この 久里九兵衛 ・ 九里武兵衛 が、弘前藩にいた。
武兵衛方‥‥とあるので、武兵衛が家の主で九郎衛は、弟か、息か、甥か、と想像できる。が、同一人物かもしれない。
津軽での事件に巻き込まれたのは「久里九兵衛」であるのか?
「九里武兵衛」であるのか?
彼の名「久里」を九里とすると「九里九兵衛 慶長五年に利長が大聖寺の山口宗永へ降伏するよう使者として派遣されるが断られ戻る。大聖寺城で戦い、金ケ丸で戦没。」とあるので、その裔となりそうである。
しかし、近衛氏の猶子(庶子)となった大浦氏に仕えることとなった者もいたかもしれない。大浦光信の娘(阿久)が尚通の子・大浦政信を産んでいる。尚通が25歳の時の息と成る。
政信は1541年に歿している。
九里源兵衛と但馬が赴いたわけではなさそうなので、また何か新しい情報が入った際に戻ることとし、
九里但馬の周辺を探したい。
なんせ、大和国と関係がありそうなので、大和宇陀松山藩の九里に距離が近い!