万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

’デザインベビー’の盲点-子の’他人化’では?

2021年07月22日 13時06分35秒 | 国際政治

 今日、遺伝子工学は長足の進歩を遂げています。DNAの塩基配列の操作も自由自在であり、商品作物や家畜を見ても、遺伝子組み換え技術によって劇的に品質が向上した品種も少なくありません。テクノロジーの発展には際限がなく、遺伝子組み換え技術の先には、’ヒトの遺伝子組み換え’も見えています。親が遺伝子を選び、完璧な容姿と超人的な能力を備えた赤ちゃん、即ち、’デザインベビー’の誕生も夢ではないのです。

 

 親とは、できることならば、自らの子が容姿も端麗で才能にも恵まれ生まれてくることを望むものなのかもしれません(もっとも、この問題は、センシティブです…)。’デザイン・ベビー技術’とは、まさしく親の願望を実現してくれるのですから、同技術の実用化を待ち望む人も少なくないことでしょう。最近のカズオ・イシグロの作品は、AIがテーマであるものの、遺伝子改変が日常化した近未来が舞台となっているそうです。何れにしましても、今日の技術力からすれば、遠くない未来にあって’デザインベビー’は一般的な存在となっているかもしれないのです。

 

 その一方で、自由主義国の多くでは、ヒトを対象とした遺伝子操作は法律によって禁じられています。遺伝子の領域は神の領域とする観念が強いことに加え、ヒトの遺伝子を人為的に操作することは、出生前とはいえ、他人が他者の生命や身体に手を加えることになりますので、重大な人権侵害にもなりかねないからです。ここに、親の子に対する権利の問題も持ち上がってくるのですが、もう一つ、デザインベビーには盲点があるように思えます。それは、親による遺伝子操作とは、自分の子の’他人化’ではないか、というものです。

 

 近代以降の遺伝学は、今日に至るまで技術的な側面のみならず、生命に対する様々な仕組みを解明してきました。その一つは、遺伝子は、生殖細胞の減数分裂によって凡そ半数となるものの、両親から子へと受け継がれるというものです。言い換えますと、親子とは、遺伝子の継承によって繋がっていることとなりましょう。そして、このことは、親が子の遺伝子を改変してしまった場合、少なくともその改変部分に関しては、両親の何れの遺伝子をも引き継がない’他人’になってしまうことを意味します。つまり、遺伝子に’デザイン’を施した部分が多いほど、親子関係が薄れていってしまうのです。

 

 DNAの塩基配列の組み換えによって遺伝子の継承部分が減少した場合、果たして、親は、自らで設計しながらも、’デザインベビー’を自分の子として愛情を抱き、慈しんで育てるのでしょうか。親から見れば確かに子ではあるのですが、姿形には親と似たところがなく、長じれば、性格や物事の考え方まで親とは正反対となるかもしれません。もちろん、血の繋がりがなくとも親子の情というものは生まれるものですし、自然な親子でも、真逆の容姿や人格である場合も少なくありません。このため、決めつけることはできないのですが、中には、継父母の継子苛めに類するような児童虐待が増加する原因となるケースも予測されます。それとも、親は、デザイナーの立場となり、’デザイナーベビー’は、その’作品’として見なされるのでしょうか。後者の場合には、親は、子を自らの’作品’として’披露’したり、’展示’することに喜びを感じるかもしれません。

 

 また、富裕層のみならず、デザイナーベビーの技術が広く普及しますと、人類の画一化問題も起きてくることでしょう。何故ならば、誰もが容姿端麗、頭脳明晰、性質温和、かつ、様々な分野の才能に恵まれた子を望むとしますと、デザイナーベビーとして生まれてくる子供たちは、およそ同一の’優れた遺伝子’が組み込まれて生まれてくるものと想定されるからです。この結果、人類は、幾つかの’優れた遺伝子’の組み合わせでしかなくなり、遺伝子が平準化した人類の未来も見えてきます(もっとも、全人類が一人残らず優秀者のみによって構成されれば、戦争や犯罪、そして、陰湿な苛めや搾取等もなくなり、思いやりに満ちた平和で理性的な世界が出現する?)。あるいは、ファッションのデザインと同様にデザインベビーにも流行り廃れがあり、その外見や思考パターンから〇〇年代生まれのヒトと判断されてしまうのでしょうか。

 

 想像は尽きないのですが、何れにしましても、今日、人類は、自らをも改変してしまう高度なテクノロジーを手にしてしまいました。そして、政府もまたムーンショット計画を堂々と掲げるなど、カルト的なテクノロジー信仰に毒されています。この方向性が、果たして人類にとりまして望ましいのかどうか、一旦、立ち止まって考えてみる必要があるようにも思えるのです。テクノロジーとは、不可逆的な破壊力ともなりかねないのですから。


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