和田義盛の息 義氏は和田の乱、40歳で歿しているようなのだが、
其の裔に関して、ココに書き留めておきたい。
義氏の息は平尾盛氏となり、この盛氏の後裔盛継の代から伊勢国小浜に住んで姓としたそうである。(静岡県苗字の話より)
更に
寛政重修諸家譜によるとその盛継の代に北畠顕家に仕え小濱の郷を領せし‥‥とある。
次に、巴御前との息とも言われている 朝比奈義秀なのだが、浜辺に六艘の舟を用意してあり、家来総勢500人を引き連れて安房国へ逃げ延びた説、高麗にまで逃げ延びた説などが残っている。
和田朝盛は義盛の孫である。この人物こそが源実朝のすぐ近くに仕えていて、しかも和歌が得意であったためもあるのか、北条泰時とともに学問所番を仰せつかっている。吾妻鑑には実朝御寵愛ともある。
彼は、進退きわまって出家、実阿弥陀仏と号して上京してしまったそうである。
鎌倉殿の13人では、和田義盛と源実朝が親しかったように描いていたが、
孫の朝盛とは本当に親しかったことが記されている。
承久の乱では京方につき、その後は尊長の嘉禄3年(1227年)京においての謀反計画にも参加していた様子も見られる。
因みに尊長の父は一条能保である。その配下に中原政経がいた。