伊賀朝光は建保三年に九十四歳で没していることになっている。
1215年である。
娘の伊賀の方が後妻となっているという事はその前の室「姫の前」と別れた後であったと理解すると、1203年比企能員の変の前後に別れたと考えられ、其の後に入室という事になる。
1205年に「北条政村」が生まれる。
そこで伊賀朝光の年齢と比較する。
1205年、孫が生まれた時は84歳。
しかも、伊賀の方は二十歳ほどであったと仮定すると六十四歳あたりに生まれたとなる。
ちょっと違和感が残る。
さらに、系図纂要によると光季のあと、光宗・北条義時の室・結城朝光の室・光資(宗賢)・朝行(寂阿・鎮西配流)・光重(光心・鎮西配流)と続く。
末っ子の光重は貞応三年に兄の朝行と共に鎮西に配流され、文応二年1261年に四十六歳で没していることになっている。
光重1261年に46歳、ここに疑問符が付く。
伊賀朝光の息光重(光季の兄弟)が1215年に生まれていることになるのである。
これは、伊賀朝光が九十四歳で、歿した年である。
すべて養子と養女なのかまたは朝光の後に、もうひと世代間に入っているのか。。
伊賀朝光は1199年七十八歳で「左衛門少尉」、
1206年八十五歳で「従五位下」
1210年八十歳で「伊賀守」
1211年九十歳で「従五位上」
と、長寿であったためだろうか、官位がどんどん上がっている。一体どうしたことなのだろうか。
そこで、一家繁栄のために、これぞと思った人物を養子として入れたのかもしれない。
光重の場合はまだ赤子であったのだが…
===*===
さらに、伊賀の方の事、土岐氏との関係等、次の記事にしたい。
姫の前は、義時室で、源具親と再婚と記憶しているのですが、義時後妻が伊賀の方ということでよろしいのですか?
比企の資料が少なく、将に不要不急でどこにも探しに行っておりません。もう少々お待ち下さい。
拙句
おお寒と読みたくもなるけふのかぜ
(風と風邪、季語は大寒(だいかん)です。あちらでクラスター発生しております)
鋭いご質問ありがとうございます。
私も詳しくはありませんが、下記に「姫の前は離別されていたのだろう。」。。。とあったものですから、比企の変の直前・直後にでも、そのようになったのかと思いました。
https://books.google.co.jp/books?id=9a5MAQAAIAAJ&q=%E5%A7%AB%E3%81%AE%E5%89%8D%E3%80%80%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%9C%9D%E5%85%89&dq=%E5%A7%AB%E3%81%AE%E5%89%8D%E3%80%80%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%9C%9D%E5%85%89&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjSheio1LHuAhWBE4gKHTaGB54Q6AEwAnoECAUQAg
かなり、いいかげんですね!スミマセン。
例えば「是より先、義時の後室伊賀氏、伊賀光宗等と謀り、女婿藤原実雅を将軍と為さんとし、密に三浦義村を誘ふ、政子、義村を諭し、伊賀氏、光宗を流し、実雅の罪を朝裁に俟つ、」と出てきます。
その後、義時の「伊賀の方」の身体の調子が悪くなります。もしかして、何にも知らずに「薬」と思って義時にあげていた物が、毒であった…とか、でショックを受けていたのかもしれません。
悪女と言われてしまっていますが、真相はわからないと思います。