「鎌倉幕府の転換点」『吾妻鑑』をみなおす 永井晋 著 日本放送出版協会
【愚管抄】にある「比企の乱」の関する記述は、小御所にこもって戦った糟屋有季の最後を伝える使者がもたらした情報をもとに記述したため…と書かれている。
p.81
【愚管抄】の記述の特徴は、糟屋有季の動きを中心に小御所合戦を記述したことである。糟屋有季は比企能員の婿であり、娘が、頼朝の妹を妻に迎えた公家一条高能に嫁いで能氏の母となっていた。
以下は姓氏家系大辞典より
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12番に伯耆にも糟谷氏の名がみえることがわかるが、北条時益の家臣、守護代として伯耆国に関係していたようである。
その北条時益を遡っていくと、北条政長となる。
この北条政長の妻は長い時秀の娘であり、時秀自身の父は大江(長井)泰秀で、母は佐々木信綱の娘となる。
信綱の妻は、北条義時の娘である。
ここを掘っていくと浅小井(深尾)氏とつながってくる。
そして、糟屋氏の所領が大仏貞直の所領となり、やがて足利尊氏に渡される。
深尾氏の武士家伝で、以下のような一文があったが、これも関係してきそうである。
「鎌倉時代末期、当主氏輝の弟師方は北条師時の猶子となり、その一字をもらって師方と名乗ったもので、その妻はこれも北条氏一族の大仏宣時の女であった。」
この氏輝は深尾氏であり、弟が北条師時の猶子となったという事、その妻は大仏宣時の娘であったという事。
さらに宣時の孫が、大仏貞直で、2月5日に書いた記事の「貞直」のこととなり、糟屋庄が彼の所領となっていたことがわかる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%A4%A7%E4%BB%8F
「年月日未詳の足利尊氏・同直義所領目録(比志島文書/県史資3上-3141)に,「相模国糟屋庄〈同(貞直)〉」と見え,当荘は大仏貞直の所領であったが,建武中興の後,足利尊氏に与えられている同2年5月7日の足利尊氏寄進状(慈心院文書/同前3214)によれば,「糟屋庄豊部郷」のうち,雑色藤五跡の田地を尊氏が清水寺に寄進している」
大仏氏は北条氏の流れなので、糟屋氏と関係していたわけではないかもしれない。が、偶然にもこことつながってしまったので、memoに書いておく。