万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

何故、’資本家’はヒーローになれないのか

2021年07月15日 13時17分06秒 | 国際政治

 ドイツはフランクフルトのマイヤー・アムシェル・バウアー・ロスチャイルドを祖とするロスチャイルド家の歴代当主達は、ソフトバンクグループの孫正義氏にとりましては目指すべき’ヒーロー’なのでしょう。マネーのパワーで産業革命を牽引し、全世界を一変させたのですから(少なくとも、孫氏はこのように信じている…)。しかしながら、孫氏といった金融やITの世界で蠢くセレブな人々を除いては、資本家がヒーローとなるのは至難の業です。孫氏もSNSがフォロワー数においてトップとなった時期もありましたが、現在ではどうなのでしょうか。

 

 それでは、何故、’資本家’は、ヒーローになれないのでしょうか。その理由を見つけるに際して参考となるのは、『市民ケーン』という米国映画です。もちろん実話ではないのですが、映画には、この世で実際に起きている出来事を誰もが分かりやすいストーリーに仕立て直して娯楽とするカリカチュア的なものがあります。フィクションであるにも拘わらず、観客の頭には実在のモデルが自ずと浮かび、思わず納得とさせられてしまったりするのです。おそらく『市民ケーン』もその一つなのでしょう。

 

主人公は、世界屈指の大金持ちであり、政界への進出をも目指すカーン(邦訳では「ケーン」)氏です。興味深いことに、同映画には、選挙に立候補するカーン氏について新聞が「フビライ・カーンの再来!」と書き立てるシーンがあります。ロスチャイルド家の旧名は’カーン’とされ、また、ユダヤ人とモンゴル帝国との歴史的な関係を思い起こしますと、このシーンは意味深長です(モンゴル帝国では、ユダヤ人とイスラム教徒は、色目人として重用されていた…)。

 

 カーン氏が大富豪となったのは、雪深い寂れた田舎町で宿屋を営んでいた父親が、見知らぬ客人が宿賃代わりとして置いていった債権の価格が、その後、証券市場にあって急騰したからです。一夜にして世界第6位の大金持ちとなったのですが、この財産に早速目を付けたのが銀行です。銀行は、’お世話人’を使わして、この宿屋の息子であり、粗暴な子供であったカーン氏を引き取り、上流階級に相応しい養育を施すのです(『二都物語』にも登場するように、欧米では、銀行が顧客の子弟を養育するシステムがあったらしい…)。銀行の後ろ盾の下でカーン氏は、大統領の姪を娶り、政界進出へのチャンスをも掴みます。腐敗した既存の政界に挑む若き正義派の看板で’市民’を味方につけ、当選まであと一歩と言うところまで行くのですが、結局、政界のドンであった対立候補者によって歌手とのスキャンダルがリークされることになり、選挙には落選するのです。

 

 その後、大統領の姪と離婚して歌手の女性と再婚したカーン氏は、自らが経営する新聞社も含めて、お金の力で背後からマスコミを動かし、礼賛記事を一斉に書かせることで、歌手としての才能の無い同夫人を一躍スターに押し上げます(一方、前妻並びに前妻との間に生まれた男の子は謎の交通事故で死亡している…)。もっとも、マスコミによって作られた自らの虚像の虚しさに耐え切れずにカーン夫人は歌手から引退してしまうのですが、カーン夫妻は、あたかも’おとぎの国’ででもあるかのような、動物園を備えた大邸宅でリッチな生活を送ることとなるのです。しかしながら、豪華な装飾品や高価な調度品がそこかしこに飾られ、贅を尽くした館の広々とした広間にあっても、そこには、どこか言い知れない寂寥感が漂っています。夫人は、来る日も来る日もジグソーパズルで暇な時間を潰し、カーン氏もまた無為な日々を送っています。退屈し切っている夫人を楽しませるために数十台にも及ぶ車列を組んで豪勢なピクニックに出かけても、その心を満たすことはできず、遂に夫人はカーン氏を残して館を出て行ってしまうのです。

 

 本作品の最後には、カーン氏亡き後、カーン氏の身近で仕えていた執事が、カーン氏の奇妙な性質や行動を回想するシーンがあります。それは、カーン氏には、破壊衝動があるというものでした。夫人に置き去りにされた際も、怒り狂ったカーン氏が、凄まじく暴れまわり、部屋中のものを悉く破壊し尽くしてしまうのです。そして、同作品は、カーン氏が死を前にして残したいまわの言葉が映し出されて幕となります。’ローズ・バット’、それはその昔、銀行の’お世話人’が、雪深い寒村からカーン氏を連れてゆこうとする際に抵抗した同氏が、この’お世話係’を激しく叩いた’そり’の名であったのです(このシーンも、『東方見聞録』の最後にモンゴル族の源流としてエスキモー系の部族が野蛮な人々として紹介されているところを思い起こすと興味深い…)。

 

 おそらく、見る人が見れば、より多くの隠されたメッセージを同作品から読み取ることができるのでしょう。もっとも、映画館で鑑賞する一般の人々であっても、同映画から資本家というものが持つそれ固有の悲哀を感じ取ることができます。それが偶然の賜物であっても、莫大なお金さえあれば立派な教育を受け、名家とも縁組ができ、実力がなくても’名声’を得られ、大邸宅で豪奢な生活を送ることができます。資金力を以って市民派を気取って政治家となり、マスメディアを買収して経済や社会を動かし、さらなる投資で財産を増やすこともできるかもしれません。自尊心が強く利己的なカーン氏の専らの関心事は、自らの財産を増やし、マスメディアを操って自らが都合がよい方向に人々をコントロールし、あわよくば大統領や市長など、人々から礼賛されるポジションを得る事であったのでしょう。

 

 しかしながら、たとえ人々から一目も二目も置かれる存在となったとしても、カーン氏は、王家などの高貴な家柄でもなく、騎士道精神を発揮して命がけで領民を護る中世の貴族でもなく、自らの才覚で事業を起こしたわけではなく、’市民ケーン’の看板とは裏腹に真に’市民’の味方でも労働者の味方でもありません。その粗暴さや品性の欠如からしますと、根の性格は、子供の頃と変わりはなかったのでしょう。たとえマスメディが同氏の虚像を振りまき、慈善事業(偽善事業?)に熱心であったとしても、現実の世界にあってカーン氏が人々のために自らを犠牲にして働いたり、人々の生活を豊かにしたり、社会に役立つ仕事をしているわけではないのです。しかも、一部の運に恵まれた人々を除いては大富豪にはなれませんので、人々が、自らの将来を投影させて憧れるモデルともなり得ません。実態が伴わないのですから、カーン氏は、現実の社会からは遊離してしまい、誰からも心からの尊敬を得ることができないのです。大邸宅での侘しく孤独な生活こそ、これを象徴していると言えましょう。

 

 『市民ケーン』をカリカチュアとして見ますと、今日にあっても、それが発するメッセージは色褪せていないように思えます。幸せを得ることができなかった一人の資本家の生涯を描くことで、資本家がヒーローになれない理由をそれとなく語っているのですから。


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