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浅小井盛実(浅小井武蔵守)その下に「平井源八家員」・真野氏とも関係が出てくるのだろうか?

2019-12-21 | 雑記


浅小井盛実(井源太)浅小井武蔵守・佐々木宮神主(佐々木荘下司)


http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100050638/

編纂本朝尊卑分脉圖 コマ79

===*===

カイフ郡 アサコ井村 とある。(海部郡と近江国の浅小井村という意味か?)
尾張国に海部郡があり、津島神社がある。そして真野氏と関係が出てくる。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/mano1.htm

「「尾張国津島には四家七苗字と称せられる家柄があり、真野家は七苗字の一つである。四家七苗字の人々は、後醍醐天皇の曾孫、良王に従って海部郡津島に来た南朝方の遺臣の裔である。戦国時代彼ら土豪たちは最終的に織田家に属していたが、織田家没落の後は、領地を失い流浪、蟄居を余儀なくされ、あるいは神官となり、あるいは豊臣秀吉の下に属した。真野家については真野式部少輔道輔、真野蔵人が著名であり、中興系図には「真野、藤原、本国尾張、津島式部大輔道資の裔」とある。尾張には真野氏を称するものが多く、諸輪南城主柘植道昌の後裔が、近世真野氏に改称している。」
 
 *上記について補足しますと、次のとおりです。
①津島式部大輔道資は、「浪合記」には津島ではなく、真野姓の真野式部大輔道資と記され、南朝方遺臣の一人として登場している。
②四家七苗字家は南朝の遺臣として始めて津島に来住したのではなく、かなり古くからの津島を中心にした土豪集団であり、この集団が南朝方に組み込まれその後津島に戻ったと思われる(津島町史の大橋家、堀田家の項参照)、
③真野家は本能寺の変以前すでに豊臣秀吉に仕えていた。天正元年(1573)真野左近(蔵人)は秀吉から知行を与えられている(戦国人名辞典)。

尾張国海部郡津島の牛頭天王(現・津島神社)の室町期の祠官家の一つとして真野氏があり、近世までつながるが、その系譜も藤原姓を名乗るものの、具体的には明確ではない。

…と書かれている。

さらに、近江国の近江八幡浅小井町に「津島神社」があり、近江八幡市北津田町には「大嶋奥津嶋神社」(武内宿禰が成務天皇の勅で創建)がある。其の外にも今の滋賀県に神社検索ではあと6件の「津島神社」が存在する。(甲賀が3件)
沙沙貴神社 の境内社として津島神社も置かれている。

この盛実の祖母は紀下野守盛宗の娘であり、祖父は源経方(佐々木荘下司・佐々木宮神主)である。
私の手許にある宝賀先生の佐々木氏の系図に拠ると「盛実ー家実ー家員(平井源八)」となっている。編纂本朝尊卑分脉圖の手書きの部分もそのように見える。

家員は平井氏に養子に入ったのだろうか。平井源八の部分が気になる。
この家員の弟の系から「平井」の他にも「櫟」「一井」が出ているように思われる。

そしてこの浅小井氏は佐々木宮神主であり、神社にも距離的に近く、家員の弟長家は、浅小井四郎だが深尾氏として、ルーツである海部郡の方に近いところに住したという事ではないだろうか?(まだ深尾と名乗っていなかったかもしれない。編纂本朝尊卑分脉圖には浅小井としか書かれていなかった。)

この周辺と真野氏が関わってくるようで、興味深い!


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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-12-24 11:44:03
櫟って文字好きなんですよね。
木のイチイの木も大好きで。一井くんって小学校の時いたなあ。

で最近神社だかの元の場所や地名で文字あったんだっけなあ?で薬師信仰か水神信仰あったんじゃない?ってその場所調べてたら読み方が木の読み方違うんで当時この文字櫟はどんな音だったのか?気になってました。調べてみます。

あと平井って場所は東京にもありますね。最近用事でよく行ってたんで面白いなあとも。源氏関係の関わりもあったろうなあと思う川のあたりなので平井さんも注目してみます。
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