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和邇氏(丸邇氏)の伝承(3) 仁徳天皇

2018-10-22 | 古代 和邇氏

昭和59年に出版された「践祚大嘗祭と古事記」 坂橋隆司著を繙きながら、書いている。

この方は大正15年生まれだそうで、あとがきに古代、特に「古事記」との出逢いについて書かれている。

一部をご紹介したい。

『 古代ほどロマンに満ちた時代はない。古代の作品を読み、考古学による出土品などを見ていると、古代への夢は果てしなくふくらんで行く。
 ところで、私と古代、特に「古事記」との出逢いは遠く四十数年前の中学時代に遡るが、本格的なつきあいは終戦後である。私は当時の学生が誰も彼もがそうであったように、学業の途中で軍隊に行った。この軍隊生活も一年有余で敗戦、みじめな思いで帰郷し、やがて復学という事になった。
 
 戦争で焼き払われた東京は、ごみとシラミと闇屋と、打ちひしがれて魂の抜けたような人間の住むカラカラにかわいた砂漠のような街であった。学校に出て行っても学生はほとんどいないし、授業も休講が多かった。私はそれでも毎日のように、戦争の傷を背負って重い足をひきずりながら、学校に出掛けて行って、授業を聴いてはこれからどうしようかと思案する毎日であった。こんな或る日、一年先輩の吉田義孝さんと出逢った。吉田さんは高崎正秀先生の寵を受け、予科生の頃から国文学の民族学的な研究をする学究として、そのひらめきがすばらしいと、評判の高かった人である。その頃吉田さんが、高崎先生の所属していた折口研究室からわかれて、新しく出来た武田祐吉先生の研究室に移り、そこで勉強していた。その吉田さんが「研究室に記て武田先生、佐藤先生の輪読会に出ないか」と誘ってくれた。
 
 ちょうどその頃思案にくれていた私だから、そのさそいにのって研究室の輪読会に出席した。これが大学だという実感を得たのもこの輪読会であった。一旦こうときめると、なにごとにものめりこんで行く私だったから、この研究室の中の生活にも、ぐんぐんのめり込んで行った。

 翌年から学部の授業も本格化し、武田先生が古代学(「古事記」)を講ずるようになった。…』

その古事記の研究の続きを読ませていただいている訳である。

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第三節 仁徳天皇物語の構成

まず、関係性を把握してから本の内容に入りたい。

仁徳天皇:父は応神天皇。母は仲姫。
陵は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)大阪府堺市大仙町にある。


仲姫とは…景行天皇ー五百城入彦皇子(母は八坂入媛命)― 品陀真若王 ― 仲姫
となる。

備考:
五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ、『日本書紀』に因る)[1]は、古墳時代の皇族。景行天皇の子で、母は八坂入媛命。同母兄に成務天皇などがいるほか同母弟が5人、同母妹が5人、異母兄弟に日本武尊など68人いるといわれる(うち名が伝わっているのは46人)。父景行天皇は、それらの皇子たちをそれぞれの国や郡に封じたが、彼と成務・日本武尊の3人だけは封じなかったと、日本書紀に書かれている。
そのうち日本武尊は熊襲征討に行かせたことから、彼は万一成務天皇に何かあった場合の予備だったと考えられる。
子に品陀真若王(応神天皇の皇后・仲姫命の父)がいる。

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仁徳天皇の物語 あらすじはこちらより
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1006099328.html

「異母兄の大山守命とともに、父の応神天皇から、「兄弟の中で、長じた者と、幼き者、どちらを愛すべきか」と問われ、大山守命は「兄」と回答する。

しかし、大雀命は天皇の御心を察して「兄はすでに長じており心配はないが、弟は幼く、愛すべき」と回答。

これによって、大山守命は若干遠ざけられ、大雀命が重用され、同時に二人にとっては異母弟に当たる和紀郎子が皇太子に指名される。

応神天皇が崩御した後、大山守命が皇太子の和紀郎子の殺害計画を策定。実際、軍を起こす。大雀命がその動きを察知し、和紀郎子に知らせ、和紀郎子も策を練り、結果は和紀郎子の勝利、大山守命は死す。

異母弟で皇太子の和紀郎子から皇位を譲られるが、固辞。お互い譲り合って皇位が空位となったため、海人が困るなど、若干の混乱が見られたが、和紀郎子が早世したため、即位。」

坂橋氏の本からだが、
「神田秀夫氏はこうした『古事記』と『日本書紀』との筆録の相違から、このことを、若し『古事記』が記すように、太子が夭逝されたのであるならば、『日本書紀』のように「自死(自殺)」と筆録するはずもないし、譲りあっていたほど仲のよいものの一方が、自殺するという必要もないはずだとされて、自殺も夭逝の潤色ではなく、対立して年を越した太子が、仁徳に攻め滅ぼされたと見るべきであると説かれ、この対立の背景には、奈良の春日の丸邇氏と、葛城氏との争いがあったと思うと述べられておられる。」

「即位に関する美談の主である仁徳天皇の説話も、『古事記』と『日本書紀』との記載の矛盾を通して考えて見て行くと、皇位の譲り合いという美談も、実は互いに皇位の継承をめぐっての抗争があって、しばらくの間即位されないでいた事であり、夭逝ということは、攻め滅ぼされて自殺したということになるのである。

 ではどうして、『日本書紀』のような別の事実があるのに、『古事記』ではそれを、太子が夭逝したと表現したのだろうか。神田氏はそれについて、これは仁徳以下十代が、仁徳の出現を合理化するために加えた、伝説の変容であるとみるほかはないというように説かれておられる。」

略 (仁徳天皇と仁賢天皇のパターンと似ていることを示唆)
以下は、本の文章そのままではなく、少々短くなるよう手を加えた。

「古事記としては、応神天皇は『宇遅和紀郎子』に王位を次がせたかった、その気持ちをおもんばかっていた仁徳天皇の答えや、大山命に殺されそうになった際の仁徳天皇の助言も無にせずという物語にしたい。

しかし「宇遅和紀郎子」が自死に至ってしまった事実は前後矛盾となってしまう、「自死」に至る過程に、何かあるということを明らかに示していることになると、大山命と同列かそれ以下に評価されてしまう可能性もあることから仁徳天皇の業績をそのままにして、しかも何の矛盾もなく、合理的に仁徳の即位を語る為には、自死ではなく夭逝と表現する必要があって、長い年月の間に作りかえられていったのではないかと思う。…」

仁賢天皇の場合は、仁徳天皇の場合と異なって、兄である天皇が、弟の顕宗天皇に位を譲られ、弟が先に位に即きしかる後に、弟の崩御によって、皇位を継承しているといった違いがあるが、『古事記』に記載されている説話の類似といい、また、自分達兄弟の皇位継承を正当化し、合理化して語らなければならないような境遇にあったということから推せば、この類似は、単なる類推とばかりだけでは片づけられないのである。」

・・・とある。

~~~*~~~

つまり、隠された事実は美談ではなく、何か悪しきことがあったという証拠であろうと思う。

それは、古事記を作成した者たちにとって、古事記は単なる物語ではなく、不都合な真実を含んでいると認識し、後に残ることを考えて都合の悪い部分を改変したと考えて間違いなさそうである。

この第三節では、丸邇氏と、葛城氏との争いのことをもう少し詳しく調べてみたいと思った。後日、記事にしようと思う。

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私は長年に渡り残っている書というものに興味があるらしい。
「古事記」もそうだが、「聖書」もそうである。

聖書の場合は、翻訳の問題も大きい。
新約聖書の場合だが…
キリストはアラム語をしゃべっていたという。
新約が本になったのは、ギリシャ語からと思われる。(諸説ある)
アラム語⇒ヘブライ語⇒ギリシャ語⇒ラテン語⇒英語・ドイツ語他に訳されて、やっと日本語なのである。

この煩雑な翻訳を経ているうちに変容してしまうのは、致し方ないかもしれない。

それを一度そぎ落として読んでみよう!と言うのが「田川建三の新約聖書 訳と註」である。これは、ギリシャ語から直に日本語となっている。だいぶショートカットである。

『マルコによる福音書』を先生と仲間で読み終わり、今、マタイの中盤であるが、キリストがやけにそっけなかったり、当時の教会の偉そうな文言が並んでいたり、と、一人では見逃してしまいそうな点も指摘され、面白い。
聖書研究なのだが、クリスチャンでもないので、色眼鏡なく読むことができているのでは、と思う。

もう一つは道元。こちらは途中でやめてしまったが、道元の話している言葉がそこにあり感動。
「正法眼蔵隋聞記」である。
鎌倉時代の人間も、やはり今の人間と何ら変わりないことがよくわかる。
道元が弟子たちに話したことは、そのまま今の私たちにも通用することなのだ。
これも一人では挫折。しかし後に朝日カルチャーで受講し、仲間がいたおかげで、3分の1ほどだが読むことができた。自国語であることで、しみ込む。

歴史としても面白い話が載っていたりする。
道元にとっても伝え聞きだ…と断りが入っている一条基家(持明院の中納言入道)の話…長くなりそうなので次の記事に。結構楽しい!











 





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