天武天皇に『泊瀬部』という娘がいた。
『泊瀬部皇女』、またの名を『長谷部内親王』
コトバンクより↓
?-741 飛鳥(あすか)-奈良時代,天武天皇の皇女。
母は宍人〓(“木へん”に「穀」)媛娘(ししひとの-かじひめのいらつめ)。天平(てんぴょう)9年三品(さんぼん)をさずけられた。持統天皇5年川島皇子をほうむるとき,柿本人麻呂が皇女に献じた歌があるところから,川島皇子の妻だったという説が有力。天平13年3月28日死去。長谷部内親王とも。
母は宍人〓(“木へん”に「穀」)媛娘(ししひとの-かじひめのいらつめ)。天平(てんぴょう)9年三品(さんぼん)をさずけられた。持統天皇5年川島皇子をほうむるとき,柿本人麻呂が皇女に献じた歌があるところから,川島皇子の妻だったという説が有力。天平13年3月28日死去。長谷部内親王とも。
天武天皇の皇女で、母は宍人大麻呂の娘
泊瀬部皇女は天智天皇の息【川島皇子】に嫁ぐことになる。
43.に長谷部内親王の名がある。741年 薨去
長谷部内親王の母は【宍人大麻古の娘という】
宍人カジ媛娘(ししひと の かじひめのいらつめ)↓
宍人カジ媛娘(ししひと の かじひめのいらつめ)↓
嫁ぎ先の川島皇子の系より 淡海豊庭が出ている。847年
河島皇子とも記される。天智天皇の第二皇子。冠位は浄大参。
淡海朝臣・春原朝臣などの祖。
大津皇子と仲が良かったはずなのだが、大津皇子に謀反の意があると川島皇子が密告したことになっている。
が、このことも疑いの余地がありそうなのだそう。
ここをもう少し調べてみようと思う。
さらに宍人氏のことも、。
さらに、川島皇子の裔には【淡海氏】がいるとのことで、ココが江州中原氏につながりがありそうなので気にかかっている所である。
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天智天皇の許に生まれ、天武天皇の娘を娶り…という難しい立場に立たされてしまった川島皇子。
時は686年。天武天皇崩御したのが当時の9月9日で、10月2日には謀反の意あり、と密告・捕縛となったようである。大津皇子は23歳。川島皇子は29歳の時になる。