「新古今和歌集の部屋」のブログ著者【自閑さま】が犬上郡を訪れた際、写真を撮ってきてくださったことから、またこの時代に思いを馳せてみる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/e96af6bae6f8145d93d6c28617fabad6
この豊郷町は「中原成行」がいた場所、開発した場所でもあると思う。
https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/567982251a90ca7408e2db1d56e893f0
愛知神社の由緒
「開化天皇の子孫、恵知(智)王によって創建された神社です。平安時代の初め惟喬親王が難を逃れて近江に来られた時、ここで病気になりました。ここで病気が快復するために神社に御染筆の祈願札と刀剣一口を献上したと伝わります。また、鎌倉時代になると近江守護の佐々木秀義の六男吉田巌秀が吉田城主となりました。その時、神のおつげで弓術の奥義を授かり、佐々木氏も武神として敬いました。その後、室町時代にはいると戦乱のため焼失しましたが、近くの正覚寺の復興と同時に再建されました。明治以前は春日神社と呼ばれていましたが後、愛知神社に改められました。」とあり、
なぜ春日神社であったのかを考えるに、開化天皇の皇居が春日率川宮(春日之伊邪河宮)であり、御陵所が春日率川坂上陵であった事と関係があるのだと思う。
wikipediaの開化天皇の二人の息子のうちの一人である【彦坐王(ひこいますのみこ)】(もう一人は崇神天皇)によると「『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子である[1]。同書における子女に関する記載は、垂仁天皇紀において丹波道主命が子である旨のみである(ただし丹波道主命は彦湯産隅王の子という異伝も併記)。
『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた第三皇子とする[1]。続けて、王の子女に関して次のように記載する(表記は『古事記』を第一とし、括弧内に『日本書紀』ほかを記載)。・・・(この系から神功皇后が出る。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/彦坐王
妃:袁祁都比売命(おけつひめのみこと) - 彦坐王の母の意祁都比売命の妹。
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)
孫:迦邇米雷王 - 子孫に息長帯比売命(神功皇后)、息長日子(吉備品遅君祖、針間阿宗君祖)、大多牟坂王(多遅摩国造祖)ら。
何だか、今まで調べてきたことと符合する点も多く、ドキドキが収まらない。和邇氏と神功皇后とが出てきて、しかも中原氏のいた土地で…偶然が重なりあって。
開化天皇のもう一人の息子だった崇神天皇の皇居は【磯城瑞籬宮】であったそうで、その宮を調べてみると「磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は日本書紀に記載されている崇神天皇王朝の都。現在、磯城瑞籬宮は奈良県桜井市金屋にあったとものと推定されており、志貴御県坐神社には大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられている。本宮の北側には三輪山(大神神社)が鎮座する。周辺には纏向遺跡をはじめとする古墳時代前後の遺跡が存在し、箸墓古墳やホケノ山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、垂仁天皇陵などの巨大前方後円墳群が点在する。」とあり、
安寧天皇の第3皇子、磯城津彦命の後裔の十市宿禰有象が中原姓を賜姓されたことに始まるとの伝承ともリンクしてくるのではないだろうか。(石園座多久虫玉神社)
そして、米原にある日撫神社とも。
http://www.geocities.jp/engisiki/oumi/bun/oum220902-01.html
お名前もらうのがいい事なのですけどそれで見えなくなる事もありますもん。
春日の若宮あたりも気になってきましたよ。巨勢姫もね。そこは今はおいておいてもっと調べられるのが十市ですね。
奈良では高市という地名はますね。で祖父の方は十三(トミ・ジュウソウ)でこれが混ざっているようにも思うんですよね。
なので高尾張+和邇で奈良にどこにいたか?ですね。田原本町あたりだと面白くなりますよ。6785
惟喬親王も毎回のお約束キーワードです。在原業平との接点は知りませんでした。びっくりです。
最後の米原も古い古墳発見されてますよね。
楽しみです。
春日神社ももちろん関わるんですよね。東京でも。犬上なんで和邇鮫が犬なのかなあ?犬の年終わる前に理解したいです。河内っていうところには和邇氏がいると理解したら近江、大阪、そして奈良まで繋がってその後和邇氏の痕跡が消えたとも思えますよね。2700
豊郷は、新興住宅地が多く、また古い社が多数有り、信仰が継承されて居ました。
元は春日神社と呼ばれていたので、鹿の銅像が建っていたんだと思います。
惟喬親王は、伊勢物語の在原業平が仕えていて、また木地師にろくろを伝えたとして、滋賀県では多く祭られています。
拙句
鈴鹿には雪も見えける春荒田