もうそろそろこのブログも終わるのか?と思い始めた時に、驚くべき失敗が発覚された。もちろん、私の失敗である。
賢清には「中太」と註がある。中原太郎の略である。
つまり、長男であったであろうと思われる。
景経が長男
経任が次男 となる。
この中原景経に関しては、井ノ口日吉神社書中のその名を記す一節があり、今は損失した「富永荘御鎮守新日吉神社 文永五年」銘の写し中に、願主の一人として「御庄奉行人仲原景経」の名がある。 (佐野静代 水と環境教育の論文紀要より )1268年 → いつのまにか写し自体が文永五年と読み間違えていたようだ。
これは大変な失敗と思う。
文永5年基軸に考え直さなくてはいけないと思う。
1268年迄生きていたという事になると、90歳まで生きていたとしても1178年には生まれている。その弟の息子が経久である。1175年に生まれたと思っていた経久だが、そのようにはならないことが分かった。
という事は、片岡経久ではないことが確実になる。
景経は70歳まで生きていたかもしれないし、確実性はないのだが、軸がズレた事は間違いないと思う。
ヤレヤレ‥‥
考え直そう。
真実は一つなので、それに近づかなくては意味がない。
考えようによっては、修正されなければならない箇所が発見されたのである。
1244年には文書が残っている。
景経は、幅を持たせて考えるが、1178-1204年辺りに生まれた可能性。
1244年の頃、40歳と仮定してみた。
1268年の頃、64歳である。
経任(景経の弟)は、1180-1206年あたりに生まれた可能性。
経久の生まれは、1196年ー1215年となる可能性が大きい。
という事は常忍が1216年生まれなので、兄弟、叔父甥の関係の可能性。(法然の弟子という説はほぼ無くなる。)
復習を兼ねると…
丹波国河守庄地頭職、因幡国国衙官人・冨城郷地頭職、そして、肥前国高来郡深江郷領主相伝…(ここは、そのまま保存しつつ進めてみようと思う。)
何れも文書に残されているのが 1239・1247・1249年である。
何れも文書に残されているのが 1239・1247・1249年である。
1239年が一番早い。この頃【沙弥蓮忍】である。
1250年あたりに関東に戻り、常忍が千葉氏の許で働く。1249年には【蓮忍入道】である。
蓮忍は50歳あたりに任務を終えたことになる。
という事は、1185年に生まれた富木常忍の母は、経久の姉に当たるようになるのかもしれない。若しくは、常忍の母は経久の母でもあるのかもしれない。
今までの想像は、崩れ、もう一度一から考え直さなくてはいけないと思う。
ただ、文書に残っていることはそのまま使えると思う。
藤原頼経・藤原頼嗣の時代である。
頭の中はまだ混乱している。
memo 1327年・1333年唐崎合戦 佐々木時信