだったので、小さなことを見つける事、が好きなのかもしれません。海岸で丸くなった硝子のかけらを拾うみたいに。
北海道の夏至は8時まで明るい?のでしょうか?
今夕様子を見てみます!
Jikan様、お時間ができましたこと嬉しく思っております!
また、懲りずにお付き合いくださいませ!
夏至に日食が重なっていたのですね。
372年ぶりとか。すごい一日だったのですね。
何も知らずに過ごしていました。。。