伊賀の方、が義時に毒を持ったのだろうか?
その説はどこから来たのかというと、藤原定家の日記だそうである。
藤原定家の日記に聞き書きとして、書かれているようである。
尊長のことが基長と出ているそうなのだが、何か意味があってそのままの名を書かなかったのかもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E9%95%B7
捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたといい、探題の時氏・時盛らを驚愕させたという(『明月記』6月11日条)。
但し、批判をしている学者さんもいらっしゃるので、鵜呑みはよくないが、北条政子は、何かを感じ取っていたに違いない。
伊賀の方は「政子の命によって伊豆北条へ配流となり、幽閉の身となった。4ヶ月後の12月24日、危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後死去したものと推測される。」
伊賀光宗は政子が亡くなった後に泰時に許され、幕府に戻っている。
尊長が一条実雅の兄弟であったことが重要なポイントではあるが、実雅よりも30歳年上の尊長である。
この下のgooglebooksは、かなり長く読める。明月記研究 5号: 記録と文学 明月記研究会 編集
p. 165前後に詳しい当時の状況が書かれている。
読めないかな?と思ったページも上の-マイナスボタンを押すとカチカチ押すと出てきて、また大きくすればよい。(秘策)
https://books.google.co.jp/books?id=Xn10zgu5ycUC&pg=PA165&dq=%E5%AE%9A%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%B0%8A%E9%95%B7&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj17LPYkbHuAhWpw4sBHeNABOMQ6AEwA3oECAAQAg#v=onepage&q=%E5%AE%9A%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%B0%8A%E9%95%B7&f=false