昨日の記事の中『建久中、大友能直に従って下向し、富来に住し姓を富来に改めている。初代実貞は紀祐安男で、永井
石見守,富来左衛門尉と称し富来氏系図によると1 紀長雅・秦氏四子』
「紀長雅 秦4子」この部分は何を現しているのであろうか?
日本の苗字七千傑さんの系図では「初代実貞は藤原姓三田氏からの養子となっている。」???
まず、富来氏と紀氏を調べていくと、昨日の情報のほかには以下のようになった。
web「紀のルーツ」さんより部分を貸していただくと、(豊後国の六郷満山)
「長安寺」天台宗
・山号:金剛山
・六郷満山の中山本寺、鎌倉時代に入ると六郷満山の
100以上の寺院を統括する地位を占めた
・開基:仁聞菩薩
・太郎天像の胎内銘に紀季次=末次の名
・1141 長安寺の銅板経の作者の名に
紀重永・紀長雅の名
・住所:豊後高田市加礼川635(新城)
永松氏 稱紀臣族
・紀長谷雄→諸雄→季国→季次→神首(永松)
・大友能直に従って豊後に下った紀氏
・永井刑部助実貞を祖として、
・富来氏、野原氏をへて永松氏と称する
。
・田原別府の「永松名」を名字の地とする永松氏の系図
・石清水八幡宮別当頼清ー紀祐安ー紀実貞
(宇佐八幡宮領 豊後国 田原別府 と思われる。)
野原氏は調べもの中にどこかで出会った苗字であるが、永松氏は初めて。
そうだ、野原庄という荘園があった。
平安時代(11世紀) 宇佐八幡宮に寄進されるという形で荘園として成立。やがては京都の石清水八幡宮にも寄進。
野原庄は肥後国にあり、はじめに地頭職を与えられたのは関東御家人で毛利季光(もうりすえみつ)。この人は毛利氏の祖であり、大江広元の息である。兄に長井氏、中原師業の妻になった妹がいる。
ここで、石清水八幡宮が出てきた。確かに関係していることがわかる。
行政改革と公務員の権利 法律文化社 片岡二著
また清原氏も同様の家柄で、大外記を伝え十二世紀の頼業の代に大いに栄え局務家の
一つになつが。清原祐安は頼業の弟で、造酒正等を歴任し中山忠親等の家司も勤めた
。それが大外記中原師元の養子となり中原姓を称したという。この祐安の子が職国で ...
清原祐安は頼業の弟で、造酒正等を歴任…(中世公家と地下官人)
...
上記で中山忠親という藤原忠宗三男の法華花山院流という名も挙がってきたので、追記する。(コトバンクより)
中山忠親
[生]天承1(1131)
[没]建久6(1195).3.12.
平安時代末期,鎌倉時代初期の廷臣。父は権中納言藤原忠宗。長寛2 (1164) 年参議,以後,権中納言を経て寿永2 (83) 年正二位権大納言。高倉天皇の中宮徳子 (平清盛の娘) の中宮権大夫,安徳天皇の皇太子時代の春宮大夫 (とうぐうたいふ) をも兼ね,一方では後白河上皇の院庁 (いんのちょう) の別当でもあった。文治1 (85) 年源頼朝から議奏公卿に推された。建久2 (91) 年内大臣,同5年 12月 15日出家。朝廷の儀式や故実に詳しく,『貴嶺問答』がある。日記『山槐記』は当時を知る好史料の一つ。歴史物語の一つ『水鏡』も彼の作といわれる。彼の筆跡『神護寺四十五個条起請文』は有名。晩年,中山 (黒谷の地) に別宅を構えたため,中山内大臣と称された。
清原頼業 きよはらの-よりなり
1122-1189 平安後期-鎌倉時代の儒者。
保安(ほうあん)3年生まれ。家学の明経(みょうぎょう)道をつぐ。治承(じしょう)3年高倉天皇の侍読,文治(ぶんじ)3年記録所寄人。学識と政治手腕の持ち主として知られ,摂政九条兼実(かねざね)を補佐して,後白河院に政策を上奏する。文治5年閏(うるう)4月14日死去。68歳。のち清原家中興の祖として京都嵯峨(さが)の車折(くるまさき)神社にまつられた。
「紀長雅 秦4子」謎のままで、解明できなかった。。。残念。