伊賀光季の四人の息たちは、何れも十歳以下であったという。政子が涙を溜めながら、その息たちを慰め、奮い立たせようと、声をかけ、領地も与える。
幼い子どもたちへの深い配慮だと思っていたのだが、この時代に武士である親が戦いで歿してしまう事は数多あったであろうと思う。
平等にそのようにしていたのではなく、義時の後妻の兄であったからか?と調べてみた。
それもあったろうが、プラス二階堂行政とその周辺が関係すると思うのだ。
伊賀光季の母は二階堂行政の娘という。
そしてこの二階堂行政の父は工藤行遠、母は藤原季兼の娘(藤原季範の妹)なのである。
藤原季範といえば、源頼朝の母である由良御前の父親である。
しかも、季範の母系から尾張氏の血が入っている。
さらに、由良御前は頼朝だけではなく、希義・坊門姫(一条能保室)も生んでいる。
そこから、一条家とのつながりが生じ、北条義時と伊賀の方の娘が嫁いだ先が一条能保の息であった実雅なのである。
尾張の血が入っているという事は、大江氏・中原氏とも近い!のである。
尾張貞親が中原広忠の祖父であり、其の広忠が大江広元の祖父なのである。
源頼朝は、熱田神宮と由良御前周辺の関係をことさらに大事にしていたと思う。
乳母との関係もそうだが、幼い時を支えてくれた人を大事にしていると思う。
その人たちがあって、今の自分がいることを、意識していたのかもしれない。
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更にこの季範の系である「藤原南家貞嗣流」の貞嗣は、
藤原巨勢麻呂の息の名で、黒麻呂と兄弟である。