空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

馬酔木(琉球)を植えました。 

2025-03-07 | 花だより

 

おじいちゃんの椿が咲いた。一番花

園芸が趣味の友人のおじいちゃんに小さな挿し木を頂いた椿。もう塀を超えるほどに育った。

 

 

あれちょっと変わっているとは思ったが、白い馬酔木が枯れたので買ってきた。

なんか違うと思って調べると、これは琉球原産の馬酔木で、絶滅危惧種だという。

そんな貴重品種だったらやたらに売ってもいいのかな。白い馬酔木は田舎の山に沢山咲いていた。

叔父の山は植林した後に沢山育って馬酔木山のようだと言っていたが、しばらくしていくと

夜のうちに掘られてしまって、というほど数が減ってしまっていた。

毒があるということだったが白いつぼ型の花は可愛らしくてもらって庭に植えていたが

枯れてしまった。崖などに咲く少し乾き気味のところがいいらしい、水撒きをしすぎたかも。

山を歩いていると背丈を越すように伸びている。かわいいなぁと思って代わりに植えたのが琉球生まれの赤いガクの花だった。

花時なのだろうか、元気よく咲いているので直植えにした。日が当たるところの方がいいのかな?

様子を見てみよう。

 

 

堀辰雄全集を読んだのは中学生の頃で、私にもあった多感な時代にw、美しい風景描写ともの悲しい

物語やッセイを読んで一時頭から離れなくなった。クラブの休みにチームで出かけるなら広いお寺が

都合がよく。時々お弁当をもって、遠足のような気分で一日鬼ごっこやキャッチボールをしていた。

早春の観心寺は梅や乙女椿が咲きだしていた。唐招提寺の横には田んぼが広がり、薬師寺の横の

線路はススキが銀色に光っていた。

その頃は今のようにお寺の敷地が囲い込まれていなくて、まわりの農地に続いているような所が

多かった。

都との境にある「浄瑠璃寺」や「岩船寺」はそのころ健脚だったから歩けたようなもので、

今では車がないといけなくなった。堀さんご夫妻も徒歩で訪ねられたと書いてある。

みんなしばらく子育て時期は遠ざかっていたが、また気分転換が欲しい年になった。


今年は特に春を待っていた。なぜか浄瑠璃寺の馬酔木の頃には行ったことがなかった。浄瑠璃寺は

秋でしょうと周りがいうので、私も秋にはたびたび訪れ、春の機会を逃していたが、道路が

整備されたので時間もかからずいけるようになった。

平安、鎌倉の時代から戦火を逃れてきた建物は市街から随分離れた所にあってひっそりと寂れて

古びているが、長い歴史を思うと遠くて近い人の営みの祈りや願いが今でも感じられる。


私は神も仏も実感できてはいないし、祈りは心に向かって唱えるのだとか理屈を並べて、

縁なき衆生に近いけれど、古い裳階の形や屋根の優美な曲線や、並んでいる仏様の顔を見ると何か

畏れのような気持が湧いてくる。

こうして庶民の願いや希望や歓びや嘆きの声を聴きながら仏たちは祈りの声を静かにそっとあずかって

きたのかと思うと、長い歴史の中の庶民の暮らしの重みを感じる。

人はそれぞれ違った心の形を自分の中に持っている、疲れた時は、やはりここで祈って、荷物を預けて

帰るのだろうか。
 
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで

見ることができた。 

そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた

蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような

旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな

門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。

いつ来ても参道の入り口にお土産の店があり、雑器や秘仏のレプリカや自家製の梅干しや漬物を

売っている。


記念に小さな陶器の置物を買って帰る。

傍らに花さいている馬酔木(あしび)よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった

椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも

愉(たの)しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼(な)きごえの聞えてくる七面鳥、

――そういう此のあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅して

わずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、

それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら

――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴(ひそう)

な懐古的気分を漂わせている。


 自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、

いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかの

ように、融(と)け込(こ)んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって

――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのでは

ないか? ――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりの考えであったろう)

いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じで同意せられる。……

 

2017.04.02 gooブログ再掲

 

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