波斯はこのファールスの古代ペルシア語形パールスPārsに由来する。後にはササン朝のみならず広くペルシア(イラン)を指すようになった。(wikipedia)
「後にはササン朝のみならず」とあるので始まりはササン朝のことを指していたと思われる。
パルティアを内包し、より大きくなったササン朝ペルシャは 時のビサンツ帝国(東ローマ帝国)と接していた。
この国境がネストリウス派と関係すると思われる。
東ローマ帝国は当初キリスト教を国教として定めていた。
431年エフェソス公会議で、ネストリウス派をキリスト教の異端とする。
435年に追放‥‥という事態となり、この時ネストリウス派はササン朝ペルシャに逃げてきたのではないだろうか?
世界史の窓 さん のページでは、其の後にペルシャから中国を経て景教となっていったことが書かれている。
https://www.y-history.net/appendix/wh0103-159.html
この時(435年)、ササン朝ペルシャから中国を経ずに、北から廻って朝鮮半島に至り、
ネストリウス派は日本に渡ってきたか。
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エフェソス公会議で、ネストリウス派をキリスト教の異端とする。
さて、穴穂部間人(ハシヒト)皇女の父と母は、どのような人であったのだろうか?
母は蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)
父は欽明天皇、祖父は継体天皇となる。
この継体天皇の父は【汙斯王(うしのおおきみ)】という。
【汙】(オ)汙い(きたない)、汙す(よごす)、汙れる(よごれる)の意味
と【斯】(ペルシャ)の意味なのである。
この汙は、濊国(わいこく)のことなのだろうか?
上記と関係ない話だが、一つ気になったのは「蘇我善徳」という人名である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%96%84%E5%BE%B3
上記は男性だと言われているが、610年頃26歳~である。
647年迄生きていた、新羅初の女王といわれている【善徳王女】がいて、甥に武烈王・義慈王がいて、日本と関係が深かったのでは?と思わせる。
蘇我善徳は、本当な女性だったのではないだろうか?
善徳王女の従兄弟に金庾信 伽耶出身(金官伽耶(クムグァンカヤ)の王族の子孫)がいる。
額田王は金庾信娘であったかもしれないと言われているではないか!
蘇我氏とシルクロードのことも調べてみると、ネトリウス派の動きと同じ動きで一族が渡り歩いてきていたかもしれない。
アッシリア(ペルシャ以前)~…後の記事にしようと思う。