柳原淳光 やなぎはらあつみつ
1541年生まれ 安土桃山時代の公卿 1597年没
という事は 、
柳原黄門様=淳光 登山の時には1576年 35歳
この柳原氏と共に【卿】と呼ばれている人物は
橋本家 橋本公夏の養子となった橋本実勝〈天正16年(1588年)横死して家系は中絶。〉
ではないだろうか?
公夏の本当の父は一条実久であった。
(鎌倉時代、一条家にも家司として仕えていた中原政経の一条家とは別カ?)
この橋本家は、西園寺公相の四男橋本実俊を祖としている橋本家である。
実勝の養子の実村の弟実清(梅園実清)は分家して梅園家の祖となった。
年代的に見ても、高野山文書に柳原淳光と共に名が登場しているのは【橋本実勝】ではないかと思われる。
・・・九里氏は鎌倉時代からそうであったように、日野家の被官である(家司・荘園管理)。
その日野氏から分かれた柳原家である。
また、橋本家も同様に西園寺家から出ており、西園寺の家司には中原清業がいた。
一条家の家司には中原政経がいた。(その一条家とは別かも知れない…)
これは、中原氏と九里氏つながりがあった事の証にもなるかもしれない。
橋本公夏の孫養子実勝に仕えていたのが九里兵右衛門となろうと思われるのだ。