万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日本国選手団のアフリカ系旗手起用を考える-一つしかないポスト

2021年07月26日 12時46分37秒 | 国際政治

 7月22日、混乱に次ぐ混乱の中で、東京では32回目となるオリンピック・パラリンピックの開会式が開催されました。開会式の入場行進には、世界各国の選手団の後に開催国の選手団が最後に入場する慣行があり、今回の大会でも、入場行進の最後を飾ったのは日本の選手団でした。国名を記したプラカードを手にした先導係の後に、選手団長と国旗を手にした旗手が続くのですが、自国開催となる今大会で旗手の大役を務めたのは、アフリカ系のハーフである八村塁選手でした。

 

 八村選手の父親はベナン人であり、母親は日本人ということなので、八村という姓名は母方に由来しているようです。育ったのは日本国内のようですが、現在では、アメリカのNBAで活躍していますので、大阪なおみ選手と同じく国際性に富んだ選手であるとは言えましょう。同選手の起用については、本大会のテーマは、いつの間にか’多様性と調和’に代わっておりますので、マスメディアは日本の多様化の象徴として絶賛しています。しかしながら、何故、日本選手団の旗手がアフリカ系なのか、腑に落ちない国民も少なくないはずです。そこで、本日の記事では、この違和感がどこから来るのかを分析してみたいと思います。

 

 違和感をもたらす第1の原因は、先ずもって、八村選手はアフリカ系ですので、その姿は一般の平均的な日本人とは自ずと違っているというものです。オリンピックとは国別の競技大会ですので、これは、視覚から生じる最も素朴で直感的な違和感です。日本選手団でありながら、日本人一般を代表しているようには見えないからです。逆に、アフリカ大陸の一国の選手団の旗手が、如何にも日本人らしい日本系の選手が務めていたとすれば、多くの人々は、同様の違和感を覚えることでしょう。おそらく、八村選手の人選に疑問を感じたのは、開催国の日本人のみではないのではないでしょうか。

 

 そして、違和感をさらに深めている第2の原因は、ポストが一つ、それも、国家を代表するようなポストである場合、多様性の尊重を基準に据えますと、人選は極めて困難となる点です。全ての人種や民族の血を引く選手など、そもそも存在しないのですから、多様性を象徴するような旗手を見つけ出すことは、不可能です。今日、日本国を含め、何れの国でも複数の人種や民族が程度の差こそあれ混在していますし、ハーフやクオーターなどの国民も珍しくはありません。しかしながら、たった一つのその国を代表するポストに誰を据えるのか、という問題になりますと、多様性の尊重は、むしろ、マジョリティー排除の方向に強力に作用してしまうのです。今日の国民国家体系は、一先ずは一民族一国家を原則としていますが、多様性の尊重を基準に人選を行いますと、その国を構成する主要民族の出身者は決して代表にはなれないのです(帰化や外国人との混血が条件となり、逆差別が生じる…)。今後とも、オリンピックにおける人選の基準が多様性の尊重のまま据え置かれますと、将来的には、どの国の旗手も、特定の人種や民族性を感じさせない選手がベストということになりましょう(もっとも、入場行進を見る限り、同基準は、日本国のみで採用されているわけではないのかもしれない…)。

 

 さらに第3の原因として挙げられるのは、多様性の尊重とは、必ずしも’融合’を意味しない点です。人類史において生じた様々な人種や民族の違いを尊重するならば、むしろ、血統的に最も純粋な人を選ぶ方が理に適っています。全体を俯瞰すれば、多様な人種や民族によって構成された、豊かな彩どりが見られるからです。今般のオリンピックで謳われている’多様性の尊重’とは、その実、人類の画一化に過ぎないのです(そもそも、多様性が失われて画一化されてしまいますと、調和も意味をなさなくなる…)。

 

 第4の原因は、差別反対を暗にアピールしつつ、特定の人種を優遇しているようにも見えることです。日本人とのハーフは、アフリカ系のハーフのみではありません。旗手にアフリカ系の選手を起用したことは、実際には、アフリカ系を優遇していることにもなりましょう。こうしたオリンピックに見られる人選の問題は、大阪なおみ選手を選出した最終聖火ランナーの人選においても際立っておりました。八村選手に大阪選手と続いて登場するのですから、日本国は、アフリカ系の国の一つになったかのような錯覚さえ世界に与えます。もっとも、大阪選手は、アメリカのBLM運動の熱心な支持者でもありますので、あるいは、バイデン大統領夫人の開会式出席を前にした、アメリカ民主党政権の意向を汲んだ政治的な人選であったのかもしれません。

 

何れにしましても、今般の東京オリンピック・パラリンピックは、国際社会に渦巻く様々な偽善、欺瞞、腐敗、そして矛盾を日本国民、並びに、全世界に見せつける形で幕を開けたように思えるのです。


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